ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

「脱ダム宣言」で残った!…黒沢砂防ダム

2023-09-25 06:50:16 | 長野(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は長野県安曇野市三郷小倉(あずみのし みさとおぐら)に信濃川水系の黒沢砂防ダムなるものを見つけたので行ってみることにします。アクセスは県道25号近くにある黒沢洞合自然公園あたりから黒沢川に沿う道を進んで行くと到着します。その道を進むにつれて道幅が狭くなるので要注意。

対向車が来たら絶対にすれ違えないあたりにくると、今回の目標が見えてきます。見る場所によってはかなり迫力があります。

そこから下流側を見ると、こんな感じ。

対向車が来ないことを祈りつつ、さらに登っていくとダムの横に辿り着きます。ダム上に行きたいのですが、

実際にはこんな感じで、立入禁止になっているので諦めるしかありません。

近くにはこんな看板があるので、ここが黒沢川であるのは間違いありません。

それにしても、黒沢砂防ダムを示すものがこの辺りにはどこにも見当たりません。そこでダム下へ戻ってみることに。

ダム下の副ダムに相当する落水部のところに来ました。これだけ見ても立派なダムに見えますね。

で、ふと近くの藪を見るとその奥にはこんなものが。「黒沢砂防ダム竣工」と刻まれた石碑。

その裏を見ると築造の経緯が記されていました。写真はその一部です。

参考までにその文言を転記しておきます。

「黒沢川は日本アルプスの前峰黒沢山に源を発し、黒沢扇状地を北流している。当河川は流量増減甚だしく、しばしば枯渇をみるも小倉●地の貴重な用水をなして来た。流域は各所に崩壊地があり、激しい降雨のたびごとに土石を流下して、下流の河床は年々上昇し護岸の欠壌はんらん等沿岸地域に甚大な被害を与え、これを防止する砂防堰堤の実現は地域住民の強い希望と永年の夢であった。加えて灌漑用水及び飲料水源として、地域社会の発展に寄与せんと三郷村長中田又三郎氏が県議会議員在職中よりの念願であり、これを早急に実現すべく関係者に相計り、幾多の障害を越え、黒沢砂防ダムと命名。三ヶ年の歳月と三億円の国費を得て大堰堤の完成をみるに至った。
 この偉業成就を録し、ダム湖に映える自然美に地域住民憩いの場として、将来の発展を祈念しつつ碑を建立し後世に残す。
  昭和四十八年十月二十二日
    豊科建設事務所長 青沼武之助 記」

この内容からすると当該ダムは昭和48年(1973年)10月に竣工したようですが、ここには諸元が記されていません。そこで帰宅してから調べてみると、このあたりは1954年6月1日から2005年10月1日まで南安曇郡三郷村(みなみあずみぐん みさとむら)と呼ばれていたことが判明。そして、同日、周辺の豊科町(とよしなまち)、穂高町(ほたかまち)、堀金村(ほりがねむら)、明科町(あかしなまち)とともに合併して安曇野市となったため三郷村は消滅します。で、三郷村が廃止されるまで利用されていた同村のホームページを確認してみると、そこには村の歴史が記載されており、「1973年」の欄を見ると確かに10月22日に

「黒沢ダム完成。堤長101.6m、高さ24m、貯水量67,500トン、総工費2億9000万円。」

と記されています。築造物の名称は違えど、この竣工碑の内容と一致するのでこれが諸元とみて良いと思います。

ところで、この場所にはその後「黒沢生活貯水池」という名称で新たにダムを築造する計画が立てられます。そして昭和60年度から平成2年度にかけて予備調査が行なわれ、翌平成3年にはダム建設が採択。しかし平成13年2月に当時の長野県知事であった田中康夫の「脱ダム宣言」により平成15年6月、ダム建設事業が中止。結果として現在の「黒沢砂防ダム」という形のまま残ることとなりました。もし「黒沢生活貯水池」が実現していたら高さ61.5m、長さ172.0m、体積158,000㎥という巨大なダムになっていたことでしょう。(参考
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