東大生がハマグリ泥棒!

2016-08-15 00:00:39 | 市民A
東京大学の学生が養殖場からアサリやハマグリを失敬した話が、終戦の日にふさわしいテーマとなるには理由がある。

東京大学の工学部には、ある時期だけ「もう一つの工学部」があった。場所は千葉市。西千葉駅前にある現在の千葉大学そのものである。荒野に建物を建て、しばらくして駅ができた。

第二工学部。1942年(昭17)4月第一期生421人入学。1951年(昭26)4月閉学。

戦後、ある時期からこの幻の学部を「戦犯学部」と呼ぶ者が現れる。第二次大戦がはじまり各種兵器の開発が必要になり、技術系大学生を大量に育成しようと1年前からひそかに準備が進んでいた。

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実際に、開学の時にはすでに米国との戦いは始まっていて、事実上手遅れだったのだが、この第二工学部の出身者の同窓会が70年経ってまとめた記録「未来に語り継ぐメッセージ」を入手し、一読してみると、「戦犯学部」とは、あまりに酷い言い方であることがわかった。

まず、入学のシステムだが、もはや入学試験を行う状況ではなかったそうで、東大合格かどうかは各高校からの成績表を並べて書類審査で決めたそうだ。そして、各高校からの合格者を1番から順に並べ、交互に本郷の工学部と千葉の第二工学部に分けたそうだ。千葉が嫌だと言って最初から東京工大を目指す学生も多かったそうだ。

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そして時節柄半年ごとに新入生を受入れ、卒業までは2年半。つまり、19年の9月には第一期の卒業生が出て、多くは民間の軍事工場や海軍に入ったそうだ。

アカデミックな本郷に入れず、千葉に回った学生は一様に落胆したようだが、実際には都内は食糧危機と空襲におびえ続けていたが千葉は食糧に恵まれていて、周囲がサツマイモ畑やアサリやハマグリの養殖場があり、なんとか食いつなげていたそうだ。書物に書かれた文章を読むと、サツマイモ代金は払っていたものの、貝類は無銭飲食だったようだ。

ちょうど終戦を挟んで学生時代を千葉で過ごした方の証言では、東京大空襲(昭20/3.10)の翌日、地方から千葉の入学式のため都内に来たものの、東京から千葉まで歩く途中で川に浮かぶ力士の死体や枕木と見間違える焼死体を目撃した話も書かれている。

そしてもはや昭和19年、20年になると授業といっても講義を行うだけで実験資材もなく、軍事教練があったり工場に行ったりし、帝大の頂点であったことからして、機密情報もかなり入っていて、戦争の終結は誰もが予感していたようだ。

また東大でも法文系の学生は一足先に戦場に向かい、相当の比率で戦死していて、工学系の学生も言葉少なめではあっても心の負担を語っている。特に、終戦間近な時期に戦場に向かった者の多くが、輸送船を撃沈されて亡くなったと書かれている。

そして、この第二工学部だが、奇妙なことに戦後になっても学生を受け入れている。戦時下の色々な都合で、学生として中途半端になった学生たちに卒業証書という決着をつけさせるためだったのかもしれない。短い期間であるが、終戦前の卒業生、終戦をまたいだ学生、戦後入学の学生と三様で、それぞれ別の思い出を持ちながら戦後の技術革新に大きく貢献した人ばかりである。


ところで、勉強もしないのに、学問を究め、多くが90歳になっても活躍しているのは、「サツマイモ」と「ハマグリ」という縄文時代式食生活の効果なのかもしれないが、あくまでも東大に入ってから食い始めたので、子供のころから食い続けても東大には入れないと思うよ。