ひとかげ(よしもとばなな著)

2008-10-12 00:00:29 | 書評
40年後のノーベル文学賞候補のよしもとばなな氏の『ひとかげ』。実は『とかげ』という自身の短編小説のリメイクである。『とかげ』を書いたのは、「吉本ばなな」で、『ひとかげ』を書いたのは「よしもとばなな」だそうだ。



話はいきなりそれるが、「ばなな」の話。某テレビ局が「朝バナナダイエット」を紹介したことで、バナナが異常に売れているそうである。売り切れ続出という噂があるが、横浜ではどこのスーパーでもなにげに売られている。ハマっ子はあきやすい性格と言われるように、既にブームは去っている。ルーズソックスの時は、横浜で消滅した1年後でも日本海のロシア入口の都市では女子高生のユニフォームだった。バナナにも様々な種類があるが、個人的には、青っぽく、硬く酸っぱいバナナが好きだが、バナナでダイエットできるとは、とうてい思えない。どう考えても逆だ。

一時、外国系投資銀行の日本支社に勤めて、○○債というような怪しい仕組債を売っていた人たちは「バナナ」と呼ばれていた。みかけは黄色人種だが、頭の中身は白人ということ。ただし、東京土産で有名な「東京ばなな」は中身まで黄色だ。

そして、作家のばななだが、変な名前であるが、ある有名韻文作家を意識したものだろう。

「松尾芭蕉」。

自宅の一角に芭蕉の木(正確には草)を植えたところ、台風の時に巨大な葉と葉が擦れ合う音が風流だ、として自分の名前をその芭蕉にしてしまった。日本の芭蕉は実をつけないが、バショウ科のばななは食用の果実を実らせる。地球温暖化のおかげで、日本でもばななの木を植えやすいコンディションになったが、和風庭園、洋風庭園のどちらにも似合わない。南洋庭園なる意趣があるのか不明だが、バナナにアボガドにコーヒーの木、ヤシの木とかでデザインするのだろう。

書評を書く前に、毎日の規定量の1600字に達してしまうので、「ばなな」の話は終了。

『ひとかげ』のまえがきで、著者は、以前書いた『とかげ』が映画化され、それを観ていると、原作を自分で書いた記憶がないということで、新たに書き直した、というようなことが書かれている。実は、小説の大部分のプロットは同じだが、後で書いた『ひとかげ』の方が小説としては手厚い書き方である。『とかげ』の方は、小説のエッセンスみたいなプロットに、肉を付けずにそのまま骨を組み立てた、壊れそうな短編小説である。登場人物の二人のカップルは、それぞれの都合でこちらも壊れそうである。

10年以上たってから書かれた『ひとかげ』は原作の『とかげ』より、かなり小説に肉がついている。主人公が「とかげ」のタトゥーに気付くところの妖しさなんか、一品だ。しかし、悪く言えば、生活の疲れを書き加えたようなリアリティが追加されている。主役たち以外の登場人物たちも、より普通の人間っぽく書かれている。

作者も40歳の声を聞くと、さすがにコッテリ書く気になったのだろうか。しかし、社会描写をあまりたくさん使うと、欧州での人気が下がり、また彼女の小説が欧州的から米国的に変質する可能性がある(つまり、通俗に落ちる危険)。

もっと書くつもりだったが、この「書き直したら肉がついた」という表現がほとんどを語るように思えるので、無駄なコトバを書き続けるのはやめる。

ただ、あと数十年したら、「とかげ」から「ひとかげ」に進化したのと、同じように、「愛と影」とか「老いと影」のような次の小説に変わっていくのではないだろうかと、ありふれた想像をしている。


ところで、「吉本ばなな」から「よしもとばなな」に変ったといっても、英語にすれば同じである。Ms.Banana Yoshimoto。ペンネームの連続性を保つというのは、やはりノーベル賞を狙っているということなのだろうか。今年のル・クレジオ氏。サルトル、カミュの後継者と思っていたが、忘却のかなたから現れた。何冊か読んだ記憶があるが、既に本も手元にないし、何も覚えていない。

いつも、ノーベル賞と言えば、フィリップ・ロスとか村上春樹とか言われるが、もう一代、二代前の世界から候補者を探しているのではないだろうか。長生きが第一だ。

米国ならピンチョンとかアップダイク。日本人では多くは冥界入りしている。すでに「箱男」になっている安倍公房、「沈黙」を続ける遠藤周作、「暗室」で眠っている吉行淳之介、「輝ける闇」の世界にいる開高健。

やはり「失楽園男」?