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☆橋本治「これで古典がよくわかる」感想

2006年05月21日 00時28分50秒 | 文学
最近、本の感想しか書いていない気がする。
まあでも、それもまたよしや。(「ジョゼと虎と魚たち」より)

これで古典がよくわかる橋本治の「ハシモト式古典入門 これで古典がよくわかる」(ごま書房)を図書館で借りて読んだ。現在ちくま文庫から「これで古典がよくわかる」という題名で出されているものと内容は同じものです。リンクを付けているのはこちらです。
古文が読めたらいいなあと思っているので、こういう本も読んでみた。
これで古典がよくわかる、そんなことあったらいいなと思うけど、そんなことはもちろんない。しかし文学史はなんとなくわかった。
歴史というものに本当に弱く、源実朝が頼朝と北条政子の次男であるということも、なんとなく知らなかった。「なんとなく」というのはなんとなく知っていたかもしれない、という意味。太宰治の「右大臣実朝」はもちろん読んでいるので、そんなことを書いていたような気もするけど、はっきり憶えていない。
太宰治の「右大臣実朝」といえば、古文と現代文が交互に書かれている小説でおもしろいと思うんだけど、半分が古文であるということで僕は理解が浅いと思う。
「右大臣実朝」を読んだときと小林秀雄の「本居宣長」を読んだときは本当に古文が読めたらいいなあと思った。どうしても読めない。苦手だ。

古文ということで、僕にとっては夏目漱石より前くらいからの作品で読めないものはすべてひと括りになってしまっている。泉鏡花も井原西鶴も紫式部も「古事記」も全部いっしょ。夏目漱石も「虞美人草」はここに入っている。ひどいこと言っている気もするが本当だから仕方がない。そう考えると狭い範囲の読書をしてるなあ。(ちなみに丸谷才一を古文とはさすがに呼ばない。)
「ハシモト式古典入門 これで古典がよくわかる」は古文は単一ではなくグラデーションがあるということを教えてくれた。全部漢字、漢字+カタカナ、全部ひらがな、和漢混淆文など違いがあるものらしい。「徒然草」が理解しやすい古文であることもわかった。

忘れないうちにメモしておきたいこと。
「あはれ」=「ジーンとくる」
「をかし」=「すてき」
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☆内田樹「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」感想

2006年05月20日 04時05分59秒 | 文学
もう二十歳を越えて就職していたけれど、水泳教室に通っていたことがある。
このままじゃ、一生クロールができない。これではいけないという切実な思いに駆られて。
しばらくはいくらやっても息継ぎのできない時期が続き、コーチの説明を聞きながらも「そんなに言うとおりに上手くはできないぜ」って腹を立ててた。口に出しては言いませんが。だいたい僕は自分に出来ないことがあると猛烈に腹を立てる。
クロールで息継ぎが出来たときは不思議な感じだった。ノートに薄いグレイで印刷されたお手本の文字を、鉛筆できれいになぞることが出来たような気持ち。ああ、これだなって感じ。理解が向こう側からやって来たという感じ。了解するというのはそういうものだと思う。

他者と死者―ラカンによるレヴィナスいったい何が言いたいかと言うと、図書館で借りてきた内田樹の「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」は僕にはたぶん理解できてないだろうな、ということ。
言葉として言っていることはそんなに難しくはない、と思う。
しかし、「他者」は存在していないと言ってもいけない。それはすでに存在という考えの範疇にある。というようなことを、いったいどう理解したらいいのか判らない。
そんな「他者」っていったい具体的に言うとどういうこと? って質問したくなる。でも、具体的に言えないもの、それが「他者」だって答えられるんだろうな。
自分の頭のなかを隅から隅まで見渡して、そこに存在しないもの、存在しないって考えることさえ出来ないもの、それが他者、なのかなあ。言葉ではいくらでも言えるけど、いったいなんなのかはたぶん僕には判ってない。
言葉での理解と、納得ということとは違います。

「もうお分かり頂けただろうが、これこそ典型的な「前言撤回」の身ぶりなのである。何かを提示し、ついでそれを撤回する。それが「交換」の原基的形態なのである。」(85ページ)
「前言撤回」もよく判らなかったなあ。何のために? と思った。

文句ばっかり言ってるみたいだけど、なかなかスリリングな本で面白かった。興奮しますよ。とくに前半。
カミュの「ペスト」をまた読まないといけないなと思った。
それとオデュッセウスが、豚に変身させられた仲間のブーブーって言ってるのを言葉だと聞き取ろうとする話。「千と千尋の神隠し」だなあ。「オデュッセイア」も読んだはずなのに全く憶えてない。

しかし内田樹の本にはなんだか騙された感がいつも伴う。(べつにこれも悪口ではないです。)
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☆フロイト「夢判断」感想

2006年05月19日 22時15分11秒 | 文学
夢判断 上夢判断 下

フロイトの「夢判断」をやっと読み終わった。
苦労した。
夢が願望充足であるということだけはよくわかりました。
最後のほうは、「すまん、俺が悪かった。もう勘弁してください。」という感じで読み進んだ。しばらくフロイトは読まないつもり。
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☆橋本治「絵本徒然草(下)」感想

2006年05月19日 00時00分34秒 | 文学
新倉イワオの顔がはっきりと思い出せない。
思い出したと思ったら、ドナルド・キーンだった。
日本文学だけじゃなく、心霊写真について語るドナルド・キーンも見てみたい。

絵本 徒然草 下橋本治の「絵本徒然草」は下巻になると、やはり兼好の考え方も落ち着きがあって、あまりブレがない。そんな気がした。
第九十段はすごい話だ。男か法師か、頭を見てないからわからないって。
第百十六段。子供の名前も普通がいいって主張。
第百二十七段は憶えやすい。
「あらためて益(やく)なき事はあらためぬをよしとするなり。」
これで全文。

なかなか面白かった。
しかしちょっとくどい。橋本治の説明に最後あたりはすこし飽きかけていた。
全訳でなくて正解だと思う。
これから角川文庫で買ってある本をゆっくり読んでいこうと思う。

いっちゃってる人の思想はすごい。
あってるとか間違っているとかじゃなく、開放感がある。
普段生活しててこんなとんでもないこと言う人には出逢えません。
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☆わたしの知らない世界

2006年05月18日 10時39分00秒 | テレビ
テレビというのはしばらく見なければずっと見なくても平気になってしまう。
最近本ばかり読んでぜんぜん見ていなかったら、いつの間にか「マチベン」も終わってしまっていた。
僕は母親に「テレビばっかり見てたら吉本隆明みたいになるよっ!」って怒られながら育ったので(嘘です)、子供のときからテレビを見続けている。(何が言いたいんだろうなあ?)

昨日は「オーラの泉」研ナオコ編を見るともなく見ていた。
先週も美輪明宏が言っていたと思うが、自宅に、悩んでいる人が押しかけてきて困るって今回も言っていた。彼はそうとう困っているんだろうなあ。有名人はたいへんだ、と思った。こういう番組をやっているとそんなこともあるだろう。
大江健三郎の家にも、水を入れた瓶を玄関に置いていく人がいるっていう話を「静かな生活」だったか何かに書いていたと思うけど、そんな気持ちの悪いことに悩まされたくはないなあ。

しかし僕はもし超常現象に悩んでも美輪明宏のところには行かない。
新倉イワオのところに相談に行く。(嘘です)
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☆平仮名で書け丸谷才一

2006年05月17日 10時29分54秒 | 文学
「裏声で歌へ君が代」が代表作である丸谷才一を平仮名で書くと「まるやさひひち」になるんだろうか。長年の疑問です。
6月の文庫新刊は注目作品が多すぎる。どうしよう。
「源氏物語」を読んだときにどうしても読みたくなった「輝く日の宮」はもちろん、よしもとばななの2作品とか、「冷血」新訳とか。

丸谷才一「輝く日の宮」(講談社文庫)
よしもとばなな「ハゴロモ」(新潮文庫)、「海のふた」(中公文庫)
ダン・ブラウン「天使と悪魔」上中下(角川文庫)
トルーマン・カポーティ「冷血」(新潮文庫)
内田樹「子どもは判ってくれない」(文春文庫)

困ったなあ。
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☆「絵本徒然草(上)」で橋本治をいみじと思う

2006年05月17日 01時45分38秒 | 文学
絵本 徒然草 上「いみじ」というのは「スゲェ」という意味だそうです。
図書館で借りた、橋本治の「絵本徒然草(上)」に書いてあった。
この本は「絵本」と言っておきながら絵本じゃない。なぜなら谷川俊太郎が訳してないから。
というだけじゃなく、誰が読んでも絵本とは言わないと思う。これが絵本なら吉本ばななの「ひな菊の人生」も絵本だ。でもそうじゃない。

原文と現代語訳と註が載っている。註というのは兼好が「徒然草」についてのちのち語るという趣向になっている。
この本は全訳ではない。だから買わなかった。文庫化されたときに本屋で見て気になったが買わなかった。
全体は「青年編」と「坊主編」に分かれていて、「徒然草」は兼好が一度に書いたものではなく出家前と出家後に書かれたものをまとめたものであるという仮説に立って書かれている。それで文中に見られる矛盾が解消されるんだそうな。下巻のあとがきによると、
「序段から二十四段までは、世を捨てて坊主になってしまいかねないところもある青年の述懐。二十五段から三十二段までは、思い切って坊主になってしまったはいいけれども、まだ全然フッ切れていなくて、かえって青春の迷いというものが表に出てしまった中間段階。そして三十三段から後は、”兼好法師”として確立されてしまったオジサンの話。」
らしい。
ちなみに目次は次のようになっている。
・上巻
「青年編」
序、1、3、4、5、6、7、8、9、11、12、13、14、19、20、21、25、26、29
「坊主編」
35、36、39、40、43、45、46、48、52、53、54、59
・下巻
60、62、69、72、73、75、76、79、80、81、84、89、90、105、106、107、113、116、117、127、137、139、142、145、148、151、152、161、168、172、188、189、190、191、195、230、232、243

ふう、疲れた。いったい何のためのメモだ。
間違っているかもしれませんがあくまでも自分用のメモなので。誰も使わないと思いますが、卒業論文とかには使わないで下さい。自分で調べてください。

上巻で良かったのは、第三十九段と第五十九段。
橋本治の宗教についての本も読んでみようかと思った。
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☆「徒然草」は角川文庫で

2006年05月16日 14時37分03秒 | 文学
兼好法師の「徒然草」は角川文庫で読むことにする。
やはり岩波文庫の注だけでは読めないと判断した。
昨夜ひとまず、さらっと現代語訳だけ読んでみようとしたのに、第七段を読んだあたりから腹痛が始まり、「鳥部山の煙立ち去らで」だなあと、もう死ぬのかもしれないなあと思いながら、イタイイタイイタイよおって考えながら9時くらいに就寝した。いつの間にか寝てた。今朝はもう痛くない。なんだったんだろう。
「徒然草」についてはインターネットでも読めないことはないみたいで、吾妻利秋さんのホームページには原文と現代語訳が載っていますが、僕はやはり紙で読まないと読んだ気がしないという古くて無口で不器用な、包丁一本さらしに巻いてる人間ですので、本を買った。
これを機会に古文がすらすら読めるようになれたらな、と暢気に思ってる。

古文というのは日本映画のようなものではないか、とふと思った。
僕の日本映画の愉しみかたのひとつに、台詞を真似るというのがある。
「このひもが初めて役に立ったわ」(「マルサの女」より)とか、「蓄膿です」(同じく「マルサの女」より)とか、「あとでね」(「タンポポ」より)とか、「えりの裏よ。ルパンはいつもそこに隠すの」(「カリオストロの城」より)とか、「黙れ小僧!」(「もののけ姫」より)とか、「ママが作った焼きおにぎり」(「転校生」より)とか、まあいろいろと憶えてしまった台詞があって、ことあるごとに使いますが(いつだよっ!)、そんなふうに古文も気に入った文章を憶えることで慣れていくものなんじゃないかと。
まあ憶えることが愉しくなれればいいんだけど。
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☆加藤典洋「僕が批評家になったわけ」感想

2006年05月15日 00時02分03秒 | 文学
僕が「徒然草」を読みたいと言ったことから、古典はどこの文庫がいいかという話を夫婦でおこなった。(なんて知的なジャパネスク夫婦!)
そして話は岩波文庫(黄色)におよび、「あんなちょっとの注だけじゃ読めん」という僕の発言に対しての妻の、「あれは教科書だから」という言葉を聞いて、僕のなかの長年の岩波文庫(黄色)嫌いが一気に氷解した思いだった。
教科書なんだから読めないのは当たり前だ。だって僕は学生じゃないんだもん。

僕が批評家になったわけところで、僕が「徒然草」を読みたくなったわけは、加藤典洋の「僕が批評家になったわけ」を読んだからです。図書館で借りました。
「徒然草」って何度か読みたくなることがあるけど、なかなか通して読めない。どこの文庫がいいか真剣に検討してみよう。
ほかにこの本を読んで読みたくなったのは武田百合子の「富士日記」。でもこれは特にこの本を読んだからではなく、加藤典洋の「言語表現法講義」を読んだときからずっと思ってる。もう10年ほど。
加藤典洋の本は結構読んでいるので、特にこの本を読んで驚いたことはあまり無い。竹田青嗣の「サロン思想について」はいったい何度引用するんだろうと思う。松田優作の「ブラック・レイン」における「怪演」の話もどこかで見た。
いつもふうんと思いながら読んで、なるほどなーと思っているんだけど、読み終わると一体なんだっけってケロリとしてます。でもおもしろいと思ってる。でなんとなくまた読んでしまう。
あまりいつも言うことは変わらず、でもちょっとずつは変わっているという「インディア・ソング」方式なんです。(マルグリット・デュラスの映画「インディア・ソング」にほとんど動きが無いという話からの造語)

驚いたことは二点あって、まず、「徒然草」の作者を吉田兼好というのは誤りで、兼好法師または卜部兼好が正しいんだということ。そこを引用すると、
「吉田兼好と呼ばれるのは、この卜部家が室町時代に吉田神道を興し、吉田と改称したことによるので、間違い。」(34ページ)
だそうです。ふうん。でも教科書にも吉田(卜部)兼好って書いてあった気がするのになあ。
それともう一点は「五人のためのおいしい紅茶を淹れるには、ポットに六人分の茶葉をいれる必要がある」(252ページ)ということ。でもこれは紅茶を淹れる常識みたい。知らなかった。
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☆「ミラーを拭く男」感想

2006年05月14日 01時48分11秒 | 映画
録画していた、梶田征則監督の「ミラーを拭く男」を見た。
緒形拳が全国のカーブミラーを拭いてまわる話。
最後に津川雅彦がマスコミを利用して全国の中高年男性に呼びかけて、カーブミラーを拭くことが市民運動みたいになる。「フォレスト・ガンプ」のような展開。でも、緒形拳はその運動とはべつに妻の栗原小巻と夫婦で地道に拭いてまわるのかなあ? という終わり方だった。
この映画の特徴は緒形拳がしゃべらないこと。
もうほんとうにしゃべらない。
最後までしゃべらないのかどうかだけに興味があって見た。しゃべらなかった。
緒形拳がしゃべらないということだけで引っ張るにしては長く感じた。もっと短くていいんじゃないかと思った。
あまり、おもしろいとは言えない。
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