現住建造物等放火

2008-10-01 22:00:07 | 市民A
国内法で、死刑が適用になる罪は18種。

うち、刑法によるものが12種。

必ず、死刑になるのが刑法81条「外患誘致」。外国と通じ、日本国を武力攻撃させる罪。いわば、スパイだ。

現住建造物等放火は、殺人罪と同じだ。

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小倉、手向山公園

2008-10-01 00:00:18 | 歴史
小倉の朝は暑い。8時にはもう街が動き始めている。大急ぎで最初のポイントへ向うことにする。「手向山公園」。小倉と門司の間の手向山にある公園だが、どうも同じ字でも、山は「たむけやま」と読み、公園は「てむけやま」と読むらしい。小倉と書いても「おぐら」ではなく「こくら」と読むようなものだろうか。

しかし、この公園のことは、どのガイドブックにも書かれていない。まあ、ガイドブックに書かれていないところが好きなわけじゃないが、少なくても派手な場所じゃない。ということで、どうやっていくのか、よくわからないのだが、どうも小倉駅前から門司方面へのバスに乗るべきらしい。旅先でバスに乗るというのもなかなかリスクがあるのだが、少なくても日本国内だから、誘拐されたりすることはない(と思う)。小倉駅のバスターミナルで門司方面行きの西鉄バス停を探すが、いくら探しても見つからない。そのうち、貴重な時間がどんどん少なくなるので、しかたなくバス案内所に行くと、「またか!」という顔の女性係員が、用意の地図をカウンターに置いて、説明を始める。

要するに、小倉駅前というバス停は、小倉駅の前にあるのではなく、小倉駅から5分歩いたところにある国道沿いにあるバス停のこと。関東なら「小倉駅入口」と名前が着くだろう。やっと、バス停にたどり着くが、バス停についたとたんに門司方面のバスが、続いて2台走り去ってしまう。そうなると次がこない、というのは、関東でも九州でも同じだった。徐々に通勤客も増え、道路は混み、近かったはずの手向山はホテルを出てから40分もかかってしまった。国道にあるバス停から、山(といっても丘)を登らなければならない。

で、ここに何があるか。

28db40b9.jpgここの最大の見どころは、「関門海峡」の眺望なのである。そして、「決闘、巌流島」が見える。「宮本武蔵の碑と佐々木小次郎の碑」がある。世の常として勝者の武蔵の碑は立派であり、敗者の小次郎の碑は、後年のファン(というか作家)が寄贈したものだ。さらに、武蔵の養子の宮本伊織が、ここを「宮本家の墓所」と決定したため、代々の宮本さんたちが眠っている。

では、私が宮本武蔵とか佐々木小次郎のファンかといわれれば、まあ、どちらにも肩入れしていない。総選挙みたいだ。両者とも似顔絵ではかなり凶暴顔だ。だいたい、1612年という微妙な時代に、何のため決闘したのかもよくわかっていない。小次郎は小倉で道場を開いていたといわれ、武蔵は巌流島のあと、しばらく、このあたりで潜んでいて、3年後に小倉に道場を出したらしい。まさか道場の経営権をめぐって争ったのではないだろうかとも思うが、それでは、現代のヤ○ザと同じだ。

実は、巌流島に興味があったのは、まったく変化球的な要素なのである。小説等によれば、武蔵は決闘の時間に遅れるというゲリラ戦法に出る。さらに下関の船宿である伊勢屋から、船の櫂(かい)、一本を調達し、巌流島(舟島といったらしい)に向う途中に、短刀で加工をほどこす。長い木刀を作ったわけだ。

この船宿である伊勢屋が最初のキーである。

ここで時代を300年ほど後にずらすと、次の話題が登場する。大女優、田中絹代。彼女は下関の出身である。下関では、あまり話題になっていないようで、むしろ詩人・童話作家、金子みすゞの方が旬である。実は、田中絹代の母の姓は小林。これが二つ目のキー。

28db40b9.jpgしかし、wikipediaで田中絹代のことを見ても、この小林家は下関丸山町の大地主であったが、没落した、というようなことが書かれている。かたや船宿、かたや大地主。関係ないようでもある。

ところが、以前、HOUSE OF SHISEIDO で銀座を舞台にした映画女優の特集があったときに、田中絹代のことが詳細に書かれていて、そこには母方の実家(小林)は船問屋であったと書かれていたのだ。しかも、番頭が持ち逃げしたのが没落の原因と書かれていた。通常、地主には番頭はいない。さらに、江戸末期から明治初期の地主(庄屋)というのは元々土地を大量に持っていたのではなく、商業資本が山林や沼地などの開拓に入ってきて、発展していったものが多い。船問屋というのが、どういう職業かはっきりわからないが、船舶の所有者と積荷の所有者の間に立つ海運会社のようなものだったのではないだろうか。そして下関と言えば、日本有数の海の要所である。船問屋であり、かつ地主だったのではないだろうか。

そして、この二つの伊勢屋と小林家の関係については東京方面ではまったく、糸口すら調査不能なので、できれば下関で、と思っていたのだが、時間と体力の都合で、今回は、上から下関を見るだけ、ということになったわけだ。

この手向山公園は、まさに関門海峡を一望することができるが、明治時代は、外国からの不審船がないか、ここに望遠鏡を設置して一隻ずつ監視していたそうだ。左を見れば海峡を抜けた船が、日本海を北上するか、南に中国方面に向うか、右をみれば下関の町と一部山かげに隠れるものの巌流島が見下ろせる。巌流島は、その後、埋め立て造成され拡張したものの、決闘の場所は私有地となっていて、立ち入れないそうだ。

例えば、日露戦争だって、日清戦争だって、こういう地政学的重要ポイントの争奪戦という考え方もあり、現に英国は幕末に下関攻撃を仕掛けている。小倉が軍都だったのにも理由があるということだろうか。


しかし、早朝の手向山の頂上は、人気も少なく、私の他には散歩にきているおじいさま1名と家出風のジャージを着た女子中学生1名だけ。二人をおいて山を下る途中に、あのおじいさまは、ずいぶんよろよろ歩いていて、倒れたら誰かが気がつくのだろうか、とか、あの女子中学生は、まさか関門海峡に飛び込もうと思っているのではないか、とか色々気になり始めたのではあるのだが、実は、山を降りて国道までたどり着く前に、おじいさまにも、女子中学生にも、後ろから追い抜かれてしまうというだらしのなさである。葉一郎、敗れたりだ。