白船来航

2008-10-26 00:00:14 | 歴史
日米関係史の中で、横浜が舞台になる大きな出来事が三つある。

一つ目は、幕末のペリー来航と日米和親通商条約の締結。三つ目は、マッカーサーの進駐である。そして二つ目は。



白船来航。10月26日まで、横浜開港資料館で「白船来航」にかかわる展示が行なわれている。(開港記念会館ではなく、開港資料館の方)

1908年、スペリー提督率いる米国大西洋艦隊の来航である。(スペリーという綴りは、ペリーにSを付けただけ)

なぜ、横浜に大西洋艦隊が16隻の軍艦で来航したか。

とかく、近代史にはタブーが多く、教科書に書かれないことが多い。その多くは、日本の他国占領に関係するものが多いのだが、日米関係に係わることも、それほどきちんと知られていないようだ。この白船についても、まさに今日まで続く日米間の、意識のねじれを象徴するようなできごとである。

まず、19世紀末から20世紀の冒頭にかけて、日米関係はどうなっていたか、というと貧しい日本から、どんどん西海岸に人口が流出していた。そのため、特に米国西海岸では日本人排斥運動が燃え上がっていた。弊ブログの古くからの読者の方にはお馴染みだろうが、その当時、混血のイサム・ノグチ少年が日米間を追われるように往復していたこと、童謡「赤い靴はいてた女の子」のモデルとなった岩崎きみちゃんの薄幸、そして、年齢をいつわって渡米した岡山出身の画家国吉康雄などの例がある。

さらに日本は、軍事国家の道を歩み始め、日清戦争につぎ、日露戦争を戦い、バルチック海戦に勝利するなど、特に中国権益を狙っていた米国にとって、大きな脅威になっていた。そういうかなり緊迫した関係の時期だった。

この時の米国大統領はセオドア・ルーズベルト。とある世界戦略を考えたわけだ。


威嚇外交。



どうも、日米ともに今のキタチョーみたいなことをしている。

16隻の白船艦隊は13,000人の兵員を乗せ、大西洋を南下、マゼラン海峡から北上し、サンフランシスコからハワイ、ニュージーランド、オーストラリアを回り、マニラから一路横浜に向かう。

実は、このルーズベルトの威嚇外交だが、アジア各国に、「いかに米軍は強いか、見せ付ける」ための軍艦行列だったわけだ。だから、日本は、なかなか招致しないだろうという読みがあったらしい。そして嫌がる日本の沖合いでデモンストレーションをしよう、ということだった。つまり黒船のまね。

しかし、米国のおもわくは、まったく空振りに終わることになる。他国に先立ち、まっさきに「Welcome JAPAN」を表明する。そして、さっそくの打ち合わせは、ホテルの食事とかおみやげとか、出迎えのセレモニーとか。

何か、ガールフレンドの家庭を訪問しようとしたら、彼女の両親に豪華パーティで出迎えられ、さっそく結婚式の日取りの話になり、「きょうは泊まっていきなされ」ということになって、寝室のベッドに枕が並んでいるようなもの。

実際は、日本の思惑は、「今は米国を味方につけておく時」という判断があったようだ。私の個人的見解だが、日本側は中国権益は米国と共有してもいい、と思っていたのではないだろうか。

そして、歓迎されたのに船体が黒というわけにいかず、今回は白の塗装をかける。遠路の果て、米国側の虎の子の大西洋艦隊のほぼすべての艦隊が日本に近づくとき、スペリー提督、またセオドア・ルーズベルトの胸中はどうだったのだろう。さぞ、不安だったと考えられる。



なにしろ、日本海軍は、数年前に、ロシアバルチック艦隊を全滅させたばかり。さらに向かう場所横浜は東京湾の奥の方だ。いかに米軍が強いと言っても、援軍もないし、袋のネズミになる。16隻の米軍に出迎えの日本側の同クラスの軍艦16隻が近づいた瞬間、おそらく米国側のすべての銃砲には実弾が詰められていたに違いないと睨んでいるのである。

そして、米軍一同は上陸したあと、臨時に乗り放題無料になっていた横浜‐東京間の汽車で、東京での連日の歓迎式典に出席し、1週間遊びまわった末、ほうほうの体で、アモイ、シンガポール、インド、そしてスエズ運河から地中海へと大名行列は進んでいったのである。


結局、両国海軍が実戦で大衝突するのは三十数年後、1942年5月の珊瑚海海戦になる。数度の、大海戦の死闘の末、1944年10月、レイテ沖海戦で、日本海軍は、ほぼ戦力が壊滅する。

付け加えると、その後、国家同士が巨大海戦を行なったことはない(フォークランド紛争は大海戦ではないだろう)。世界を見渡しても、海洋国家は、米国、日本、英国くらい。太平洋の日米軍事同盟は、他国にとっては、かなり強力なものに感じているのだろう(それもおそれずに、竹島に何人かの警察官を配置している無謀な国もある)。


ところで、こういう近代の歴史についての博物館というのが、東京にはない。白船だって上陸したのは横浜だが、目的地は東京である。本来、東京で資料展を開くべきだろうが、ふさわしい場所が見当たらない。なぜ、首都に近代・現代史専門の展示会場がないかと考えれば、やはり、様々な団体が、ああだこうだと抗議活動をするので収拾つかないからだろう。

古代をみれば、日本書紀と古事記が並存するように、歴史資料館も「政府に都合のいい正史館」と「差別と貧困と謀略にあけくれた裏面史館」と二つ作ればいいのではないだろうか。