異邦人たちのパリ(国立新美術館)

2007-04-15 00:00:05 | 美術館・博物館・工芸品
a77348b5.jpgまず、新美術館である。しかも、国立。つまり national museum。しかし、もっか所蔵品ゼロ。現在の国債発行残高から考えれば、巨額な美術館を造っただけじゃなく、さらに美術品を集めるなんか・・ということかもしれない。もしも、美術品が大金を生み出すというなら、美術品REITとかできるかもしれないが、そんな危ない商品は成立しないのだろう。

しかし、常設展示品がないとなると、外国人向けの東京ガイドブックにも記載されないだろうし、東京には国立美術館がないのではないか、と思われるかもしれない。(もちろん西洋美術館とか近代美術館。それに博物館もあるし、科学系だってたくさんあるが、話は別だ)

一説では、大阪市は美術館建設を前提として美術品を買い集めたのにかかわらず、美術館計画が頓挫しているという話もある。倉庫に入れていてもしょうがないのだから、レンタルすればいいのにと思うのだが、案外、既に1枚ずつ処分を重ねているのかもしれない(あまり詳しくない)。

a77348b5.jpg建物の外壁には、アクリル(ガラス?)の板が横向きに張られていて、掃除が大変そうな感じだ。色々な人がこの建物を撮影しているのだが、なかなか現代的な画像を作るのは難しい。

そして、最大の謎はチケット売り場。なんと建物の中ではなく外の吹きさらしである。雨が降ったら悲惨だ。そして日本はしょっちゅう雨が降る。屋根がない。チケットは対面販売で4ブースしかない。現在は、「異邦人」と「モネ」とダブルで開催しているのだが、両方とも人気展だからいいが、人気と不人気と並列開催の場合、不人気の方に行きたい方は意味のない長蛇の列に並ばなければならない。

さらに、傘立てが別棟になっているが、そこで収容できる本数は、あきらかに少なすぎる。雨の日は厳しい試練に耐えねばならない。無論、雪の日も大風の日もだ。コインロッカーもあり、「とりあえず100円」で後で返金される仕組みだが、すべてのロッカーには100円と書かれているが、「後で返金」になることは、ところどころのロッカーに書かれているだけ。多くの人が、「100円かかるんだあ」と言って素通りしていた。私も、念のため、「返金が明示されているロッカー」を利用した。

当日は、この「異邦人」と「モネ」の他、いくつかの展覧会が開かれていたが、奇妙なことにそれらは、展示室の前で入場料数百円を徴収するシステムになっていた。おそらく、「異邦人」「モネ」は美術館独自の企画であり、その他の展覧会には単に「一日なんぼ」でスペース貸ししているのだろうと推定する。要するに巨大な倉庫という見方もできる。倉庫街が美術館になるのは流行りだが、美術館が倉庫になってもいいじゃないか、ということか。

a77348b5.jpgさて、「異邦人たちのパリ」だが、ポンピドーセンター所蔵品の友情出演である。フランスは日本と異なり、美術品の山を溜め込んでいる。それを時代別にルーブル・オルセー・ポンピドーと主に三分割している。もちろん、完全に時代別にすると、パリに二日しかいられない旅行者が困るので、多少まばらに時代の異なるものも配分している。何しろ、大量にお宝はある。オルセーには日本人の大好きな印象派がたくさんある。そして、ポンピドーは20世紀以降のパリに集まった芸術家の仕事が詰まっている。今回、日本に来たのはその一部である。「モンマルトルからモンパルナスへ」そんな時代だ。

今回は、どの作品が中心とかいうのではなく、この1910年から1930年頃の作品が大量に来ている。マンレーの写真は20世紀初頭の欧州の中心都市パリの姿を昼、夜ともにすべてとらえている。またシャガールは、初期の作品とほぼ画風が確立した中期の作品が来ている。若くして亡くなったモディリアーニ。そして、フジタ。第一次大戦と第二次大戦の間にパリ、モンパルナスに集まった外国人画家のことを「エコール・ド・パリ」と名付けたのはアンドレ・ワルノーで1925年頃。この時代には、美術、音楽、映画、そして民主主義と共産主義という様々な「20世紀の実験」が行われた。大部分の実験は成功し、一部は失敗した。


そして第二次大戦初期の1940年にパリがドイツ軍に占領されると、それらの画家たちは、止むをえずパリを離れて近隣諸国に逃れていくわけだ。(その中でフジタは日本に戻り、戦争協力画家として、戦場の絵なども描いている。戦後、フジタがスイスに住んだのはそういったトラウマがあったからかもしれない。)


a77348b5.jpgさらに、個人的に今回のハイライトとしたいのは、コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)の<眠れるミューズ>。実は、ルーマニア出身のブランクーシは数々の彫刻やブロンズ像を作ったのだが、この<眠れるミューズ>を完成させた1910年頃は、アフリカ文明を作品に取り入れることに没頭していた。ミューズの顔もどこかアフリカ現住民族を思い出させるところがある。そして、実はポンピドー・センターにはブランクーシの作品は2248点もあるのだ。ブランクーシは遺言として、自らの仕事場を作品ごとパリに寄付したのだが、ポンピドー・センターには、そのアトリエが併設されているからだ。

つまり、ブランクーシの作品は展示できないほどパリにあるのに、日本に来たのは、このミューズの顔だけなのである。そして、ポンピドーセンターの収蔵品リストを丹念に調べていると、ブランクーシはこの頃、何種類もミューズを作っていて、日本にきたのは、その中の一つということだ(ケチな話だ)。



a77348b5.jpgブランクーシはその後、石を彫り始めるのだが、ちょうどその時、彼の弟子になりたいという青年がアメリカからやってくる。「イサム・ノグチ」である。伝記などを辿る限り、ノグチはこの頃、ブランクーシと同じような彫像を作ったりしている。ミューザの表情を見るだけで、元が取れたような気持ちになるのである。

そして、現代。100年前のパリに世界の画家が集まったように、現在、アフリカ系のアーティストが活躍しているようである。政治や経済がグローバリゼーションの様相を深めている時代に、なぜか、芸術の世界ではリージョナリズムが台頭しているように思えるのだが、あまり言われていないようだ。


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