ダブログ宣言!

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☆「デュラス、映画を語る」を語る

2006年05月13日 11時57分17秒 | 文学
デュラス、映画を語る図書館で借りてきた、「デュラス、映画を語る」を読んだ。
この本の原題は「La Couleur des mots, Entretiens avec Dominique Noguez autour de huit films」で直訳すると、「言葉の色、8本の映画をめぐるドミニク・ノゲーズとのインタビュー集」って感じでしょうか。8本の映画というのはマルグリット・デュラスが撮った、

「ナタリー・グランジェ  NATHALIE GRANGER」(1972年)
「インディア・ソング  INDIA SONG」(1974年)
「ヴェネツィア時代の彼女の名前  SON NOM DE VENISE DANS CALCUTTA DESERT」(1976年)
「トラック  LE CAMION」(1977年)
「セザレ  CESAREE」(1979年)
「陰画の手  LES MAINS NEGATIVES」(1979年)
「オーレリア・シュタイネル(メルボルン)  AURELIA STEINER(MELBOURNE)」(1979年)
「オーレリア・シュタイネル(ヴァンクーヴァー)  AURELIA STEINER(VANCOUVER)」(1979年)

です。下4本は短編。
それにしてもデュラスがこんなにコンスタントに映画を作り続けていたことに驚いた。
いま日本で見られるのは「インディア・ソング」くらいかな。
しかしどれも見たいと思わせるものではなかった。この8本をすべて見ている人はどのくらいいるんだろうって思うけど。
「トラック」にはデュラス自身が登場するらしいのでそこだけちょっと見てみたいと思った。

デュラスは、明かりが無さ過ぎてカメラマンに何も映らないと心配させたり、共演したジェラール・ドパルデューとあまり会話せず間がもたないって冷や冷やさせたり、逆光で撮ったり、なかなか凄いことするなあ、と思った。ひとびとが習慣で映画を作ることを嫌う。そこを壊したいと思っている。
でも作られた映画自体を見たいとはやっぱり思わない。
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☆香山リカ「テレビゲームと癒し」感想

2006年05月13日 01時10分42秒 | 文学
テレビゲームと癒し「ゲーム脳」についてのウィキペディアの項目を読んで、この理論が批判されていることを知った。ふむふむといろいろと調べているうちに、香山リカの「テレビゲームと癒し」という本がおもしろそうだと思って、図書館で借りてきた。(この本は現在絶版のようです)
彼女のテレビゲームの歴史のようなことも書いてあり、「オホーツクに消ゆ」とか懐かしかった。僕もMSXでやりました。(MSXというのは平たく言えばパソコン風ゲーム機です)
MSX版「オホーツクに消ゆ」は所謂ゲームカセットではなく、音楽用カセットテープのような状態で売られていたソフトで、それを音楽用カセットテープ再生機でゲーム機に読み込んで遊ぶものでした。殺人事件を解決する推理ものです。ゲームの途中でパスワードがあって、そのなかに「霧の摩周湖」とかあったのを今でも憶えているのってすごい。子供の頃の記憶は消えないなあ。ニポポ人形とかマリモの存在もこのゲームで知った。

テレビの政治評論家の言っていることには願望が9割含まれているんじゃないか。それは巨人軍出身のプロ野球解説者が巨人贔屓の解説をするのと同じなんじゃないか。それは解説じゃなくて応援じゃないか。だったらまともに聞いちゃいられない、って感じ出したのはいつからだろう。
テレビゲーム否定派の論理にも同じことが言える、と思う。はじめに結論がある。
しかしこんなことは、ゲームを(あまり)しない僕が今さら言わなくても誰だって言っている。
そんな理屈抜きにこの本はわりと感動的だった。
こどもたちがテレビゲームを通じて香山リカと話すことができた瞬間の描写は感動的だ。うまく書けてる。
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☆イニシャルはAA

2006年05月12日 15時30分52秒 | 映画
フランス映画のブリジット・バルドーがBBなら、イタリア映画のクラウディア・カルディナーレはCCだ。そして、日本映画にはAAがいる。浅野温子だ。

なんでこんなばかばかしいことを思いついたかというと、難解なフランス映画好きで蓮實重彦好きならば、アラン・レネの「去年マリエンバートで」と並んで、見ていないとは口が裂けても言えないマルグリット・デュラスの映画「インディア・ソング」について考えていたから。
もちろん僕はどっちも見てません。
そして、このふたつの映画について考えると、当然ゴダールに考えが及び、ゴダールでいちばん良いのは(眠らずに見たのは)「軽蔑」だったなあと思って、あの映画のBBは良かったと思ったから。
もちろんゴダールの映画もたいして見ているわけじゃない。
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☆「あの世の話」を読んで、あの世について考えた

2006年05月11日 23時44分58秒 | 文学
あの世の話古本屋で買った、佐藤愛子と江原啓之の対談「あの世の話」を読んだ。
読み易くておもしろかった。
佐藤愛子が質問し、江原啓之が答えるという対談だった。
江原啓之ほどクリアに霊界について語る人はいままでいなかった。丹波哲郎ではこうはいかないんだな、これが。
可笑しかったのは、江原啓之がテレビは嫌いと語っていたこと。この当時は自分がテレビに出まくるとは想像してなかったんだろう。
それと、墓地に幽霊が出たり、お盆にやってきたりするのは、幽霊というのはそういうものだと、死んだひとが考えているから、というところ。これは感心した。
ラップ現象を初めてやったのは、死んだベンジャミン・フランクリンであるという説があるのも驚いた。笑った。ウィキペディアには書いてなかった。

最近「オーラの泉」を見るとよく、魂の経験を積まなければならない、とか、修行するためにこの世に生まれてきたんだ、といった意見が、特に美輪明宏から語られて、ほんとうかなあと疑問に思っているんだけど、「あの世の話」にもそのような意見が語られていた。そんなふうに言ってしまうと、結局「物質主義的価値観」とは別の論理を持ってきただけで、様がわりのしない風景が広がる感じがするんだけれども。
このあたりは江原啓之の言っていることが正しいと思う必要もないと思う。
江原啓之は霊的な感性が鋭くて、ひとには見えないものが見えるかもしれないが、そこから導き出した意見が正しいかどうかは、また別問題だと思う。
同じ映画を見てもどういう感想を持つかはひとそれぞれだ。

しかし僕はこの本で、江原啓之は本物だという確信をますます強めたのでした。
あの世というものが客観的に存在するのかどうかと問われれば、やっぱり存在しないだろうと思っているが、もしかしたら霊体のようなものは存在するのかなあくらいは思った。
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☆キモかっこわるい

2006年05月10日 23時23分20秒 | テレビ
倖田來未をあらわす「エロかっこいい」という形容詞と、アンガールズをあらわす「キモかわいい」という形容詞。
ふたつの形容詞は、逆接ではなくて順接でくっついているんだろうと思う。つまり「エロいけどかっこいい」や「キモいけどかわいい」ではなくて、「エロくてかっこいい」であり「キモくてかわいい」なんだと思う。
それをかけ合わせて、「キモかっこわるい」というのを考えた。
でもこれって当たり前すぎる。「キモかっこわるい」とは言われたくない。絶対に。
もうひとつ思いついたのは「クサここちいい」。
自分の腋の下の匂いって心惹かれてしまう。人間も動物なんだな。
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☆これから見ます日本映画。

2006年05月09日 21時20分21秒 | 映画
レンタルしたDVDを返しに行って、ついでに少し回ってみたら、見てない映画ばっかりだった。興味を惹かれたもの(とその理由)をここにメモしておきます。ここに書いておくと、携帯電話からも見れるので便利なんです。
いったいいつから映画を見てないんだって言われそうですが……。高倉健の「南極物語」とスピルバーグの「E.T.」は映画館で見ました。それと、薬師丸ひろ子の「里見八犬伝」も。

犬童一心監督「メゾン・ド・ヒミコ」(ずっと見たいので)
犬童一心監督「死に花」(犬童一心なので)
犬童一心監督ほか「いぬのえいが」(犬童一心なので)
大林宣彦監督「理由」(出演者が多すぎるので)
緒方明監督「いつか読書する日」(2005年度キネマ旬報ベストテン 3位)
行定勲監督「きょうのできごと」(妻夫木聡、池脇千鶴、関西弁、に惹かれて)

以下は見るかどうか判らない。でも気になる作品。
是枝裕和監督「誰も知らない」(つらくないかなあ?)
井筒和幸監督「パッチギ !」(どうかなあ。ほんとにおもしろいのかなあ?)
中島哲也監督「下妻物語」(評判いいけど、パッケージがどうも。「エリン・ブロコビッチ」みたいに予想に反しておもしろいタイプ?)

ちなみに、「ALWAYS 三丁目の夕日」も「いま、会いにゆきます」も「世界の中心で、愛をさけぶ」も「四日間の奇蹟」も「博士の愛した数式」も見てない。このへんはテレビで放送したら見るかも(でもたぶん見ない)、というレベルです。
どんなに周りから薦められても「ラスト・サムライ」を見てないのと同じく、自分の中に引っかかりを感じないとお金を出して見てみようという気にはならない。
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☆田辺聖子の短編「ジョゼと虎と魚たち」

2006年05月08日 23時32分57秒 | 文学
新潮文庫のフランソワーズ・サガンの作品は、絶滅の危機にある。現在4作品しかない。
ちなみにアンドレ・ジッドは2作品。
これは由々しき問題だ。
なんで、読んだこともないフランソワーズ・サガンの作品を調べてみたかというと、映画「ジョゼと虎と魚たち」に登場したから。
もちろん、探していた「一年ののち」も「すばらしい雲」も絶版。
僕が大学生の頃には、アンニュイなフランス文学の代表がサガンだったのに。
アンニュイというのは、つまり桃井かおり的石原真理子的な雰囲気のことです。似てはいるけど吉田日出子的な雰囲気はちょっと違います。最近で言えば、中島美嘉的雰囲気です。それがあくびが出そうなけだるさ、アンニュイ。

田辺聖子がどんな顔して「ジョゼと虎と魚たち」の原作を書いたのか知りたくて古本屋で購入した。100円。
田辺聖子の本を一冊も読んだことはないけれど、彼女の顔から想像できる雰囲気と映画の雰囲気があまりにもかけ離れ過ぎている。
「ジョゼと虎と魚たち」は短編集で、最初の「お茶が熱くてのめません」と映画の原作「ジョゼと虎と魚たち」を読んだ。こんな感じのものを滅多に読まないので、何とも言われへんなあ。(映画の中の板尾創路のマネ)
僕が読んだことのある作家の中では、片岡義男がいちばん近い感じかなあ。
短編「ジョゼと虎と魚たち」は映画とはかなり違っていた。田辺聖子はやっぱり田辺聖子の顔して書いてた。
好みで言えば映画のほうが好きかな。
田辺聖子はたぶんもう読むことはないと思う。
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☆「ジョゼと虎と魚たち」はすばらしい

2006年05月07日 18時23分06秒 | 映画
ジョゼと虎と魚たち(通常版)犬童一心監督の「ジョゼと虎と魚たち」を見て泣いてしまった。
最後の、妻夫木聡の泣くところ。
一回目普通に見て、そのあとコメンタリーで、監督と妻夫木聡と池脇千鶴の3人のおしゃべりを聞きながら見た。

村上春樹の「ノルウェイの森」のような雰囲気だなあと思った。
本が好きで料理が得意なジョゼ(池脇千鶴)は「ノルウェイの森」の緑を思い出させた。
食べ物がおいしく撮れている映画はそれだけで見ていて愉しい。玉子焼きや筑前煮などほんとうにおいしそうだった。他に食べ物の映画としては、大林宣彦監督の「女ざかり」やアン・リー監督の「恋人たちの食卓」がおいしそうだったと思う。

障害者との恋愛ということになると、考えの方向が一定の方向に向かいがちだ。そこにハマると、もうあとはエスカレーター方式に何々は良い、または何々は悪い、ということになってしまう。たとえば、障害者と恋愛をすることは素晴らしい。またはそんなのはきれい事だ、ということになってしまう。そんな結論がついてまわる。
でもその前に、恒夫(妻夫木聡)の弱さを深く感じたい。
彼以上にうまくやる自信は僕にはない。普通の、立派でも何でもない大学生が障害者とつき合ったらこんな感じになるだろうというところが上手く描けていたと思う。妻夫木聡は自然体でいい!
また、ジョゼの祖母役の新屋英子の顔はすごい。大阪のおばちゃんの顔をしている。大阪弁ってええなあ。
くるりの主題歌「ハイウェイ」もよかった。

いいところのたくさんある、とっても切ない映画でした。
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☆ハッピーエンドしばり (「ザ・エージェント」感想)

2006年05月06日 02時45分48秒 | 映画
ザ・エージェント今週は映画を見すぎている。あんまり見すぎると、辛いものを食べ過ぎて麻痺するみたいに何も感じなくなる。「ザ・エージェント」は見たことすら忘れてしまいそう。
それというのも、おもしろいと確信している犬童一心監督の「メゾン・ド・ヒミコ」がいつも借りられているからだ。ついつい何かを借りて帰ってしまう。

キャメロン・クロウ監督の「ザ・エージェント」はどうやって見たらいいのか判らない映画だった。
トム・クルーズが「ライ麦畑でつかまえて」の表紙を真似た提案書(みんなからはメモと呼ばれる)を書いて、会社を解雇されて、トムとの再婚を目当てに(としか見えない)ついて来たレニー・ゼルウィガーと一緒に会社を始める話。
途中やっと、この映画は他人と通じ合えないということがテーマなんじゃないかと思い始めてから見方がわかった。
レニー・ゼルウィガーに離婚届を渡されたり、仕事が上手くいかなかったりして、会社を辞めたことを後悔するあたりはおもしろい映画なのかもと少し思った。長く生きてると後悔することもあります。
でもあれよあれよという間に、取ってつけたようなハッピーエンドで終わってしまった。
仕事はともかく、結婚は上手くいかないと思う。トムはこの結婚に相当疲れている。無理してる。
アメリカメジャー映画には必ずハッピーエンドで終わらないといけないという縛りがあると思う。「巨泉のこんなモノいらない!?」でとりあげて欲しい。
僕としては、試合中にキューバ・グッディングJr.が死んで、仕事も家庭も上手く行かないトム・クルーズが見たかった。映画としてはそのほうが自然だったと思う。

レニー・ゼルウィガーの姉が離婚女性たちを集めて車座になって話し合う「離婚女性友の会」のようなものは本当に存在するんだろうか。「アバウト・ア・ボーイ」でも見た。

キャメロン・クロウは理想の父親像について今回は語らなかった。「エリザベスタウン」に期待。
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☆吉本ばなな「ひな菊の人生」感想

2006年05月05日 00時50分11秒 | 文学
ひな菊の人生吉本ばななの「ひな菊の人生」はおもしろくなかった。
本を読むと、当然おもしろかったりおもしろくなかったりする。何が原因かはなかなか判らない。たぶんいろいろだ。ひとと話をしていて退屈したり楽しかったりするのと同じだと思う。
「ひな菊の人生」は夢の話が多かった。いまフロイトの「夢判断」も読んでいて、なかなか読み終われずにいる。他人の夢の話は興味を持つのが難しいと思う。もちろん、僕には、ということだけれど。
夢の話は宙に浮いている、ようなものだ。現実の話は地に足が着いている。地に足が着いている、とは話をしている相手と同じドヒョウにいるということだ。他人に共感するには同じドヒョウの、たとえ隅っこにでも立っている必要があると思う。夢の話ではそれが難しい。簡単に言うと「のれない」。
「ひな菊の人生」は夢の話が多いだけでなく、全体的に夢みたいな話だった。

テレビ番組「オーラの泉」で、江原啓之に不幸な前世の話を聞かされて泣く人がいるが、あれは信じられない。どこで生きているんだろうと思う。そこまで切実なひとがいるんだなあ、と驚く。
「ひな菊の人生」にのれないのは、それと似た感じだ。
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