ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

千代吉の熱意で実現!…豊沢ダム

2024-08-11 06:58:39 | 岩手(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は岩手県花巻市豊沢(とよさわ)にある北上川水系豊沢川の豊沢ダムを目指します。アクセスは東北自動車道の花巻南インターチェンジを降りて左折し、県道299号を花巻市街へ。突き当たりを右折し、県道12号を花巻南温泉峡方面へ行きます。そのまま県道12号を豊沢川沿いに進んでいくと目的地に到着します。

右岸に到着です。

右岸、ダム横の壁面には水利使用標識が貼られています。灌漑を目的としたダムなんですね。

近くにある表示板。ダム湖名は「豊沢湖」。

そこから見たダムの様子。

では、ダム上を歩いてみましょう。中央から見た豊沢川上流方向の景色。

一方、ダム下を覗き込み、

下流方向の遠景を眺めます。

対岸(左岸)に来ました。上流側から見た様子。

近くには「豊沢ダム」と刻まれた石碑があり、

隣にはダムについての説明が記されています。転記すると
「このダムは、花巻市を中心とする農地5,300町歩の用水源として建設されたものである。ダムの完成により、本地域の永年の悩みであった旱ばつは解消され、下流水路の改良、区画整理の施工と相まって農業の生産性を図り、農業経済の発展を期するものである。」なるほど。

そして、着工は昭和24年10月で、竣工は昭和36年(1961年)5月だそうです。

また、裏側には諸元が記されていて、高さが59.10m、長さが150.0mの重力式コンクリートダム。

同じく左岸の下流側から見たダムはこんな感じ。

県道12号はダム上を通っていますが、左岸ではすぐ短いトンネルがあり、それを抜けた先には「農村整備室 豊沢ダム管理所」があります。


県道12号沿いの山側には慰霊碑があります。ダム築造にあたり6名ほどの方々が亡くなったようです。正確な人数がわからないのは慰霊碑が草で覆われていたため数えられず…。

「顕彰」と題された石碑。ここにはダム築造にあたり協力した方々の名が刻まれています。

ひときわ背の高い石碑には「頌徳 平賀千代吉翁」と刻まれています。平賀千代吉(ひらがちよきち:1892-1976)は豊沢ダム築造の実現に奔走した人物で、稗和西部耕地整理組合初代組合長を務めましたが、ダムを築造できるなら移転を余儀なくされる人たちに対する補償は自らの財産を投げ打ってもよいと考えていたほどの熱いハートの持ち主だったようです(参考)。

裏側に記されたものを転記します。
「平賀千代吉翁は明治二十五年七月十日花巻川口町大字里川口四百二十五番戸に生れ資性温厚事を処するに常の至誠をもってし責任感に厚く万人の信望を一身に集めていた。当地方の水田開発事業はおよそ三百年前古人の手によって進められその基礎の形成を見たが相次ぐ自然の脅威は常にその行手を阻み幾多先人の残した事業の跡は逐年根本的改革を迫られたのである。翁は早くから農業水利に深い関心を寄せていたが昭和十三年十二月湯口村大口新田神山の三堰を主体とし豊沢川全水系を支配する稗和西部耕地整理組合の発足とともに推されて初代組合長となるや豊沢川流域に一大貯水池築造の必要性を提唱し同志を糾合してこれが推進に献身し昭和十六年その宿望は遂に達せられて豊沢ダム築造の第一歩が実現したのである。惟うに農業経営の合理化により農民個々の福祉を念願して多難な半生を水利事業に捧げ今日に至った翁の不撓の闘魂こそこの大事業を完成の彼岸にもたらしたというも過言ではない。かくして古来から熾烈を極めた水の争奪も一朝の夢と消え県営幹線水路の工築とこれに伴う土地改良事業の促進により数千の農家がひとしくこの恵沢に浴することとなったのである。ここに豊沢ダムの完成に当たり翁の顕彰の碑を建立し治を図り荒蕪を拓いた先人の輝く業績とともに永く後世に伝えんとするものである。
  昭和三十六年五月 豊沢川土地改良区」


こうした経緯を知ると、どこにでもありそうに見える豊沢ダムも見方が変わってくるから不思議です。それにしても農業水利の発展に尽力した平賀千代吉の熱意には驚くばかりですね。こういう「熱い人」、尊敬するわ〜。
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