JR加古川駅は、すっかり装いを変えた。新しくなる前の駅舎の入り口に向かって少し左に、比較的大きな「加古川駅」(写真)があった。
この標柱の南面に、次の文字が刻んである。
西国街道播磨国
加古郡加古川駅
加古川駅ができたのは、明治21年(1888)で、標柱はこの加古川駅のものではない。
西国街道と言うのであるから、江戸時代のものである。
(現在、この標柱は工事のため移動して保管されている)
江戸時代、加古川の駅(人馬継立問屋場)は、陣屋の東隣にあった。
とすれば、この標柱は、そこから北のどこかにあったことになるが、元あった場所は分からない。
寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川市加古川町中津)あたりの道沿いにあったのではないかと想像する・・・
7世紀、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道が整備された。
山陽道は加古川を通り、野口には「賀古の駅(かこのうまや)」がおかれた。(賀古の駅については、昨年9月29日のブログを参照ください)
鎌倉時代には交通の要所としての駅は、野口から寺家町へ移ったようである。
特に、江戸時代、加古川の宿の人馬継立問屋場(といやば)、つまり加古川の駅は大いに栄えた。
大がかりの輸送業務が重なったときには、戦場のような大騒ぎになったという。
*「問屋場の風景」は、加古川宿サロンの岡田義治氏作制の「文(分)岸寺慕情図絵」より、問屋場で荷駄の引継ぎをする人足。
◇お詫び◇ 昨日のブログで常住寺がプラザ・ホテルの場所から現在の場所に移ったのは昭和29年と書いたが、59年の誤りです。(今朝、誤り気がつき訂正しました)