駿東郡小山町柳島にある八重桐之池(やえぎりのいけ)に来ました。八重桐は有名な童話「金太郎」の母の名です。
◎金太郎伝説
この伝説によるとこの地に生まれた八重桐が京へ上った際、役人の坂田蔵人と結ばれ、金太郎を身ごもります。しかし金太郎が生まれる前に蔵人は他界。そこで八重桐は故郷へ戻り、956年に金太郎を出産。八重桐はその後京へは戻らず、この地で金太郎を育てます。幼少の金太郎は足柄山に住む熊と相撲をとったりしながら元気よく育ちました。
976年、足柄峠で源頼光(みなもとのよりみつ)と出会い、その力量が認められて家来となります。そして頼光とともに京へ向かうとともに名前を「坂田金時」と改名します。頼光には金時の他に、渡辺綱(わたなべつな)、碓井貞光(うすいさだみつ)、卜部季武(うらべすえたけ)という強い家来がおり、彼ら4人は頼光四天王と呼ばれるほどの武将となりました。
しかし、1011年、金時は九州の賊を征伐するため西進していましたが、途中の岡山県勝央町(しょうおうちょう)でひどい熱病に罹り亡くなります。
…と、まあ、こんなことが池の前にある案内板に記されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/76/6a97f872b0c49ffd03f7e020f3e412a8.jpg)
池の雰囲気です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/bf/fbe2f63e60f94b8f2fa2b89a1542edc7.jpg)
これが当ブログで言うところのダム上。車両通行可です。進んでみましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/61/72c58989c8adcade99e181b7aef94904.jpg)
中央には「金時公園 八重桐之池」と刻まれた石碑。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/23/688e726880eb5a275bfa735ae8e8def3.jpg)
対岸側には自由越流式の排水路があります。水はここから流れ出して、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/6e/87f47926ca9faec998149395bd058509.jpg)
下流へ向かいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/fa/0542cba541e715e36b9cc03b60b4c188.jpg)
対岸側には金時公園があります。まず、八重桐之池建設の経緯が刻まれた石碑が目に飛び込んできました。それによると1972年7月12日に同地を襲った集中豪雨により多大な被害が出たことに起因し、同池の整備を開始。そして1975年3月に完成した旨が記されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/1b/1db10ffaa727b7db9b0c90b7303c5510.jpg)
そして、池に近いところにはご覧のような見晴台があります。しかしそこの説明によれば「八重桐之池」という名称になったのは1996年の貯水池整備公園化事業に伴い、同地の共有地管理組合長である山﨑彰一氏が命名したと書かれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/8d/8029bc3a88245beb50a8eb3aa2adf306.jpg)
せっかくなので見晴台に登ってみました。写真中央に見えるのが先ほどの排水路です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/82/8afd0837e904f2e98a3fec1790d9a378.jpg)
そして、中央に小さく見えるのが一番上の写真にある案内板です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/df/d6f6362f10b56927b327887314a3e593.jpg)
金太郎といえばですよ、以前訪れた長野県の生坂村の広瀬橋にも金太郎伝説がありましたね。そう、金熊川の由来に金太郎が出てくるアレです。
調べてみると金太郎の出生地については静岡だけでなく新潟や長野にもあるんですね。で、そもそも金太郎という人物は実在しなかったというのが今日の定説らしい。ならば金太郎のモデルになったのは誰なのか。どうやらそれは藤原道長(966-1028)の家臣だった下毛野公時(しもつけののきんとき:1000-1018)のようです。
公時は18歳で早世するのですが、その豪腕ぶりは死後も有名だったようで、100年余り後に書かれたとされる『今昔物語集』には頼光の郎党として登場します。それが伝説化の始まりとなり、いつの間にか公時は頼光四天王のひとりに数えられ、金太郎という形で後世に語り継がれるようになったようですね。
真実はどうであれ、この八重桐之池はイイ感じの場所ですよ。
◎金太郎伝説
この伝説によるとこの地に生まれた八重桐が京へ上った際、役人の坂田蔵人と結ばれ、金太郎を身ごもります。しかし金太郎が生まれる前に蔵人は他界。そこで八重桐は故郷へ戻り、956年に金太郎を出産。八重桐はその後京へは戻らず、この地で金太郎を育てます。幼少の金太郎は足柄山に住む熊と相撲をとったりしながら元気よく育ちました。
976年、足柄峠で源頼光(みなもとのよりみつ)と出会い、その力量が認められて家来となります。そして頼光とともに京へ向かうとともに名前を「坂田金時」と改名します。頼光には金時の他に、渡辺綱(わたなべつな)、碓井貞光(うすいさだみつ)、卜部季武(うらべすえたけ)という強い家来がおり、彼ら4人は頼光四天王と呼ばれるほどの武将となりました。
しかし、1011年、金時は九州の賊を征伐するため西進していましたが、途中の岡山県勝央町(しょうおうちょう)でひどい熱病に罹り亡くなります。
…と、まあ、こんなことが池の前にある案内板に記されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/76/6a97f872b0c49ffd03f7e020f3e412a8.jpg)
池の雰囲気です。
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これが当ブログで言うところのダム上。車両通行可です。進んでみましょう。
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中央には「金時公園 八重桐之池」と刻まれた石碑。
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対岸側には自由越流式の排水路があります。水はここから流れ出して、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/6e/87f47926ca9faec998149395bd058509.jpg)
下流へ向かいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/fa/0542cba541e715e36b9cc03b60b4c188.jpg)
対岸側には金時公園があります。まず、八重桐之池建設の経緯が刻まれた石碑が目に飛び込んできました。それによると1972年7月12日に同地を襲った集中豪雨により多大な被害が出たことに起因し、同池の整備を開始。そして1975年3月に完成した旨が記されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/1b/1db10ffaa727b7db9b0c90b7303c5510.jpg)
そして、池に近いところにはご覧のような見晴台があります。しかしそこの説明によれば「八重桐之池」という名称になったのは1996年の貯水池整備公園化事業に伴い、同地の共有地管理組合長である山﨑彰一氏が命名したと書かれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/8d/8029bc3a88245beb50a8eb3aa2adf306.jpg)
せっかくなので見晴台に登ってみました。写真中央に見えるのが先ほどの排水路です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/82/8afd0837e904f2e98a3fec1790d9a378.jpg)
そして、中央に小さく見えるのが一番上の写真にある案内板です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/df/d6f6362f10b56927b327887314a3e593.jpg)
金太郎といえばですよ、以前訪れた長野県の生坂村の広瀬橋にも金太郎伝説がありましたね。そう、金熊川の由来に金太郎が出てくるアレです。
調べてみると金太郎の出生地については静岡だけでなく新潟や長野にもあるんですね。で、そもそも金太郎という人物は実在しなかったというのが今日の定説らしい。ならば金太郎のモデルになったのは誰なのか。どうやらそれは藤原道長(966-1028)の家臣だった下毛野公時(しもつけののきんとき:1000-1018)のようです。
公時は18歳で早世するのですが、その豪腕ぶりは死後も有名だったようで、100年余り後に書かれたとされる『今昔物語集』には頼光の郎党として登場します。それが伝説化の始まりとなり、いつの間にか公時は頼光四天王のひとりに数えられ、金太郎という形で後世に語り継がれるようになったようですね。
真実はどうであれ、この八重桐之池はイイ感じの場所ですよ。