ある外交官一家ご愛用の・・

2007-04-04 00:00:56 | あじ
7966f481.jpg田町にある「寿司割烹むらい」という老舗に行った。創業後、約50年の歴史のある有名店である。お得意さま方とである。

話は、さっそく横にそれるが、老舗というのは何年以上を指すのか、というのは悩ましい問題である。例えば江戸時代からの店なら問題ないだろう。少なくても140年。では明治時代はどうだろう。大正、昭和、平成と年数を足すと100年近い。まあ、100年というのもキリのいい数字だが、それでは、老舗の数が少なすぎるのかもしれない。大正からなら、約80年。昭和10年頃から日本は国家のバランスが崩れていくので、その前の平和な時代からなら約70年。

一方、老舗というのは、代々引き継いでいくという性格もあるわけで、一代25年と考えれば、三代繋がって75年。もちろん人間の寿命はまちまちなので、この75年、または三代以上続いたら老舗、ということでいいのではないだろうか、とは私見である。

この「むらい」が創業50年というのは、ちょうど戦後の混乱が落ち着いてきた昭和30年頃からということで、現当主が何代目かは、まあ、よくわからない。準老舗ということかもしれない。次世代のことまでは未来は誰もわからない。そして、個人的には、あまり老舗かどうか、こだわりはない。不二家みたいなのも困りものだからだ。


そして、まず、この店の最大の特徴は、敷居が”狭い”こと。敷居が「高い」というのではない。店の入り口が小さい感じがあり、さらに暖簾が立派なので、ちょっと一見で入りにくいところがある。実際は、寿司を食べるだけなら、どうってこともなく、普通の寿司屋さんの1、2割増程度なので驚くことは何もない。逆に、狭いのれんをくぐれば、室内は明るい空間になっている。

当日は、座敷会食ということで、まずは、お通しとお造り盛り合わせ、そして、メニューの上から「ここから、ここまで」と指でつつっと線を引いてみる。例の海外ルイヴィトン店での買い方だ。ここからここまで100万円で・・というわけだ。

ほたての磯辺焼きに焼きたての卵焼きと焼き物2品。寿司屋のお通しは、寿司ネタの端っこの切り落としとかの再利用であることが多いだけに、たまたま、その日だけの二度と食べられない珍味のことがある。それも秘かな楽しみだ。こういう美味しい店に行っても食べ物の話が全然できない人がいて、イライラすることがあるのだが、そういう人間はこういうところに招待しないことだ。冷凍焼きオニギリで十分だ。

7966f481.jpgさらに勝手に指がメニューを追いかけ、1時間半後についに寿司を選ぶことになったのだが、カウンター席ではないので、とりあえず「にぎり、特」と注文してみたのだが、「上でもおいしいですよ」との謎のことばが返ってきた。よって素直に、プライスダウンすることに。どうも、極上ネタを先にカウンター席の客に蚕食されてしまったのかもしれない(あるいは、「あの座敷客は『上』だろう、と見込み生産されてしまっていたのか)。


ところで、ここからある外交官の話になる。外交官は国家官僚なのだから、普通、そんなに有名になることはない。外務省で有名になるのは、ほんの一部の人間で、その理由は様々なのは言うまでもないのだが、その有名になった外交官の一人が、当店の常連なのである。

元PERU大使であるAOKIさんである。外交官一家に生まれたAOKIさんは、1994年、55歳でPERU大使に赴任。そして2年後の1996年12月、PERUの国内武装組織による大使館占拠事件に巻き込まれる。127日間の人質生活。

この占拠事件はフジモリ大統領による地下トンネルからの奇襲作戦の結果、犯人側の全滅と人質犠牲者1名、突入部隊殉職者2名という結末をもって、終結する。しかし、後日、大使の行動の数々がバッシングされることになる。最大の失敗は、脱出の際、しんがりをつとめなかったことなのだが、もう一つの失敗は、解放後「寿司と鰻と蕎麦が食べたい」と言ったことなのだが、そのコトバの中の「寿司」というのは、この店の寿司のことを指すらしい、というのが定説になっている。


バッシングが落ち着いた頃、当店での慰労会には車椅子で来店されたそうである。そして、その後、その返礼の会費制ゴルフ大会もできるまで体力回復され、外交官最後の仕事は1998年から3年間のケニア大使だったそうだが、そこで米国大使館爆破事件に遭遇することになるのである。


さて、私たちは、財布の中からこの割烹のそばにある「慶応大学創設者の顔写真入りの数枚の紙切れ」と「数字の書かれた1枚の紙切れ」を交換してから店を出る。爆発音や銃声とはまったく無関係の田町界隈を1分歩けば、電機会社のシャトルビルがあり、そこが幕末の薩摩屋敷焼討ち事件の現場で約50名が犠牲になった場所であるとか、さらに2分歩いたところが、両者とも翌日江戸八百八町を焼き払おうと思っていた西郷=勝会談の行われた薩摩藩蔵屋敷の場所であるとか、さっと大江戸幕末テロル史ガイドをこなして、さて、夜はこれからなのである。