『寛延一揆」は、寛延二年(1749)正月から二月にかけて起こった。
この一揆は、その規模の大きさ、後世への影響から見て、姫路藩政史上最大の農民闘争であったといえる。
火の手は、野谷新村(現:加古郡稲美町)からはじまった。
野谷新村の伊左衛門(いざえもん)は、五人組の頭を勤めていた。
彼は、日ごろから豊かでない村への御用金や年貢の増加に反発していた。
野谷新村は、西条組大庄屋・沼田平九郎(現:加古川市八幡町中西条)の支配下にあった。
平九郎は、かねてから、あまりにも藩に追従しているという風聞があった。平九郎に対する不満が、「平九郎宅を打ち壊せ・・」という機運へと高まっていた。
このような平九郎に対する不満は、本来は西条組だけの問題であるはずなのに、他の組の村々からも非難されていた。よほど目立った存在であったのだろう。
寛延二年の正月・10日頃から「西条組大庄屋を討ち潰すべし・・」という張り紙があちこちで張り出された。
正月16日七ッ時(午後4時ごろ)村々で早鐘がならされ、大勢の人々が鳶口や熊手を持って押し寄せた。
まもなく、平九郎宅は散々にうちつぶされた。
この打ち壊し計画の中心は伊左衛門であった。
姫路全般一揆は、平九郎宅打ちこわしという一件から姫路藩を揺るがす全藩一揆へと広がった。
一揆の後には厳しい取調べがあった。
明日のブログでは、全般一揆の背景と経過を見たい。
*『加古川市史(第二巻)』、『加古の流れ』(加古川市史編さん室)、『マンガ・日本の歴史』(中央公論社)参照