ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

八幡町探訪:望理里(まがりのさと)

2007-03-28 10:23:40 |  ・加古川市八幡町

661d2871_1   『播磨風土記』が作られた奈良時代、八幡・神野地方は、望理里(まがりのさと)と呼ばれた。

  風土記の一部を読んでおきたい。

  ・・・景行天皇(けいこうてんのう)が巡幸の時、この村の川の流れが曲がっているのを見て「この川の曲がり具合は、はなはだ美しい」と仰せられた。それで、この地を「望理里」という・・・

  加古川は、今も美嚢川(みのがわ)と加古川が合流点あたりから、流れは西に弧を描きながら流れている。

  『播磨風土記』が書かれた奈良時代、この辺りの流れは現在の流れと大きく異なっていたようである。

  加古川は、宗佐(そうさ)の辺りから、国包(くにかね)の東を流れ、船町・下村のあたりから流路を変え、中西条の西に流れていたと考えられる。

  八幡地区は、加古川が大きく曲がった東岸の地域に広がった、まさに「曲がりの里」であった。

  山頂から眺めた望理里は、まさに絶景であったことであろう。

  景行天皇ならずとも感激したに違いない。

  「しかし」とその後を続けなければならない。

  古代より加古川は、暴れ川である。

  大きな台風、それに長雨の時など、加古川はきまって洪水を引きおこした。水は、まっすぐに流れようとする。

  望理里は、まさに洪水の直撃をくらう地域でもあった。

  そんな証拠が地図に残されている。明日のブログでは、それを見たい。

*『加古川の流れ(建設省近畿地方建設局・姫路工事事務所)』(1975)参照

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