うっすらと漂う、4-1の噂

2005-04-11 22:41:56 | 市民A
a32d09fd.jpg東京都内に昨年末からうっすらと流れている噂がある。それは北方領土3島返還論だ。実際のリークからの噂なのか、意図的にどちらかの国から流されているのかはわからない。かなり、噂には肉付けがされていて本当らしくも感じる。うわさを考える前にいくつか、整理しておこう。

まず、北方4島の面積だが、歯舞は100平方キロ。色丹は253平方キロ。国後は1,499平方キロ。択捉は3,184平方キロで合計5,036平方キロ。つまり歯舞+色丹は全体の7%、国後が30%、択捉は63%である。

次に、二国間の条約の推移だが、説明の便宜的に広義の北方領土として4つの地域を設定する。
A.歯舞+色丹
B.国後+択捉
C.ウルップ島からシュムシュ島(北千島)
D.南樺太。

もっとも古くは1855年の日魯通好条約ではBとCの間に国境を定め、樺太については国境を決めなかった。

次の条約は、1875年の樺太千島交換条約で樺太全体をロシア側に譲渡する一方、Cの北千島を日本領とすることになる。

その後日露戦争が勃発。結果として、1905年にポーツマス条約が締結され、Dの南樺太を日本が領有することになる。(ABCDのすべてを日本が領有)

その後、第二次世界大戦が勃発し、昭和20年8月8日にソビエトが対日参戦をし、日本はポツダム宣言を受諾する。しかしその後もソ連軍は進駐を進め、9月5日に北方4島を占有する。

この第二次大戦終局部分は複雑だ。

まずポツダム宣言(1945年7月26日)は当初米英中の三カ国の宣言であり、その後ソ連が参加することになる。領土問題の記載の背後にあるのは、一つはカイロ宣言(米英中1943年11月27日)であり、もう一つはヤルタ協定(米英ソ秘密協定1945年2月11日)だ。

時系列で追うと、カイロ宣言では、
It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pasific which are she seized or occupies since the biginning of the first world war in 1914, and that all the territories that Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and Pescadores, shall be restored to the Republic of China.

Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed.( November 27,1943)

前段では第一次大戦開始以前に戻すことが規定されている。中国関係には固有名詞が使われている。
後段は、一般的規定で、この節だけでは、いつ以降ということが明確でないが、otherという単語は前節を受けていると考えられるので、前節同様に第一次大戦開始以前と解するのが一般的だろう。(となると、千島のすべてと南樺太は日本領となる。


次がヤルタ秘密協定である。この協定は主にヨーロッパ戦線の終結後の体制を決めたものだが、日本問題については、ソ連の参戦を規定してあり、その果実として
一 外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持する。
二 1904年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシア国の旧権利は、次のように回復される。
  (イ)樺太の南部及びこれに隣接するすべての島を、ソヴィエト連邦に返還する。
  (ロ)大連商港を国際化し、この港におけるソヴィエト連邦の優先的利益を擁護し、また、
    ソヴィエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権を回復する。
  (ハ)東清鉄道及び大連に出口を提供する南満州鉄道は、中ソ合併会社を設立して共同に
    運営する。但し、ソヴィエト連邦の優先的利益を保障し、また、中華民国は、満州に
    おける完全な利益を保有するものとする。
三 千島列島は、ソヴィエト連邦に引渡す。

実際には、ヤルタ協定は、米国が議会で批准していないし、実際には中国の主権を侵害する条項は実行されなかったため有効性はないと考えられる。もちろん秘密協定で日本側は知らないわけである。


次にポツダム宣言の領土規定である
The terms of the Cairo Decleration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we detarmine. (July 26, 1945)
前段がカイロ宣言の確認であり、後段が固有名詞である。such minor islands as we detarmineというのがその対象個所である。そしてそれは不明確であり、米国はヤルタ協定ではないと言っているわけだ。


そして1951年にサンフランシスコ平和条約があり、樺太と千島の領有権を日本は放棄した。この千島の中に、択捉、国後は含まれているかどうか明確になっていない。さらに放棄した領土の行き先は書かれていない。沖縄や小笠原は米国信託統治と規定してある。さらに言えば、ソ連は調印していない。

問題は、この時1951年に全権大使である吉田茂は「歯舞、色丹は固有の領土」というスピーチを発しているが。国後・択捉についても日本の固有領土であると言うべきだったわけだ。(もっとも。言わなかったから放棄したとは解釈はできない)


ここから先が、戦後の交渉になるのだが、1956年日ソ共同宣言(両国批准)では平和条約締結後、歯舞、色丹を日本に引き渡すことが規定されている。いかにも2島返還に合意しているようだが、日本側の解釈では、2島返還と平和条約締結を行っても、領土交渉は続くということである。そして平和条約は締結されていない。ロシア側も、2島を引き渡すといっても主権は別だということを言っている。

次に1993年の東京宣言では、「4島全体が領土交渉の対象である」ということを確認している。実質的にはこの段階でロシアも国後択捉問題をテーブルにのせることに同意し、日本は北千島と南樺太の領有権がロシアにあるということを認めたことになるだろう。

このあと、川奈提案という、「主権を日本と認めれば引渡時期は先延ばしする」という案があったがロシアが拒否をしている。

両国間の最後の宣言は、2001年のイルクーツク宣言で、交渉の原点が1956年の日ソ共同宣言であるということを確認している。(つまり、サンフランシスコ条約以前のごたごたした部分にはふたをしようということである)

つまり、それなりに交渉は煮詰まってきているのは確かなのである。

ここから先はライブな話になる。
プーチン政権の豪腕さがどこまで続くのかはわからないが、州知事を簡単に任命制に変えたりする男であるから独裁者に向いつつあるのは間違いない。その中で領土問題では、昨年、中国と国境を確定した。アムール川の2島とウスリー川の1島である。中国の固有の領土3島を実効支配していたロシアが、1島を中国領にし、1島を1/2に分け合う形で解決した。要するに半分ずつということだ。そしてその方法を日本に使えないかと、アドバルーンを上げ始めたのかもしれない。

が、どうみても日本が歯舞・色丹の2島の7%の面積で満足するわけがないことは明らかであるため、ロシア国内で1956年の2島返還論をベースして、プラス1(国後)を足して決着しようと考えている可能性がある。それでも面積的には択捉は4島合計の63%もある。(国後は沖縄島程度だが、択捉は鳥取県程度である)日本は島の数で3/4、ロシアは面積で63%と主張するわけだ。

そして実際ロシアが譲れないのは、国後択捉間にある国後水道のロシア海軍による自由航行のはずだ。もちろん核兵器搭載の原潜のことだ。ここが通れなくなるとロシアの潜水艦艦隊は太平洋への北側の出口に苦労することになる。だから択捉は日本に渡せないのである。

しかし、この3島案の最大の問題は、どちらの国内でも損失論が沸騰することが目に見えている。そこで、逆にどこからともなく3島論が聞こえてきたのかもしれない。非公式世論調査というか・・・

もし3島案が俎上に乗るとするなら、どちらの国ももう一つプラスアルファの要因が必要なわけだ。領土に替わるべき、巨大プレゼントである。喪失感を埋め合わせる実利が必要なのだろう。そして、少し前から考えているのではあるが、ロシア側が日本に期待する実利はたぶん各種あるだろう。よりどりみどりかもしれない。しかし、一方日本がロシアに領土一島に見合って求めるものは何かあるのだろうか?実際に見当がつかない。今の日本に必要なものは、物質ではなく、「不良債権処理」とか「土建屋国家からの脱却」とか「赤字国債依存の終焉」とか「拉致被害者奪還」とかの課題であり、そこにロシアの必要性は感じられない。そう考えると、結果として3島論はあっという間に風の中に吹き飛んでいくのかもしれない。

しかし、皮肉にも3月に開始される愛知万博の最大の目玉は「ロシア製冷凍マンモス」であるらしい。死せるマンモス、生ける政治家を走らすというような話があればまた展開は進むかもしれない。

2国間交渉は時に不自由で進まないものであるが、もし交渉の仲介者をさがすなら、冷凍マンモス以外に一人適任者がいるかもしれない。それは米国政府の中でもっともロシアに近いと言われる新国務長官ライス氏である。もっとも彼女が親日家であるという話はさっぱり聞こえてこないのではあるのだが。

汽笛一声は新橋ではなかった!

2005-04-11 20:17:38 | 日本最古鉄道
b375128d.jpg汐留再開発で生まれた街を総称してシオサイトというのだが、高層ビルが林立した一角に2階建ての石造り風の洋風建築が再建された。旧新橋停車場を模した建物で、その中に「鉄道歴史展示室」が入っている。

一般に、鉄道は新橋=横浜間に運行されたのが最初とされ、明治5年10月14日(1873年)、明治天皇を乗せた御覧列車が新橋=横浜間を往復した日を記念して10月14日を鉄道記念日という。いきなり天皇陛下が文明の利器に乗るというのも「ちょっと変だな?」と引っかかるものがある。現代で言えばリニアモーターカーのようなものだ。そしてもう一つ、かなりこどもの頃から謎に思っていたことがある。それは、「なぜ始点が東京駅でなく新橋駅だったのか」ということだ。そして、その謎を解くために、入場料無料の鉄道歴史展示室の資料にあたったのだ。実は、目的の新橋駅選定の理由にはおぼろげしか肉薄できなかったのだが、もっと驚いたことに、最初の鉄道は、新橋発ではなかったことを発見したのだ。実に、会社の昼休み3回を使って足を運んで調べた。(その割に書き栄えは?だが)

何しろ、明治5年当時の事情につき、丹念に資料にあたると、いくつかの食い違う記載があることがわかる。明治は遠くなりにけりだ。そして、乗車運賃の表などを見ていてやっとわかったのだが、日本で最初に鉄道が走ったのは、明治5年5月7日である。そしてその時の区間は、横浜=品川の2駅間である。要するに部分開業である。そして、4ヶ月間の商業運転の後、品川=新橋間が開通した。既に運行している列車なので、明治天皇も安心して乗車することができたわけだ。

5月7日の早朝に横浜駅から汽車は走り出し、途中駅なしで品川まで約1時間で到着する。その後まもなく、横浜=品川間に神奈川と川崎という2駅が誕生。そして4ヵ月後に新橋まで鉄道ができたわけだ。実際に鉄道が新橋まで延伸したのは記録上は9月12日なのだが、後に太陽暦に換算され10月14日に改められている。途中駅が品川、川崎、神奈川というのは、今の東海道線(湘南電車)とほぼ同じだ。時間は1時間強で1日6往復。料金は上等が1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘だ。当時は米1斗(15kg)が37銭5厘だそうだ。下等でも米15kgとイコールということは8,000円くらいと考えられ、かなり高い。が新幹線に1時間乗って静岡まで行くと12,000円くらいだから、それほどおかしくもない。


「汽笛一声新橋を」は鉄道唱歌だが、この唄が発表されたのは、27年遅れて1900年である。すでに、東海道線も東北線も中央線も開通していて、唱歌の中で各線ごとに駅が順に紹介されていくのだが、最初が新橋駅ということだ。そして、当時は東北線は上野が始発で、中央線が東京になっていた。要するに各線バラバラで不便だったわけだ。欧州の大都市ではよくある形態だ。

現代でも、鉄道路線の予定地選定となれば混迷するのだが、当時も鉄道路線については大論争があったわけだ。技術的には、なるべく海岸線に近いところを走れば、資材の運搬に便利だし、平らである。しかし、これに反対したのは、「漁民」である。要するに、魚が逃げるということだろうが誤解だ。それで、若干海から離れたところに線路が敷かれた。そして、問題の新橋駅の場所だが、いくつかの要素がある。

まず、今でも「外国人(投資家)打払い令」を出しかねない政党もあるぐらいだが、当時も外人問題があったそうだ。外人が多く住む場所の一つは横浜である。そして東京市内では築地居留区である。現在の聖路加病院や新阪急ホテルのあるあたりだ。築地に近いところに駅を作ると、外人がどんどん横浜から東京へ入ってくるではないかとの危惧を持つ筋がいたわけだ。その人たちは、今の浜松町のあたりを終点に考えていたらしい。これも無論、誤解だ。また兵部省は浜離宮のあたりを海軍基地にしようとしていて、そうなると浜離宮より品川寄りの浜松町止まりにしなければならなかった。もし浜離宮から内陸に向って海軍基地になっていたら現東京の都市機能は大いに変わっていたはずだ。

ところが論議が密室で続けられている間に、線路より先に駅舎の用地が決まってしまったのだ。それが、この汐留の銀座寄りの場所である。そこにあったのは二つの大名屋敷で、一つは会津藩、もう一つが仙台藩であるが、どぢらの藩も官軍ではないため、おそらく政府に没収されていたのだろう。結果として、築地に近い新橋に駅ができ、あっという間に線路が敷かれたため、浜離宮が海軍基地になることはなかった。その新橋駅は、現在の東海道線より少し海寄りに位置するため、さらに都心まで延伸しようとすると新橋遊郭をなぎ倒す必要があったはずだ。そういうのはいつの時代でもなかなか立ち退かないものだ。

そして、時代は移り変わり、現代の「旧新橋駅停車場」は、一見石造りの鉄筋コンクリート石張り仕様で復活したわけだ。しかし、「駅舎」そのものを忠実に復元することは可能でも、その駅までの「線路」を復元することは極めて難しい。なにしろ、新橋停車場から横浜方面に線路を敷き直すためには、いくつか邪魔なビルを取り壊す必要がある。まず最初に倒すのは、完成したばかりの高さ215メートル43階建ての汐留シティセンターだ。次に倒すのがロイヤルパークホテルと日テレのビルだ。駅舎の横の松下電工ビルは倒さなくても支障がないと思われるのだが、こちらは松下電産と経営統合するのでビルが不要になる可能性があるのかもしれないのだ。