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☆柄谷行人「定本 日本近代文学の起源」感想

2010年01月28日 23時54分57秒 | 文学
定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)柄谷行人「定本 日本近代文学の起源」(岩波現代文庫)読了。
柄谷行人の本は一度読んでいたことがあって、この本も昔読んだのだけれど、本屋で手に取ったときに私小説について書いているページをたまたま開いたことと(私小説には最近興味がある)、ぱらぱらめくって夏目漱石について書いてあるのを見たこと(夏目漱石にはずっと興味がある)で読み返す気持ちになった。
とてもおもしろかった。傑作だ。
この間、盲腸炎になったときに胃の痛みを感じた。僕は普段胃の痛みを感じなくて、つまり胃の存在感を感じたことがない。胃が痛くなる人は、誰でも胃の存在感を感じているように思って、僕がお腹が痛いと言えば、胃か大腸かはたまた別のところか訊いてくる。僕が痛がっているのは胃でも大腸でもなく「お腹」なのである。
痛みの種類も「きりきり」か「しくしく」か「ずきんずきん」か訊かれることがあるのだけれど、それについても明確にお答えできない。強いて言えば「なんだか痛い」。
別の例を挙げる。
たまに「この子は勉強が嫌いなんです」という発言を聞くことがあるのだけれど、その子が嫌いだという「勉強」というのは何なんだろうか。一日中イヤホンで音楽を聴き続けることも、テレビゲームを指から血が出るほど研鑽することも、相当に勉強だと思うのだけれど、たぶん発言者の考えは違う。
「この子は勉強が嫌いなんです」で言われる「勉強」とは、「勉強」と名付けられたものなのだ。それがどのような行為であるかは関係ない。どのように呼ばれるかが重要だ。
「風景」にしても「内面」にしても「児童」にしても、それがそのように呼ばれる以前からあったわけではない。呼ばれたときから存在しだしたのだ。子供はもとからそのような存在があったわけではなく、そういう概念が発生してから出来上がったものだ。この本はずっとこの調子で繰り返される。
ゆでたまごの漫画「キン肉マン」の登場人物、悪魔将軍が実は中身ががらんどうだったこと、がらんどうのときは最強だったのに肉体を持って敗れたこと、を思い出した。たぶん「内面」を持ってしまったことで生きていくのがつらくなった近代人を思わせるのだろう。

「私はこのような人間だ」と繰り返し言い、思うことがその人の性格を形作るのだなあと最近よく思っていて、「「私はこのような人間だ」とは思わない人間だ」と思うようにしている。いや、冗談です。それではまずい。
そうじゃなくて、人間には強固な内面、性格がありそれは変わらないものである、とは思わないようにしている。
というか、思えなくなった。

夏目漱石の「文学論」を読もうと思いました。
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