神頼みはいけない、と思う

2014-01-03 00:00:55 | 市民A
正月になり、多くの人は神社に行って、「今年は○○がうまくいきますように」と祈願をすることになる。題目は、家内安全とか希望校合格とか、招福、交通安全、良縁とかさまざま。

私だって何カ所かに行っていたし、今年も何カ所かには行くだろう。

ただ、最近わかってきた(というか勉強したこと)のだが、「神頼み(かみだのみ)」とか「神頼り(かみだより)」というのは、全然ダメ思想らしい。

そもそも、世界にはあちこちに神がいるのだが、大きくいって二種類になる。一つは絶対神型。たとえば、キリスト教のゴッド。神は一つだ。イエス・キリストは宗派によって異なるが、「神の子」とか「神の使い」とか「予言者の中の一人」といった役回りだ。また、イスラム教のアラー。こちらも神は一つだ。ムハンマドは最終かつ最高の予言者で布教活動を担当したことになる。

一方、ギリシア神話の神々や日本の神々の場合。こちらが初詣に関係する。これらの神々は、分業制で大人数がいて、よく人間界に出没する。ただし、自然をねじ曲げる力を持っているわけだ。

たとえば、よく交通安全を祈願して車のお祓いを受ける場合がある。交通安全の神様に対してだ。ギリシアには海の神ポセイドンというのがいて、海上交通の安全や危険をコントロールしていた。ポセイドンは神様だから人間から賄賂とか賽銭をもらうわけではなく、海(地中海)が平和な海であることを祈っていて、その秩序を乱す悪者が船に乗って暴れると、目に余った場合、大嵐を起こして海の中に船ごと引きずり込んでしまう。ポセイドンが要求するのは、人間が安全な航海をした報告と、今後とも安全航海を続けるという人間と神との間の契約(約束)なのである。

だから、むやみに神社に行って根拠もなく、今年も交通違反が見つからないようにというようなことを祈ってはいけないわけだ。正しくは「昨年は、スピード違反2回、駐車違反3回の上、100対0の追突事故まで起こしてしまいました。深く反省の上、今年はスピードメーターの60キロのところに赤いテープで目印をつけ、ウインカーはどんな曲がり角ででも表示し、一時停止線では必ず止まります。違反した場合には、神様との契約は失効します。というようなことを祈念しなければならないはずだ。(本当は、大きな声を出して読み上げた方がいいだろう。神様の数に対し、祈願者が多過ぎる国だから)