徳川四百年の内緒話(川宗英著)

2008-10-20 00:00:27 | 歴史
家康以後の徳川家の秘密について、徳川御三卿の一つ、田安家の総領である宗英氏の著書。ちょっとした暴露本である。江戸時代は大名の家系について、著書に書くのは禁止されていたし、まして、徳川家の内幕について当事者が筆をすべらせば、徳川家の一員とて「お腹をお召され下され」ということになっただろう。



まあ、日頃感じている徳川家に関する素朴な疑問についての解答がずいぶん書かれている。事実を書き、論評するという構造だが、論評の方は、どうしても身内びいきになるものだから、事実だけを楽しめばいいだろう。

まず、『徳川』でなく『川』だそうだ。心の上に一本横棒があるそうだが、実際、そんなこと誰も知らないそうだ。高校の入試で、「江戸幕府を開所した、狸爺は誰だ。漢字で書け。」という問題を出題したら、全滅するはずだ。いや、それでもできる奴っているんだろう。

さらに、読み方が難しい人が多い。この宗英さんだって、「むねふさ」と読むそうだ。「いえなり」とか「いえさと」「いえよし」「よしのぶ」当て字ばかりだ。

そして、この田安家を含む御三卿は吉宗の時に、家康の御三家(紀伊、尾張、水戸)にならって、子供たちを(田安、清水、一橋)の三本柱にしたのだが、こちらはごく控えめに幕府のあてがいぶちみたいな感じで、屋敷は江戸で領地は全国各地に少しずつ散らばっていたそうだ。

そして、御三家だけではなく、この御三卿も将軍を出すにふさわしい資格があったそうだ。現に田安家から徳川宗家第16代、「家達」が出ている。残念ながら、すでに幕府はなくなっていた。その時、まだ8歳。その後、家達は明治政府の要人として活躍することとなり、貴族院議長も勤めている。さらに、この書によれば、大正3年、シーメンス事件で山本内閣が総辞職した際、内閣総理大臣の声がかかっていたということである。その時は、徳川家一同が集まり、「受けるか、断るか」大会議が行なわれ、結局、大隈内閣の再登板になった。

あと、将軍達の変人ぶりは歴史でもよく習うが、初耳も結構あった。まず、料理好きの将軍がいた。13代将軍家定。黒船対策が必要な時期だというのに執務を井伊直弼にまかせて、芋の煮込みとかカステラとか各種手料理・洋風菓子が趣味だった。その代わり、子作りの方にはまったく興味がなく、後継者選びで周囲が困り果てる。

また将棋で有名な家治公だが、実はその親である家重も将棋が得意だったそうだ。家重といえば、言語不明瞭で彼の言葉を解するのは大岡忠光だけ、というのが通説だが、将棋が指せるなら、少し事情が違うのだろうか。それとも将棋も大岡が勝手に考えていたのだろうか。どうせ、将軍と指して勝つ馬鹿はいなかったはずだからどうでもよかったのだろう。

また、15代将軍慶喜は、一度も大奥エリアに入らなかったそうだ。それでも、テレビでおなじみの篤姫と和宮という二人の才女の懸命な助命工作のおかげで、その後の趣味三昧の生活を楽しむことができた。そして姑と嫁の関係になる篤姫と和宮は大層仲が悪く、和宮は板の間に座布団なしで座らされていたそうである。NHK大河で、宮崎あおいさんが好演すればするほど史実から離れてしまう。

そして、歴代15代の将軍のうち4人について、謀殺説があるらしい。確かに、一般に健康とは言えない家系なのである。270年に15代は他家に比べて多すぎる。

徳川を名乗ったのは家康からで、宗英公によれば、だから、たいした家系ではないので、「徳川夢声」氏のようなニセモノがいても、あまり気にしないということなのだそうだ。だからといって、ミスター徳川と名乗る人物が投資話を持ってきても、騙されないように。たぶん、投資なんかしなくても、どこかに大金を隠しているはずだからだ。(本書の中では、「埋蔵金などない」と書かれているが、だからこそ怪しい。)