検地役人、加藤弥兵衛
慶安二年(1645)、陸奥白河藩から姫路入りした榊原忠次の頃には、播磨南部を中心として新田の開発が盛んに進められました。
当地方も万治4年(1661)に、「新田の開拓許可状」(写真上)が出ました。
そして、姫路藩は新田開拓を進めるための後援を惜しみませんでした。
新田が完成し、検地役人により新田の高などが決められました。
もちろん、村にとって高の査定は少ない方がよいのですが、藩にとっては、その反対になります。
そのため、姫路藩の役人と百姓との駆け引きがありました。
加古新村でも、このころ新田・畑が開発され、役人は収穫高をきめました。
明細帳等には検地に当たった役人の名が記録されている。
万治4年の開拓許可証にある役人のうち右から3人目の加藤弥兵衛に注目してください。
彼は、播磨地方南部の各村々の検地にしばしば登場します。
万治4年の許可証については『稲美町史』(p157~159)に詳しいのでご覧ください。
加藤弥兵衛、自刃す
伝承によれば、寛文年間、米田新田の開発が完成し、検地が行われた際、弥兵衛は検地におもむき、貧しい百姓のために寛大な措置をとりました。
百姓にはよろこばれたが、役人として責任を感じ、帰路、籠の中で切腹したと言われています。
村人は、これを悲しんで米田に碑(写真下)をたてました。
弥兵衛は、藩財政の窮乏を新田開発で切り抜けようとした藩政担当者と農民との間に板ばさみになった犠牲者であったのかもしれません。
時代は時として、北条直正のような人物を育てます。加藤弥兵衛もそんな一人だったのでしょう。