将棋名人戦の先に見える和服精神

2005-04-12 20:14:39 | しょうぎ
3f3e05fa.jpg将棋ファンにとって4月は特別な意味がある。江戸初期から伝わる名人位をかけての戦いが始まるからだ。

今年は4月12/13日の二日間で七番勝負の第一局が行われる。対戦は、森内俊之名人と羽生善治王位・王座・棋王・王将(四冠)。ほぼ2週間に1局のペースで第二局以降が行われるが、正直言って、かたや絶不調の森内名人と超絶好調の羽生四冠では、「勝負は論外」とする向きが多い。プロ棋士は約150名ほどだが、当の二人を含め、全員が羽生名人返り咲きを予想しているのではないだろうか。名人を通算5年以上獲得した棋士には、永世名人の称号が与えられるのだが、今まで通算4年間名人に就いている羽生善治四冠は今回、名人に返り咲けば18世名人の資格を手にする。

さて、今まで17人の永世名人だが、11人は家元制度による江戸時代の人物である。そして明治になり、ゴタゴタの末、2人が名人位につき、その後、昭和12年から実力名人制度に移行した。実力名人制になってからは、14世名人木村義雄、15世大山康晴、16世中原誠、17世谷川浩司までが確定している。そして羽生善治18世の次の19世が誰になるのかは、まるでわからない。


私も、棋界の隅っこでボランティア「こども教室」を開いているのだが、将棋関係者の最大の悩みは、「囲碁より格下」ということだ。明らかに国内の競技人口は将棋の方が多いのにスポンサーは少ないし、プロ棋士の数は1/3程度だし、企業のお稽古クラブだって、囲碁棋士の方が口が多い。名人戦など将棋のタイトル戦に出場する棋士は、必ず羽織袴の正装で向うのだが、囲碁のタイトル戦はみんな平服だ。普段の対局でも囲碁は脇息に背もたれがついているが、将棋では脇息だけで背もたれがない。かなりストイックになっている。

では、その囲碁と将棋の差がいつ発生したのかを辿ってみると、相当古い話になってくるようだ。しかし、将棋側の資料では囲碁を悪く書くし、囲碁側の方でも逆である。多少、間違いがあるかもしれないがご容赦願いたい。

囲碁にしろ将棋にしろ現在のルールとほぼ同じになったのは戦国時代末期と考えられている。戦国武将の多くは、このボードゲームを楽しみ、強豪を指南役として招いていた。その一人が京都に名声を成した本因坊算砂(法名:日海)である。1559年の生まれだ。そして算砂の一番弟子が後に初代将棋名人となる大橋宗桂である。年は逆に算砂より4歳年上。そして、この二人のコンビは信長、秀吉、家康の三大権力者にぴったりと取り入ってしまうのである。そして囲碁所と将棋所の二つの役職が認められることになる。当初は算砂が両者を兼ねていたが、その後将棋所は大橋宗桂に譲る。記録上、将棋は宗桂の7勝1敗。囲碁の方は不明だ。あてがい扶持は各50石と、この時には囲碁将棋同格であった。

ところで、江戸時代の身分制度は何でも「終身制」が多い。将棋所にかかわる名人位も終身制だったのだが、この大橋宗桂は80歳まで長寿を誇ることになる。そして、その跡目問題でゴタゴタが始まる。これが大名なら「即、御取潰」だが、こと将棋という技術分野ではそういうわけにもいかず、結局、大橋家、大橋分家、伊藤家の三家並立になった。そして50石あった石高は三家各20石ということになった。1石100万円として計算すると、5000万円だった売上高が2000万円になったようなものだ。そして、しばらく将棋界が停滞している間に、囲碁界では年に一度の「御城碁」がはじまる。1626年のことだ。江戸城内で将軍の前での対局である。ここで差がついてしまった。

それから約10年ほど経つと、将棋指しの登城も始まる。「御城将棋」だ。場所は江戸城内黒書院である。お城シリーズブログも書いている立場で解説すると、黒書院は本丸ほぼ中央にある。小泉首相が「郵政民営化が本丸」と言うので、本丸=天守閣と勘違いしている人が多いが、天守閣はただの芸術作品のようなものかもしれない(あるいは毛沢東流に言えば「はりこの虎」)。どこの藩でも政務は本丸とか二の丸とかいう普通の部屋で行われていた。事実、江戸城の大天守閣は1657年の振袖火事で焼失してしまい。再建工事は途中まで行われたものの土台ができた段階で財政難で中止された。道路族に知らせてやらねばならない。
さて、この江戸城内での対局だが、囲碁と将棋と同時に行われていたのだ。将棋側の歴史には、毎年11月17日に登城していたと記載されているが、囲碁側も同様だ。日本将棋連盟は11月17日を将棋の日と決めているが、自分勝手に決めてよかったのだろうか。

そして、黒書院は4部屋より成っていて合計78畳であることがわかっている。想像だが二つの対局は別室で行われていたのではないだろうか。なにしろ対局者以外各10名ほどが控えていたというのだから、一室では狭い。制度が始まった頃は、対局者がライブで指していたのだが、その後は、予め対局した手を将軍の前で再現するようになった(現代で言えばVIDEO放送だ)。二つの部屋を将軍が行き来し、対局者は、お目見えの間に10手くらいずつ指すのだろう。

そして歴史はまた、囲碁・将棋に差をつける。当初は囲碁所、将棋所とも羽織着用が認められたのであるが、江戸中期になると、囲碁所にはさらに袴(はかま)の着用が認められるようになる。限りなく武士階級に近づいたのである。将棋の方は初代大橋宗桂の時代から袴なしだ。宗桂像とされる図画にも袴はない。袴がないと裾が乱れるので正座しかない。つまり背もたれは不要だ。(座布団は元々殿中では使われなかった)


そして、その身分の差を引きずりながら、現代の将棋指しは「袴」に対して異常にこだわる。制度的に認められなかった反動かもしれない。また囲碁棋士へのあてつけの意味もあるだろう。若手棋士など、タイトル初挑戦の時など、対局料以上の大金を和服につぎこんだりするのである。しかし、私見であるが、囲碁界とのステータスギャップを埋めるには、そうした外見によるデモンストレーション行為では、解決にはならないようにも思えるのである。

ただし、和服購入費用はタイトル戦で着用する場合には、その全額が必要経費として税務署に認めてもらえるそうだ。「それなら」と、私もこども教室に浴衣でも着ていこうかな。悪ふざけの過ぎるこどもには、「天誅!!」、「破門!!」、「成敗!!」とか叫んで、竹刀を振り回してみれば効果的かもしれない。

追記:江戸城黒書院のことが少し判明。他の建物がヒノキ作りに対し、この建物だけは赤松材を用いている。白書院が公式な来客に対して使われたのに対し、少しフランクな来客用だったそうだ。そして約80畳の建物が「田の字」型に4分割され、左奥が上段の間、左手前が下段の間、右奥が囲炉裏之間、右手前が西湖の間というようになっている。上段の間と下段の間は高さが約20センチ違い、右側の二部屋は控えの間になっていた。将棋と囲碁の棋士は11月17日に将軍の前で公開対局を行ったのだが、どのように配置されていたのだろうか。両者とも10人近い御付がいたと考えられるのだが、プレーヤーのみが上段の間で、控えのものは下段の間とか・・
なんとなく、上段の間が囲碁で下段の間が将棋、というような気もするのだが・・・