ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町探訪:分岸寺川界隈

2007-03-06 08:04:16 |  ・加古川市加古川町

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    今日も、昨日に続き、「加古川宿サロン」の岡田義治さんの絵(一部)をみたい。

(絵:文岸寺川慕情図絵)

  江戸時代の陣屋界隈の風景である。

  ブログ(本陣:2月7日、分岸寺川:8日、陣屋:12日、山陽巡行:13日)の復習をしたい。

  この絵図とあわせ、ご覧ください。

(図中の数字)

  1 人馬継立の問屋場   2 御高札場   3 陣屋   

  4 文(分)岸寺川の石橋  5 唐人薬師堂  6 芝居小屋

  なお、数字「3」の陣屋以外の施設は現在残っていない。陣屋(加古川市加古川町寺家町)は、現在の「人形の店・陣屋」ではなく、その奥にある樹悳堂(じゅとくどう)がそれである。

  なお、明治22年まで、加古郡と印南郡は、絵図の文(分)岸寺川で分かれていた。右:加古郡、左:印南郡。

  説明は以上である。余分な説明はイメージを壊す。

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加古川町探訪:加古川の渡し

2007-03-05 09:11:18 |  ・加古川市加古川町

B9a440f3_8    「加古川町探訪」は氷丘地区で足踏みをしている。少し話題を変えたい。

  江戸時代、西国街道を陣屋(寺家町)辺りからさらに西へ行くと、加古川の渡場に着いた。

  姫路城防衛のため、加古川には橋が架けられていない。渡河には渡し舟を使った。

  『加古川市史(第二巻)』に「十二景詩歌」より、加古川の渡し場の風景がある。

  なお、今日のブログの絵は「加古川サロン」(加古川市加古川町本町)の岡田義治さんが「十二景詩歌」をもとに描かれたものである。(紙面の都合で、絵はその一部)

  渡し場のそばに粗末な小屋があり、馬子や駕籠かき、そして何人かの商人が描かれている。

  この絵から、当時(江戸時代後期)の加古川の渡し場の風景が想像できる。

加古川の渡しは、あまり賑わいのある渡し場ではなかったようである。

*岡田義治さんは、外にも「加古川の宿」を描かれている。引き続き紹介したい。

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加古川町探訪:同笵鏡(どうはんきょう)

2007-03-04 10:15:30 |  ・加古川市加古川町

5cd7d567    日岡山の古墳から3枚の神獣鏡(しんじゅうきょう)が出土している。

  これら神獣鏡は「同笵鏡(どうはんきょう)」である。

  耳慣れない言葉であるが「同笵鏡」とは同じ鋳型でつくられた鏡のことで、この「笵同鏡」を研究している歴史学者は、次のように結論づけている。

  力を持った豪族が、同盟関係を結んだ印として他の豪族に与えたものである。

  従って、同笵鏡の分布状態を調べることにより当時の勢力関係が分かる。

  日岡山の豪族は、どうやら大和の豪族からこの鏡を与えられたようである。

  そうすると、4・5世紀の頃、日岡豪族は大和の豪族の勢力下にあった。

  日岡豪族にとっては、大和の豪族と同盟関係をむすぶ必要があった。

  というのは、自分たちと大和の豪族が結びつくことにより権威を高めることができる。

  そして、何よりもこの地方が攻撃を受けた時、大和から援軍を求める必要があった。

  加古川地方は、大和とそれに対する出雲・吉備地方との接点にあり、絶えず自らの軍事力を必要とした。

  日岡山の伝説には、天皇の話がしばしば登場する。これはこの地方が大和と強く結びついていたためだろうと考えられる。

*写真は東車塚古墳(加古川市加古川町大野)出土の三角縁三神二獣鏡。

 東車塚古墳は、現在の加古川刑務所内にあったが、戦前ここに弾薬庫(神野倉庫)が建設され、それにともない壊された。

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加古川町探訪:氷丘村役場

2007-03-03 07:43:57 |  ・加古川市加古川町

32fb91d0   昨年、7月8日のブログ(日岡 VS 氷丘)の一部を読んでおきたい。

  ・・・明治22年4月1日、中津村・河原村・溝ノ口村・美乃利村・平の村が合併して「ヒオカ村」が誕生した。

  この時、「日岡山」にちなみ村の名前も決められた。なぜか「氷丘」の文字を採用した。

  当時の記録は残っていない。理由は分からない・・・

  氷丘村役場は中津(右図の赤く塗った場所:中央の広い道は、県道加古川・小野線)におかれた。

  残念なことに、記録類が全く残っていない。村名が決められた経過だけでなく、その他の詳細もわからない。

  村役場の写真は、『大野史誌』(大野町内会発行)にある。

  昭和12年(1937)、加古川町と合併するまでに7人が村長を勤めた。

_351   二代村長の吉田喜代松は、明治29年から38年の間、村長をつとめ、その後県会議員に転進した。

  大野村は、彼の功績をたたえ、大正6年3月に銅像を建立した。

  しかし、昭和18年(1943)、太平洋戦争の戦事用金属として彼の像は供出され、銅像跡(写真)だけが常樂寺(加古川市加古川町大野:日岡神社の東隣)の境内に残っている。

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加古川町探訪:天之御中主神社(溝ノ口)

2007-03-02 09:56:03 |  ・加古川市加古川町

_370_1    先日、JR加古川駅のすぐ北にある神社に寄った。

  「天之御中主神社(あめのみなかみぬしじんじゃ)」(写真)とある。

  溝ノ口(加古川市加古川町溝ノ口)の人は、この神社を「妙見さん」と呼んでいる。

  私の知っている溝ノ口の「妙見さん」は、古くて、壊れそうな神社である。

  以前ここを訪ねたのは、もう約20年もまえになる。

  加古川駅の再開発にともない、ピカピカの神社に変身していた。

  これが人なら、「まあ!ずいぶん若く、綺麗になって・・・・」と言ってしまいそうである。

  神社も、周りの風景もまるで、変わってしまった。

  溝ノ口に住むNさんは、子供のころの思い出として、次のように話してくださった。

  (*以下、20年ほど前に取材した時の記録である)

  ○春・夏の祭の頃は、小学生の子どもが太鼓をかついで、その後を数人がゾロゾロ歩き、「妙見さんの祭」であることを村中にふれてまわった。

  ○夏祭りの「湯立て」では、その湯がかかると「あせも」ができないと、神主さんがササでかける湯を浴びた。

  ○毎年6月の終わりごろ、虫送りがあり、「たいまつ」を燃やして、あぜ道を間形の権現さんまで行った。

  ピカピカ」の神社の周りから、春・夏の太鼓の音が消えた。「湯立て」の人々のざわめきもない。そして、虫送りの松明(たいまつ)の光も消えてしまった。

  車だけが、排気ガスを残して走り去る。

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加古川町探訪:JR(旧・国鉄)加古川線

2007-03-01 08:29:20 |  ・加古川市加古川町

173a383c    JR加古川駅はすっかり装いを変えた。特に、駅裏は、かつての面影がない。

  駅北の駅用地内に、わずかばかりの木の中に、小さな稲荷神社が、忘れられたようにあった。

  その神社の両脇に石灯篭があり、「播州鉄道株式会社社員一同」と刻んであった。

  この場所を訪れたのは15年ほど前のことだ。

  整備にともない、神社は壊されたらしい。もちろん石灯籠もない。ご存知の方は教えていただきたい。

  「播州鉄道]は、大正二年(1913)に加古川~西脇・北条間(南は高砂間)で開業した。

  しかし、開業後まもなく経営難になり、さらに第一次世界大戦後の不況が、追い討ちをかけた。

  やがて、「播州鉄道」は、大正十二年(1923)経営陣もかわり、社名も「播但鉄道」として再スタートをした。

  ひにくなことに、この頃から利用者は増え、経営も順調に伸び、地域の重要な足となった。

  時代は、太平洋戦争に突入した。「播但鉄道」は、国鉄に買収され、さらに国鉄民営化の中で、JR加古川線となり現在に至っている。

  今日も、加古川線をカラフルな車両が走る。一見けばけばしい車体のデザインも、すっかり風景の一部となっているようだ。

*写真:播州鉄道株式会社・一部(『写真集・加古川』玉岡松一郎編著)より

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