大名の子孫とも言い切れない新知事

2009-04-14 00:00:44 | 歴史
秋田県知事選挙は、ねじれ選挙の結果、佐竹敬久氏が当選したが、公約を次点候補のそれと比べてみても、ほぼ同じように感じた。というか、まったく同じではないかと思う。産業振興と若干の農業振興と弱者救済。公費削減と増税回避。すべての公約と同じで、実行できるかどうかは、『未来の話』である。

そうなると、一体、どこが勝敗を分けたのかと言えば、秋田市長であった安心感と、あとは「秋田の佐竹」という旧大名家の氏素性ではなかったのだろうか。遡って、秋田市長になっていたのも「佐竹氏」であったことが有利に働いていたとすれば、極論すれば、「藩主の復活」ということ。

しかし、血筋をたどれば、同じ佐竹であっても、敬久氏の流れは大名家と言い切れないところがあるのだ。佐竹北家だそうである。つまり、元々は佐竹の直流であったのだが、分家し、佐竹北家をつくり佐竹家の家臣となっていた。その後、明治維新の後、本家が五段階貴族(公侯伯子男)の上から二階級目に座ることになった余禄で家臣の佐竹北家はぎりぎり男爵の椅子を得る。佐竹本家の侯爵は鍋島(肥前)、山内(高知)という維新の主役と並ぶ大優遇措置である。その高評価は何であったのか。


佐竹氏を遡ると、源頼義に辿りつく。武家としての家柄は最高クラスである。平安時代後期には茨城県を支配していた。しかし、佐竹家の最初の失敗は源平合戦の第一ラウンドの治承・寿永の乱で、源氏の出なのに平家を応援したこと。その後、源頼朝による勝利が確実になると、一変して擦り寄るも、領地を取り上げられ、一介の幕府の家来となる。鎌倉時代は泣かず飛ばずの苦悩の時代である。

そして、室町時代に入るときには、運よく関東の雄、足利尊氏に取り入り、鎌倉府の重職を得るも、しょせんは足利脆弱政府の役人であり、勢力は小さかった。そして、ついに戦国時代になり、手段を選ばないダーティ手口で、競争相手を滅ぼし、茨城県全域を支配することができる。とはいえ、北に伊達氏、南に里見氏、西に北条氏、東は海だ。

大きく情勢が動いたのが秀吉の北条攻め。秀吉側について大成功。ついに50万石の大大名に到達。所領は茨城県が中心である。そして、成功の次には失敗が待っている。関ヶ原の戦いでは、当初、態度を明確にせず、後になって徳川側につく。徳川からの勧誘レターに喜んで応じたことが、単なる見せかけと発覚する。石田三成との二股交際レターが当主の目の前につきつけられたのは、呼びつけられた家康の面前だったとなれば、いいわけ無用である。そのまま秋田20万石に格下げである。年収1000万円のサラリーマンが地方の子会社で年収400万円になるようなものである。

もっとも、取り上げられた茨城県は、水戸徳川家に与えられたのだから、嵌められたようなものかもしれない。

そして、次のターニングポイントが幕末である。東北諸藩の多くが幕府側について、木っ端微塵になったのだが、佐竹氏では藩内の意見が二分されたのだが、藩主が倒幕を宣言。ところが、薩長軍が東北に到達するまでには、長いタイムギャップがあるので、あちこちで苦戦を強いられ、滅亡寸前に追い込まれる。ここで、家来もろとも佐竹家が滅亡していれば、秋田県知事選挙の結果は異なっていたのだが、やっと救援軍が到着し、危地を脱する。

これで、20万石の倍増や運よければ再び茨城の地に帰れるのでは、という大きな期待は、夢のまた夢ということになる。わずか2万石の加増と、名誉としての候爵位である。要するに、負けた藩を取り潰さなかったので、加増の財源がなかったわけだ。

困ったのは、巨額の戦費を外国商社から借金した藩の方である。その後、勝手に貨幣を鋳造するなど、秋田県では中央に対する反抗的な気分が残ったのである。

そして、新藩主(いや、知事)のオセロゲームは白?黒?

間違っても、天守閣再建というような野望は考えない方がいい。もともと天守閣はなかったのだから。