小倉城最大の謎は、現在の天守閣

2008-10-02 00:00:30 | The 城
01f1f04c.jpg小倉シリーズ第3回は「小倉城」。全国各地に各種天守閣があるが、この小倉城は昭和34年に再建されたもの。どうもあまり好きじゃないのは、再建にあたって、以前の天守閣とかなり異なるものを作ったことによる。

別に復古主義じゃないが、焼失した自宅を火災保険で再建するのとはわけが違って、観光地にしようというのだからあまり過去を無視してはいけないのではないだろうか。なにか実用的な建物ならば話は別だが。それに、この城が焼失したのは幕末の騒乱の時。細川忠興が1602年に建てた時の姿はシンプルな重層型だった。それを再建するにあたって、ずいぶんごちゃごちゃとデザインに飾りをつけてしまった。大阪城のように、場所も違えば姿も違うというデタラメさほどではないが、各種の市内絵図に描かれる天守閣でおよその姿はわかったはずである。

01f1f04c.jpg場内に一箇所だけ、江戸時代の天守閣のCG画像があったので、それを合法的に撮影してきた。なかなかシンプルであり、他に同様の天守は見ないのでそれの方が個性的だろう。個人的には、改造をお勧め。シンプルの方向に改造するなら、あまり費用はかからないだろう。


小倉の城郭の特徴は、惣構え。町全体を城郭の中に入れる。欧州の都市のようだ。日本でも、秀吉の大坂、北条の小田原などがその例である。天守へのエントランスには、有名な大石が配置されている。小倉城の石垣は、野面積みといって、小さな石を適当に積んでいくとされるが、岡山城のような野趣は感じない。というか歴史的には野面積みの最後の方なのだろうか。

01f1f04c.jpgそのため、大石が切り出されて石垣に使われている。この大石を運ぶ途中で、なかなか人足が仕事をしなかったそうである。そのため、細川忠興は癇癪を起こし、人足頭をバサッと斬ったそうである。細川家はその後、熊本に配置換えになり、後任は小笠原家。その時の当主は、細川忠興の癇癪について、「大石が運べないなら、二つに割ればいいじゃないか」と言ったそうである。

忠興の妻は賢妻で知られるガラシア夫人。前の中山国土交通大臣みたいな話だ。


そして、幕末に焼失した理由だが、地理的に長州藩と薩摩藩と佐賀藩という維新の主役たちに囲まれた立地上、小笠原家が勝てるわけもない。最初は、長州と一戦したものの、大負けを食らい、藩の首脳陣は京都に逃走し天皇派にゴマすり。残されて哀れを極めるのが藩士たちで、とりあえず城を焼いてからゲリラ戦を展開。といっても、そのうち日本中の大勢が決し、互いに戦う意味もなくなり和睦する。結局、最大の犠牲は天守閣焼失であった。多くの藩士の身代わりになったと考えればいいのだろう。

01f1f04c.jpgさて、場内には小倉に縁の深い、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島決闘の武器が展示されていた。武蔵が使った舟の櫂をけずった木刀。物干しと言われる小次郎の長尺。そして普通の武士の刀である。

自分で持ってみて感じたのだが、バットみたいな話だ。金属バットと木製バットの差。ただし、刀の話になると材質とは逆になり、「ものほし竿」は鉄製ながら重心が刀の中心よりかなり前にある木製バット型。一方、木刀の重心は真ん中である。こちらは金属バット的。あきらかに操作性は木刀がまさるのである。決闘にあたっての事前取り決めで。「木刀使用禁止」を定めてなかったのが小次郎一生の不覚ということだろう。