乃木邸にて

2007-04-27 00:00:35 | 美術館・博物館・工芸品
東京ミッドタウンへは、六本木の駅から行けばいいのだが、天気の良い日は乃木坂駅から歩いてもいい。元々、六本木は日比谷線と大江戸線だが、”千代田線でもいい”ということになると、より便利なのだが、あまり、そういう話は流れていない。特に、サントリー美術館だけに行こうとする人には乃木坂駅の方が便利だ。しかし、乃木坂駅からの出口を間違えると国立新美術館へ迷い込んでしまい、サントリー美術館でも「モネ展」をやっているのか、と同じ展覧会を二度みることになるので注意が必要。

乃木坂駅では乃木神社の方の出口へ向うのが正解だが、そこには乃木神社がある。この神社は屋外結婚式が有名で、小雪の舞う冬の神殿での挙式などドラマティックであるが、だからなんだと言えばそれまでだ。

ff7bc4d1.jpgで、この神社の隣にあるのが旧乃木邸である。乃木希典陸軍大将の居宅である。軍神と言われた乃木大将の名声の一は、日露戦争での旅順攻防戦を制したこと。さらに名声の一は、明治天皇の大葬の後、妻とともに殉死したこと、であろう。

実際には、その軍事的才能と殉死という行為については、その後の歴史上の評価は多く分かれているし、それを判定するほどの知識もないので、ここには触れない。

実感としては、要人なのに、かなり都心から離れた場所に住んでいたということの意味を考えれば、長州藩の生まれということで、自らの生まれた旧長州藩邸(現六本木ヒルズ)に近いことに関係があったのだろうか、と思ったりする(幼児のころの遊び場だったとか・・)が、なんら確証はない。

現在、残っている木造の建物は、実際に、乃木夫妻が居住していた当時のそのままであり、桜の木が枝を伸ばす建物の北側には、夫妻自決の部屋がある。

一方、敷地の南側には厩舎があるのだが、そこでは日露戦争の敵側の将であるステッセル将軍から送られたアラブ牡(オス)馬「壽号」の厩舎になっていた。

この壽号だが、明治38年に贈られたのだが、やはり都内で馬を飼うのは難しかったのか、翌39年末には種馬として鳥取県赤崎町に送られる。さらに大正4年には、隠岐島に渡り、大正8年に馬齢23歳で亡くなる。その子馬は20余頭を数えるとのことである。

ということで、次にこのアラブ馬を贈るということについての話になる。

ff7bc4d1.jpg現代では、馬と言えばサラブレッドみたいなところもあるが、このサラブレッドというのはアラブ馬からの改良品種である。もう少し詳しく言えば、3頭のアラブ馬、1680年トルコ産バイアリー・ターク、1700年シリア産ダーレイ・アラビアン、1724年エジプト産ゴドルフィン・アラビアンと英国固有の数頭により現在の血統に続いている。

このアラブ種というのは、馬の改良史上のスーパーエースのようなところがある。壽号はオス馬であり、欧州的に言えば、「この馬で、貴国の馬の品種改良にお役に立てば」という意味と解釈できるわけだ。そして、乃木将軍は、その主旨を解し、自分で乗って遊んだりしないで、種牡馬として活躍させたわけだ。

ところが、日本では、それまでも何回か、そういう形で海外からアラブをもらっているのだ。まず、豊臣秀吉。ポルトガル領ゴアの総統より2頭。まったく意味を解さず。そして幕末の徳川幕府にフランスから26頭が贈られる。が、またしても乗り回して終わり。もし、秀吉なり幕末の幕臣に、品種改良の意識があれば、在来種と掛け合わせて、サラブレッドを超えた世界最速馬が生まれたのかもしれない。山内一豊の妻、千代も、隠し持っていた実家からの持参金を、秀吉からアラブ馬を買い取る資金にした方がよかったかもしれないわけだ。


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