昨日は、八幡神社に伝わる「和気清麻呂と猪」の伝承を紹介した。
しかし、どうして清麻呂が、八幡神社の伝承に登場したのだろう。
石見完次氏は、著書『古地名新解』で、宗佐(ソウサ)について、次のように説明しておられる。
ソウサというのは、山を背景にした日当たりのよい地形のところをいう。
姫路の「書写」も、麓の「曽佐(ソサ)もこの例といわれ、地形も似ている。
この地形は、厄神山の東、草谷村近くまで続いている。社地(八幡神社の所在地)は、野村にあるのに「宗佐の厄神さん」というのは地形からきているからであろう・・・
八幡神社は、北の方向から見て「宗佐の厄神」である。八幡神社の北を東西に古代の幹道が走っていた。湯山街道である。
古代において、湯山街道は重要な幹道であった。
湯山街道を、現在の地名で説明したい。
この道は、京都から宝塚へ、そして六甲山の北を通った。この道の途中に有馬温泉がある。そのため、後に湯山街道と呼ばれた。
有馬から更に山田へ、そして三木市の志染(しじみ)へ通じ、さらに加古川市の宗佐・国包・上荘・平荘を経て志方町から姫路市へ抜ける。
古代において、加古川の河口辺りの流路は乱流していた。加古川の広い河口は、旅人の渡川を苦しめた。
そのため、湯山街道がよく利用されている。湯山街道の旅人は、何よりも途中の有馬の湯で疲れを休めることができた。
村人は、「清麻呂がこの道(湯山街道)を通り、宇佐へ行った」と、考えたのかもしれない。
宗佐は、古代の幹道に沿った、賑わいのある村であったと想像する。
*写真の湯山街道は、国包あたり(加古川の土手から撮影)
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