ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

八幡町探訪:国包の渡し

2007-04-09 08:27:25 |  ・加古川市八幡町

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  国包は、京都から伊丹へ、そして有馬・三木そして加古川市志方・姫路を通る街道「湯之山街道」と加古川の水運が交わる場所にあった。

  そのため、農村部にありながら商工業がさかんで、古くから唐箕(とうみ)や建具などの産業が栄えた。

  上流から良材が筏に組んで運ばれたためである。

  そして、家具は、姫路・加古川・高砂に船で運ばれた。国包は川と街道の交わる交わる場所にあった。

  しかし、江戸時代は、加古川には姫路の町の防衛上橋がなかった。

  国包を通る街道が加古川に突き当たるところに、渡し場が設けられた。

  その後も、橋は架けられていない。

  今、渡し場のあった場所は、整備され、その跡は全くないが、渡し場のあった場所に、写真のような説明(写真上)とその脇にプレート(写真下)が設置されている。

_415_1   あるお年寄りは、「国包の側に船頭の小屋があって、小さい窓があり、お客があると覗いて船を出した。多いときは一そうに十人ほど乗せて運んだ」

  またある人は、「昭和21年に渡しを通って嫁に来たが、4・5年のうちに渡しは消えていました」と語っておられる。

*『東播磨研究(2)』(東播磨地域調査会)参照

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