『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とある。
かなりの大社であったようだ。
*神宮寺・・・神仏混交の考え方で、神社に奉仕するために建てられた寺。
泊神社の氏子に注目したい。
泊神社の氏子は地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていた。
木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していた。記録にはないが泊神社(木村)は、もともと加古川の右岸にあったのであろう。
(印南郡、加古郡そして加古川の流路については、2月8・9日のブログ・「分岸寺川」をご覧ください)
「泊」は港(水門・みなと)を意味する。
『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという。
研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定している。
泊神社は地域の氏神であり、古代の港(水門)の守護神であったと考えられる。
さらに、 『加古川市史(第一巻)』は、「・・・紀伊の国懸(くにかかす)大神を勧請したり、境内社に熊野神社・住吉神社・島姫神などを祀っていることからも、当社が熊野衆、その他海賊たちと深い関わりを持っていたことが暗示していると思われる」と記している。
松林、港そして神社の風景が目に浮かぶ。泊神社は潮風のにあう神社であった・・
*『加古川市史(第一巻)』参照。「鹿子の水門」については、1月4日のブログをご覧ください。