ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

八幡町探訪:寛延一揆①・沼田平九郎

2007-04-13 09:31:10 |  ・加古川市八幡町

2cff2f9a   『寛延一揆」は、寛延二年(1749)正月から二月にかけて起こった。

  この一揆は、その規模の大きさ、後世への影響から見て、姫路藩政史上最大の農民闘争であったといえる。

  火の手は、野谷新村(現:加古郡稲美町)からはじまった。

  野谷新村の伊左衛門(いざえもん)は、五人組の頭を勤めていた。

  彼は、日ごろから豊かでない村への御用金や年貢の増加に反発していた。

  野谷新村は、西条組大庄屋・沼田平九郎(現:加古川市八幡町中西条)の支配下にあった。

  平九郎は、かねてから、あまりにも藩に追従しているという風聞があった。平九郎に対する不満が、「平九郎宅を打ち壊せ・・」という機運へと高まっていた。

  このような平九郎に対する不満は、本来は西条組だけの問題であるはずなのに、他の組の村々からも非難されていた。よほど目立った存在であったのだろう。

  寛延二年の正月・10日頃から「西条組大庄屋を討ち潰すべし・・」という張り紙があちこちで張り出された。

  正月16日七ッ時(午後4時ごろ)村々で早鐘がならされ、大勢の人々が鳶口や熊手を持って押し寄せた。

  まもなく、平九郎宅は散々にうちつぶされた。

  この打ち壊し計画の中心は伊左衛門であった。

  姫路全般一揆は、平九郎宅打ちこわしという一件から姫路藩を揺るがす全藩一揆へと広がった。

  一揆の後には厳しい取調べがあった。

  明日のブログでは、全般一揆の背景と経過を見たい。

*『加古川市史(第二巻)』、『加古の流れ』(加古川市史編さん室)、『マンガ・日本の歴史』(中央公論社)参照

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八幡町探訪:法華塔(下村)

2007-04-12 08:19:43 |  ・加古川市八幡町

_440   1830年12月、文政から天保へと年号が変えられた。

  天災が続くので、縁起をかついでのことだったが、皮肉なことに天保年間(1830~43)は、天候不順・凶作と飢饉の時期となった。

  とくに、天保四年(1833)以来ひどい気候不順・凶作・米価暴騰、ひいては飢饉がつづき、天保七・八年は頂点を迎えた。

  京都や大坂でさえ、餓死者がでた。

  下村(加古川市八幡町)でも、事情は同じで、さらに悪いことにハヤリ病が流行した。

  村人は困り果て、この「法華塔」(ほっけとう)を建て祈祷した。

  不思議なことに、それ以来悪疫はやんだという。

  明治30年(1897)、再びこの地に悪疫が大流行した。

  村人は、天保のころの出来事を覚えていた。法華塔を清掃し、祈祷をした。

  明治30年のようすを平岡町中野に残る記録から、その状況を見ておきたい。

  「・・・60歳になる老人も、今年のような大不作は初めてという。

  原因はウンカが異常に発生し、十分に予防できなかったため大不作になった。

  その上、加古川の堤防が、大雨のために破損し家屋も流れた・・・」と記録している。

  下村とても状況は同じだったことだろう。

  なお、法華塔が建てられたのは天保九年(1838)八月のことである。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)、『中野村坪狩記録』(加古川市史編さん室)参照。

  

 

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八幡町探訪:鬼子母神(下村の伝承)

2007-04-11 08:50:54 |  ・加古川市八幡町

Fa3ff058     子どもが消えた。これで五人目である。

  村人は、「きっと鬼だ。神出鬼没の鬼が子どもをさらったに違いない」とささやきあった。

  不思議なことが続いている。

  北風の吹く夜、村はずれの水車小屋の近くに美しい女がさびしげに立っていた。

  若者は、その女の後をついていった。立派な家に着き、風呂にも入れてもらって気持ちがよくなり眠りこんだ。

  寒気を感じて目を覚ますと、山の中の肥壷にいた。こんなことが幾度かあった。

  子どもは、依然として帰ってこなかった。

  「これは、あの鬼の仕業に違いない」と村の修験者が、夜鬼を待った。鬼は出てこない。

  ただ、美しい女が現れた。「鬼が女に化けているに違いない」と女の後をつけた。

  女は、上西条、中西条の村を越え、城山(じょやま)に消えた。

  修験者は、城山にひそんだ。

  夜半、女の足音と子どものすすり泣きが聞こえてきた。飛び出したが誰の姿もなかった。

  「鬼子母神(きしぼじん)が子どもを食うという話を聞いたことがあるが、鬼子母神がこの山に住んでいるのではないか」と修験者は思った。

  修験者は、村の衆と相談して村の寺(萬福寺)の一角に鬼子母神を祀る祠を造った。

  その後、子どもたちはさらわれなくなったと言う。

  こんな話が、下村(加古川市八幡町)に伝わる。

  昨日のブログ「ちいさな地蔵」の水車場のあった場所と「鬼子母神(美しいて女)」の現れた場所が重なる。悲しい歴史が形を変え語られたのかもしれない。

*『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照

  

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八幡町探訪:小さな地蔵

2007-04-10 08:49:37 |  ・加古川市八幡町

_441   下村(加古川市八幡町)の中ほどに、地蔵堂がる。

  その前の道に沿って、西へ50メートルばかり行くと、溝は北へ折れて流れる。

  そこに30センチほどの小さなお地蔵さん(写真)がある。

  このお地蔵さんについて、本岡豊二さんは『ふるさと・やはた』に、次のような文を寄せておられる。

  ・・・そこは(お地蔵さんがある場所)4~5メートルの落差があって、小さな滝になっている。

  60年ほど前(この原稿は、昭和59年に書かれている)水流も豊富で、水車で米つきをする水車小屋があった。

  大雨の時など、竹のスを張って「川がに」等をとっていた人々の姿が懐かしい。

  その滝付近の護岸工事の際、石垣の下から小さなお地蔵さんが発掘された。・・・赤子を抱いているようにも見え、お乳を飲ませているようにも見える。

  子供のころ、祖母からトンドの捨て子という昔話を時々聞かされた。

  (トンド・ドンドは、流れの急な場所で、水が音を立てて流れている場所を指している。トンドは水の流れの音であろう)

  「・・昔、子捨て場であったそうな・・」という言い伝えを知る人も多い。そんな昔話もあるいは本当でないかと思われる。

  昨日、このお地蔵さんを訪ねた。お地蔵さんは、昔の悲しい村の物語を語り出しそうだった。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照

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八幡町探訪:国包の渡し

2007-04-09 08:27:25 |  ・加古川市八幡町

_414

  国包は、京都から伊丹へ、そして有馬・三木そして加古川市志方・姫路を通る街道「湯之山街道」と加古川の水運が交わる場所にあった。

  そのため、農村部にありながら商工業がさかんで、古くから唐箕(とうみ)や建具などの産業が栄えた。

  上流から良材が筏に組んで運ばれたためである。

  そして、家具は、姫路・加古川・高砂に船で運ばれた。国包は川と街道の交わる交わる場所にあった。

  しかし、江戸時代は、加古川には姫路の町の防衛上橋がなかった。

  国包を通る街道が加古川に突き当たるところに、渡し場が設けられた。

  その後も、橋は架けられていない。

  今、渡し場のあった場所は、整備され、その跡は全くないが、渡し場のあった場所に、写真のような説明(写真上)とその脇にプレート(写真下)が設置されている。

_415_1   あるお年寄りは、「国包の側に船頭の小屋があって、小さい窓があり、お客があると覗いて船を出した。多いときは一そうに十人ほど乗せて運んだ」

  またある人は、「昭和21年に渡しを通って嫁に来たが、4・5年のうちに渡しは消えていました」と語っておられる。

*『東播磨研究(2)』(東播磨地域調査会)参照

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八幡町探訪:加古新村の誕生

2007-04-08 08:44:27 |  ・加古川市八幡町

_430   昨日のブログ、「大家(本岡家)」の続きを書きたい。

  江戸時代のはじめ、印南野台地には、広大な原野が残っていた。

  この原野の開拓について『加古新村由来記』は、次のように記している。

  中西条村(加古川市八幡町中西条)の才兵衛は26才の時から、庄屋を勤めていた。

  村の東の広大な原野の開拓を考え、3年間、麦・稗・大豆・小豆などを植え、低いところには、稲の種を蒔いたところ実を結んだ。

  さらに3年間、実際に住んで寒暑に耐えられることも確かめた。

  才兵衛は、上西条の喜平次に台地の開拓を説いた。

  喜平次も賛同したが、開拓のための資金が足りない。

  才兵衛は下村の治兵衛(下村の本岡家の四代目の当主)に相談した。

  彼も同意し、三人は印南野台地の開拓を固く誓い合った。

  姫路藩に開拓の願いを大庄屋を通じ出したが許可されなかった。再度願い出た。

  ついに、許可になり、さらに姫路藩からの援助も得ることができた。

  藩から、新しい村の名前を問われた。

  才兵衛は、「加古の二字は、才兵衛の祖先よりの苗字のため“加古新村”と名づけたい」と答えたところ、「苗字を村名にすることはできない」と認められなかった。

  そこで、才兵衛は、加古新村では「沢」の名前に改めると述べ、村名を「加古新村」と名づけることを許された。

  入村する者には、藩から材木・竹木・米の支給もあった。

  才兵衛・治兵衛・喜平次は、「頭百姓(とうびゃくしょう)」として村に居住した。

  開発がはじまって6~7年のうちに家数163軒、人口800人あまりの村となった。

  延宝八年(1680)、上西条の氏神・八幡宮を加古新村に勧請した。

  加古大池の側の神社(写真)がそれである。

*『稲美町の歴史』(伊賀なほゑ)、『稲美町史』(稲美町史編集委員会)参照

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八幡町探訪:大家(本岡家)

2007-04-07 09:18:45 |  ・加古川市八幡町

_421   八幡町下村に大家(おおや)という、近在に知られた旧家があった。

  一目で分かる杉の生垣のある大きな家であった。

  大家は、元禄7年(1694)に建てられたもので、江戸時代前期の住宅構造を知る上で貴重な建築で、「県指定文化財」に指定されている。

  八代当主の本岡嘉平治の時、大工船町八左衛門が建てた、と棟札に記されている。

  大家(本岡家)には、当時の農家にしてはめずらしい平書院、長押などが配置されている。

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  土間(写真下)は、竹の簀子(すのこ)天井で豪快な梁が縦横にとおり、上が「つし」である。

  (つし・・農家で天井や屋根の下につくった物置部屋)

  本岡家は、「元、越中・越前に所領を持った武士であったが、同地方に猛威をふるった一揆の鎮圧に失敗し、帰農を決意し、姻戚の野村城主(八幡城野村)をたよって、わずかな郎党とともに、この地に落ちのびた」と伝えられている。

  四代当主、本岡治兵衛は、万治元年(1658)上西条・喜平次、中西条・才兵衛とともに、印南野の開発に当たった。

  寛文元年(1661)、藩の許可を受け、近郷の住民を指導し、ついに百十一町歩あまりを開拓した。

  現在、大家(本岡家)は保存のため、加古川少年自然の家のキャンプ場の奥に移築されている。

  *『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)、『加古川市史(第七巻)』参照

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八幡町探訪:亀の井用水

2007-04-06 10:31:22 |  ・加古川市八幡町

_412   国包(くにかね・加古川市上荘町)は、5日も日照が続くと、ツルベで朝夕灌漑をしなければならず、他の村から嫁入りが嫌われていたという。

  そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門が美嚢川(みのがわ・三木市)が加古川に出る手前から取水するために堰をつくった。

  この用水は、国包村、船町それに宗佐村の畑地を潤し、水田化するためのものだった。

  井堰の構造が割石を亀の背中のように丸く積み上げたっことから、堰は「亀の井堰」、用水は「亀の井用水」と呼ばれるようになったという。

 3c360966_1                              現在、石組みはなくなり、写真のようにコンクリートの堰に変わっている。

  取水方法も変わった。

  上の堰の写真を見て欲しい。

  堰の手前に説明板がある。ここに上記のような説明がある。

  一度訪ねて欲しい。

  なお、国包は上荘町ではあるが、八幡町に含めて紹介した。

*『兵庫のため池誌』(兵庫県農林水産部農地整備課)参照

 写真上:亀の井堰、下:赤く塗った所が亀の井用水の受益地域

  

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八幡町探訪:下村困窮す

2007-04-05 09:33:07 |  ・加古川市八幡町

_394  八幡町下村に熊尾山萬福寺という曹洞宗のお寺がある。

  ここの墓地に、昔日の功績をたたえた碑がある。 下村の、本岡豊二さんは、『ふるさと・やはた』で、その墓誌を記録されている。

  史料としてここに転載させていただきたい。

  「一山突句居士」

  「榊原式部大輔守、於播磨姫路之城時、郡司、冨塚久衛門者性慈愍而乎一切。殊、救援当村困窮故感謝、今也。建乎墓誌以表於報恩之信維、時、元禄十六年葵末八月十一日 加古下村黔首等首」

  内容は、「延宝年間(1673~81)当地方は、凶作で大飢饉に困窮した。

_397_1

  年貢米はおろか、生活にも事欠いた農民の困窮を知った城の郡担当役人の冨塚久衛門は、城主に上奏し、二年間の年貢米取立ての中止の措置をとった。

  庄屋以下農民は、こぞってその慈悲に感謝した。

  その後、延宝九年冨塚久衛門は逝去したが、住民一同は感謝を表すために元禄十六年八月に、この碑を建て供養した」というものである。

  延宝年間、ある記録によれば、当地方は、「延宝2年、70年来の大洪水、同4年、大洪水、それに旱魃に苦しむ・・」とある。

  当時の苦しい農民の生活のようすが浮かぶ。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照。写真は、墓碑(上)と萬福寺(下)

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八幡町探訪:猫池の伝説

2007-04-04 08:00:35 |  ・加古川市八幡町

_403   望塚(ぼんづか)のすぐ近くに「猫池」がある。

  八幡町上西条・中西条は、加古川に近いにもかかわらず十分な水が得られなかった。

  そのため、村の南の印南野台地のくぼ地に池を造り、その水を使っていた。

  猫池は、享禄4年(1531)、当時の沼田若九郎等が指導し、村人と共に造ったと伝えられている。

  猫池の水は、その後上西条・中西条に大きな恵をあたえた。

  しかし、台風や大雨の時には、しばしば堤防が切れ、田畑や民家を押し流した。

  Db88e34d                        いつしか、猫池に伝説が生まれた。

  村人は、堤防が切れない方法はないかと考えたが、いい考えが浮かばない。「人柱を・・・」という意見もあった。

  そんな時である。「猫を堤に埋めると堤が切れなくなるであろう・・・」という神のお告げがあった。

  そこで、猫八匹を堤防に埋め、大がかりな工事を完成させた。

  以来450年間、堤防は切れることなく満々と水をたたえていると云う。

  もっとも、猫池は形があたかも猫が横たわっているようにみえる。そのため、いつの頃からか人々は、猫池と呼ぶようになったと思われる。

  猫池の伝説は後から作られたものだろう。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照、写真は猫池。

 

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八幡町探訪:望塚(ぼんづか)危うし!

2007-04-03 09:00:04 |  ・加古川市八幡町

_405    望塚(ぼんづか)は、印南台地が八幡町町野村の手前から城山(じょやま・加古川市神野町)に向かって舌のように伸びた台地上にある。

  所在地は、加古川市八幡町上西条字東沢である。

  高さ5mほどの円丘の高まりを削ったところ、底の近いところから銅鐸(どうたく・弥生時代の金属器)がみつかった。

  銅鐸の発見は、市内ではこの一例のみである。

  『加古のながれ』は、「農耕儀礼に用いられた祭器で、春の種まきや秋の収穫といった節目に鳴らして地霊をまねき、豊穣を祈ったり、感謝をささげたのであろう」

  また、「上西条では、盆の行事として、8月15日の夜、松明(たいまつ)を手に行列をつくり、ボンドノイニャレノ、マタコンドゴザレー、と鉦の音にあわせ高唱し、この場所で精霊おくりをした。望塚の名もそれに由来する」と説明している。

7972f292   昨日、望塚へ行ってみた。なかなか、みつからなかった。20年ほど前に一度訪ねたことがあるので、大体の場所はわかったつもりでいた。

  見当をつけていた場所から30分ばかり歩いた。見つからなかった。

  農作業の人に聞いてみるとそこは大日山(下村)だという。望塚を通り過ごしていた。引き返してみたが見つからない。

  ウロウロすることまた30分、やっと発見した。

  見つからなかったはずである。塚の近くでブルトーザーがウナリをたてていた。

  掘り出した土砂が、望塚近くで壁をつくり、塚を隠したようになっていた。

  ここは、小野バイパスと国道2号線を結ぶ東播磨南北道路の予定地であり、計画では、(仮称)第2ランプの場所に当たっている。

  このままでは望塚は削られ姿を消してしまうのではないだろうか。工事は急ピッチで進んでいる。

  望塚危うし!

*『加古の流れ』(加古川市史編さん室)参照、写真上:望塚

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八幡町探訪:宮山遺跡

2007-04-02 09:36:49 |  ・加古川市八幡町

_536   天満大池に沿った西の道(県道宗佐・土山線)を北へ自動車を進めると、やがて加古大池の西に出る。

  さらに、行くと八幡町野村の手前で、道は坂をつくって八幡町へと急降下する。

  ちょうど、坂を下る手前辺りから印南野台地が西へ舌を出したように城山(じょやま・加古川市神野町)にむかって伸びている。

  この舌のような台地こそ、古代文明の舞台であり、縄文・弥生・古墳・白鳳時代の人々の生活の跡がいっぱい詰まっている。

  今日は、『加古川市の文化財』を参考にして、宮山遺跡を訪ねてみたい。

  宮山遺跡は、八幡町上西条と中西条の間で、上記の舌のような印南野台地から更に北へ突き出たところにある。

  昔、ここは上西条と中西条の共有地で、自由に土を取っていた。

  昭和39年頃、この土砂が採集されていた場所から遺物を含む層がみつかった。

  昭和40年に一部、発掘調査が行われ、縄文時代後期の遺跡で、住居址や祭祀跡とみられる遺構が発見された。

  また、山頂部に古墳が集中している。宮山大塚(中期古墳)の他、後期古墳五基が確認されている。

  保存状態は悪くないが、江戸時代に盗掘されたらしい。

  宮山は小さな丘である。登り道は、桜並木である。週末には桜いっぱいの丘になる。お出かけください。

*『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照、写真は宮山古墳の一基。

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八幡町探訪:湯山街道(和気清麻呂の旅)

2007-04-01 13:03:30 |  ・加古川市八幡町

_060_2     昨日は、八幡神社に伝わる「和気清麻呂と猪」の伝承を紹介した。

  しかし、どうして清麻呂が、八幡神社の伝承に登場したのだろう。

  石見完次氏は、著書『古地名新解』で、宗佐(ソウサ)について、次のように説明しておられる。

  ソウサというのは、山を背景にした日当たりのよい地形のところをいう。

  姫路の「書写」も、麓の「曽佐(ソサ)もこの例といわれ、地形も似ている。

  この地形は、厄神山の東、草谷村近くまで続いている。社地(八幡神社の所在地)は、野村にあるのに「宗佐の厄神さん」というのは地形からきているからであろう・・・

  八幡神社は、北の方向から見て「宗佐の厄神」である。八幡神社の北を東西に古代の幹道が走っていた。湯山街道である。

  古代において、湯山街道は重要な幹道であった。

  湯山街道を、現在の地名で説明したい。

  この道は、京都から宝塚へ、そして六甲山の北を通った。この道の途中に有馬温泉がある。そのため、後に湯山街道と呼ばれた。

  有馬から更に山田へ、そして三木市の志染(しじみ)へ通じ、さらに加古川市の宗佐・国包・上荘・平荘を経て志方町から姫路市へ抜ける。

  古代において、加古川の河口辺りの流路は乱流していた。加古川の広い河口は、旅人の渡川を苦しめた。

  そのため、湯山街道がよく利用されている。湯山街道の旅人は、何よりも途中の有馬の湯で疲れを休めることができた。

  村人は、「清麻呂がこの道(湯山街道)を通り、宇佐へ行った」と、考えたのかもしれない。

  宗佐は、古代の幹道に沿った、賑わいのある村であったと想像する。

*写真の湯山街道は、国包あたり(加古川の土手から撮影)

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八幡町探訪:清麻呂と猪(八幡神社の伝承)

2007-03-31 08:59:25 |  ・加古川市八幡町

Ef95b081  奈良時代、大仏開眼を頂点に、天平の繁栄は終わりを告げようとしていた。

  聖武天皇、光明皇后はあついで亡くなった。

  後を継いだのは、光明皇后の生んだ、ただひとりの娘の女帝・孝謙天皇(こうけんてんのう)であった。

  孝謙天皇は、信頼していた藤原仲麻呂(恵美押勝)にも裏切られ、悶々とした気持にあった。

  そんな時である。女帝(44才)の前に、英才の僧・道教が現れた。

  独身の女帝にとって道教は、初めての恋人であったとも言われている。

  彼は、呪術をもって女帝の病気を治してから、その寵愛を一心に受け、天皇の地位にも並ぶほどの「法王」の地位を授けられた。

  この時、朝廷を揺るがす大事件がおこった。

  「道教を天皇の位につかせたならば、天下は太平になるであろう」という、宇佐八幡宮(大分県)のお告げが朝廷にもたらされたのである。

  ことの真実を確かめるべく、和気清麻呂が宇佐へ使わされることになった。

  (挿絵は道教と和気清麻呂・戦前の教科書より)

  ここで、八幡神社(加古川市八幡町)の伝承が登場する。

  清麻呂は、都をたって播磨の国・望理里宗佐(まがりのさとそうさ)までやってきた。

  道教の差し向けた刺客たちが清麻呂を囲んだ。・・・その時、空がにわかに曇り、山から大きな猪が現れ、道教の放った刺客に襲いかかり、次々とけちらした。

  そして、清麻呂は無事宇佐に着き、宇佐の神のお告を確かめた。

  その内容は「わが国は、開闢(かいびゃく)以来、君臣が定まっている。道教のような皇族にあらざる人を皇位につけてはならない」というものであった。

*『日本史探訪・4』(角川文庫)参照

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八幡町探訪:八幡の厄神さん

2007-03-30 09:36:10 |  ・加古川市八幡町

_387_2   「八幡町探訪」で、まず取り上げなければならないのは「八幡神社」である。

  今日は、八幡神社の祭礼「八幡の厄神さん」のようすを紹介したい。

  八幡神社の祭りは「宗佐の厄神さん」ともいわれ、古くから播州名物の大祭りであった。

  『ふるさと・やはた』(昭和59)で、本岡豊二さんは、次のような手記を寄せておられる。

  一部、転載させていただきたい。

  ・・・古くは旧暦の1月18・9日が大祭日であったが、大正時代「いつまでも旧暦では」と現代のその日にもっとも近い頃の2月18・9日に定められた。

  ・・・当時の氏子の青年団は、自転車の預かり料が年間の大きな収入源になったそうである。・・・

  「厄神駅」からは、増発便で着いた参詣客が、後からあとからならんで、お宮まで約1.5キロの列が続いた。

  ・・・最高潮時には、石段から拝殿付近は人が溢れかえって歩けなかった。

  サーカスのジンタが高く耳に響いて、雰囲気をいっそう盛り上げていた。

  数百を数える露天商人の大半は「いわこし」(粟おこし)売りの店で、植木屋さんも多かった。

  八幡の厄神さんは、現在でも人手は多いが、昔を知るお年寄は「静かになった」と語っている。

*『ふるさと・やはた(加古川農業改良普及所)』(昭和59)参照、写真は「八幡神社」

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