江戸城には謎が多いのだ(1)

2005-04-27 19:48:30 | The 城
1ac5d1fe.jpgお城シリーズblogを書くため、図書館で調べることがあるのだが、お城関係の本は多い。結構、数十冊のシリーズ本になっていたりする。そして「完本」とか「定本」とか権威を主張するのだが、案外、それぞれ記載事実が異なっている。うかつに他人の説には乗れない。大著になると、「監修OOOO」といった形で、胴元の先生の配下で、大勢で手分けして書くようになっているが、実際には各地の社会科の先生が書いていたりするようで、内容が手前味噌のように感じる場合が多い。

そして、今回は江戸城に触れるのだが、東京駅徒歩10分の場所にあるにもかかわらず、謎が多い。江戸城の謎をまとめた本もある。はっきりしないことが多い理由は、江戸、明治~昭和と権力の中心であったために、批評するのが憚られたに違いない。そして、資料は警備的な理由であまり明らかにされず、また実地調査も限定的になってしまう(城郭の一部が使用中であるからだ)。しかし、現在は江戸城天守閣跡、本丸跡、二の丸跡は公開されていて、誰でも入苑できる。江戸時代に各種発表された「お城ランキング」でもいつも番外(行司の欄に書かれている)になっているほど大きい。「最大の城」の風を感じるため、昼休みに小走りに行く。正面の大手門から外界を振り返ると、現代と中世が融合して見える。

今回のメインテーマの一つは、本丸黒書院の跡地を確認したかったのだ。別途、将棋blogも書いている都合、確認したい場所なのである。毎年11月17日に、時の名人や弟子達が江戸城に登城して「御城将棋」を指していた座敷が、「黒書院」と言われる場所であり、日本将棋連盟は、その11月17日を「将棋の日」と決めてしまったのである。しかし、私が調べてみると、11月17日には将棋だけではなく、「御城碁」も黒書院で同時に行われていたというのだ。囲碁界の方では「御城碁」の記述はあるが、「御城将棋」についてはシカトだ。お互いに東アジア各国と同様、難しいものだ。

さらに調べると、黒書院は合計78畳であるが田の字型に四つの部屋に分れ、入口から見て左奥が上段の間、左手前が下段の間、右奥が囲炉裏之間、右手前が西湖之間と言うことになっていた。左側の上段の間と下段の間が正式な客間で右側の二部屋が控えの間という感じだ。そして、果たして同時開催の囲碁と将棋とでは、どちらが上段の間に座っていたのだろうか?ということなのだ。広い苑内の散策を開始する。

まず、基礎知識だが、現在の江戸城には天守閣がない。いつ消失したかというと1657年に起きた明暦の振袖火事で全焼して以来だ。(当時50万人いたという江戸の人口のうち、11万人が焼死したというが、50万にも11万にも諸説ある。)1636年に家光が完成させた大天守閣は、わずか21年で消滅した。この天守閣は三代目で、初代は太田道灌作で、二代目は家康作、そして家光作になるが、この辺の事情は、続編で触れることにするので、今日はスルーパス。

御城将棋は、この天守閣のない本丸で行われたのである。この本丸の構造であるが、大手門から入ると、いくつかの番所があり、馬で来た者も駕籠で来た者も、すべて、徒歩になる(現代的に言えば、入口脇に駐車場があると考えればいい)。そして最初にあるのが「大広間」である。大名や旗本が一同に集まるのがこの部屋で、大概の行事はここで終わる(講堂のようなもの)。さらに奥へ進むと廊下があり、「松の廊下」と呼ばれる。「L字型」に曲がっている。L字型になったのは、特段の意味はなく、他の建物との関連であったように思える。以前、浅野某氏が一暴れしたと言われるが、実際の犯行現場は別の場所だ。

そして、その後ろにある建物が、「白書院」である。幕府の公式的な来客に対して使われる部屋で、皇室や外国からの使者などとの面会に使われている。そして、さらに奥に位置するのが、「黒書院」。部屋の序列から言うと、「白書院」が上で、公式的であるのに対し、「黒書院」は私的性格の強い部屋で、他の建物が檜作りに対して、赤松材を使っていたということだ。将軍の趣味の部屋ということだったのだろう。

そして、その先は「中奥」と言われるエリアで、日頃、将軍や側近たちが政務に勤しむ建物群があった(首相官邸&省庁)。そしてその奥が将軍の自宅と言うべき「大奥」である。

位置的には、家光時代は、大手門から、本丸、中奥、大奥とストレートに並び、大奥の先が天守閣であったのだが、明暦の大火以後は、建物が大きくなり、中奥と天守閣跡(天守台)との間隔がなくなり、天守台に向かって右側の空きスペースへ大奥は移動することになった。

現在は、一帯に、まったく建物はなく、本丸跡ということで、広大な芝生のスペースが広がっている。不謹慎な言い方をすると、ゴルフのロングホールを横に二つ並べたようなスケールだ。そして、いくつかのポイントには表示があり、「松の廊下跡」は位置を特定できるようになっている。だが、・・・

いくつかの江戸中期の配置図によれば、松の廊下の先に、白書院、黒書院があるはずの場所は5メートル位の高さの土手になっていて、何本かの松が植えられている。どうも位置関係がおかしい。廊下の先にあるのは同じ高さの建物であったはずだ。「松の廊下」が「L字型」であったことを考慮してもやはり、そこの土盛は不自然に感じる。少し全体の地形を見ていると、左側の土手から何ヶ所かで土盛が右側に突出していることが感じられる。このあたりは家康の時に全部人工的に作られた(旧太田道灌の城の上に2メートルの土を入れたそうだ)ので、やはり変だ。

ここから先は、単に推測であるが、この白書院、黒書院のあたりの土盛の下には、幕末の大火で焼け落ちた本丸の残滓が埋められたのではないだろうかと想像するのである。その後、本丸は再建されていない。まさか身元不明になった大奥のお嬢様方のご遺体は埋まってはいないと思うが、焼け残った材木などは、まとめてから土を掛けたのではないかと思うのである。史事では、江戸城は13回も火事に遭遇している。幕末の1859年の火事では本丸、西丸の両方とも炎上し、1年後には両丸ともに再建されたが、続く1863年の火災でも両丸炎上。しかし、西丸だけしか再建されなかったのである。そして、本丸の跡地は140年後の東京都の完全なる中央部に、「真空地帯」を作ったわけである。

ということで、黒書院の座敷の秘密にはまったく近づけなかったのであるが、ちょっと歴史脳を刺激された1時間だったのだ。それにしても、江戸城見物客の半分以上は、白色系外国人であることも、当然とは言え、意外な発見なのだ。