『播磨風土記』が作られた奈良時代、八幡・神野地方は、望理里(まがりのさと)と呼ばれた。
風土記の一部を読んでおきたい。
・・・景行天皇(けいこうてんのう)が巡幸の時、この村の川の流れが曲がっているのを見て「この川の曲がり具合は、はなはだ美しい」と仰せられた。それで、この地を「望理里」という・・・
加古川は、今も美嚢川(みのがわ)と加古川が合流点あたりから、流れは西に弧を描きながら流れている。
『播磨風土記』が書かれた奈良時代、この辺りの流れは現在の流れと大きく異なっていたようである。
加古川は、宗佐(そうさ)の辺りから、国包(くにかね)の東を流れ、船町・下村のあたりから流路を変え、中西条の西に流れていたと考えられる。
八幡地区は、加古川が大きく曲がった東岸の地域に広がった、まさに「曲がりの里」であった。
山頂から眺めた望理里は、まさに絶景であったことであろう。
景行天皇ならずとも感激したに違いない。
「しかし」とその後を続けなければならない。
古代より加古川は、暴れ川である。
大きな台風、それに長雨の時など、加古川はきまって洪水を引きおこした。水は、まっすぐに流れようとする。
望理里は、まさに洪水の直撃をくらう地域でもあった。
そんな証拠が地図に残されている。明日のブログでは、それを見たい。
*『加古川の流れ(建設省近畿地方建設局・姫路工事事務所)』(1975)参照
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