「中国人と名古屋人」その後

2007-03-13 00:00:10 | 書評
弊ブログ2007年3月2日号「中国人と名古屋人」で、同名の岩中祥史氏の著作について書いた。名古屋人の欠点について、「中国人と通ずるところがある」という主旨で、「中華思想」「カネにシビア」「コネ社会」「執念深い」「公徳心がない」といった点をあげている。その著書のマクラで、内村鑑三も名古屋人と中国人を引き合いにして同じ類としてこき下ろしている、と紹介されている。

そして、コメントやメール「例えば、otayoichiro@hotmail.com」で何人かのご意見をいただいている。現役のジャーナリストの方からの意見もあるのだが、多くは「その通り、名古屋人は重大な欠陥をもっている」といった内容が多い(個人的には、同情すべき点もある、とは思っているが)。

ところが、・・・

知人で、元ジャーナリストで、現在は、陽明学研究家であり、また陽明学者研究家でもあるA氏(そういう人物を『陽明学者』と一言で言っていいのかどうか、知見がないのでよくわからない)からのメールは、かなり角度の違う話で、緊張を要する点が含まれていた。他人のメールをそのまま記載するのはネチケット違反なので、要点をまとめると・・

はっきりとは覚えてないが、

1.この岩中氏の著書「中国人と名古屋人」について、評論家呉智英氏が「阿呆本」と書いている。

2.呉氏の意見では、岩中書の中で内村鑑三が中国人と名古屋人を比較したくだりは、CHINAの中国ではなく、広島と山口の人間を指しただけだ。

3.さらに呉氏は、「岩中氏は東大までいっても、バカだ」と書く。
との情報を提供していただいたわけだ。

要するに、呉氏は、岩中氏の論理の展開は、最初の内村鑑三の発言の誤解から出発している、と手厳しいことを書いているとのことだ。

実は、この問題、若干頭の片隅にあったのだが、なかなか時間がなかったことや、呉氏の意見を調べるのも大海の針のような話と思っていた。そして、この本は名古屋と中国を比較しているようにも思えるが、よく読めば、単に「名古屋のことを書いただけ」の書のように読めるわけだ。だから、別に内村鑑三の談がどうであれ、関係ないような気もしていた。

しかし、いつものように、トゲを抜きにかかったわけだ。あれこれやっていると、まず、内村鑑三の発言だが、1903年7月に信濃毎日新聞に書かれた「余の見たる信州人」という論評の中にある。内村鑑三信仰全集(教文館)第14巻に収蔵されている。また、同時期にかなりの中国批判も行っているようだ。一方、呉智英氏(名前は中華系風だが本名は日系日本人)の主張は、1998年の刊である「危険な思想家(メディアワークス)」の中に書かれているらしいことがわかってきた。そして、その二冊の引用箇所やその周辺の記述について、図書館で読んでみたのだが、・・

その、結果は、実はいろいろと複雑なのである。あっているようなずれているような・・

まず、内村鑑三の著作からだが、問題の箇所は、

中国人のごとき、名古屋人のごとき、ほとんどこの絶望に瀕する者なり。

と書かれているのだが、この少し前を読むと、長州人(山口)、芸州人(広島)と信州人(長野)を比較し、長野はすばらしい、と持ち上げている。そして、いつも正直者の長野人が商売上でしてやられる名古屋人を引き合いに出している。つまり文脈から言えば、内村がここで用いた「中国」は日本の中国地方のことを指す、という呉説の方が正しい。

ところが、この名古屋人と中国人をこきおろした直後に、再度、信州人を誉めるコトバとして、

信州人は日本における世界道徳の先覚者、シナ道徳の撲滅者、新日本源流の泉源たるべきなり。

とまとめている。つまり、やはりシナをこきおろしているわけだ。

そして、この著作集第14巻では、世界各国の国民を論した論説が並ぶが、米国、スペイン、デンマーク、ドイツ、オランダ、そしてシナと並べ、特にデンマークとオランダを絶賛。シナについては「シナ主義」として、酷評している(1900年6月東京独立雑誌)。「敗北主義」「滅亡主義」であり、文字にシナ文字を使うことと、シナ道徳(儒教?)を直ぐにやめるべき、と熱弁を振るっている。シナ文字というのは漢字のことだろうから、結構。とんでもない主張だ。

また、さらに、内村の「代表的日本人(原文英語の日本語訳)・岩波文庫」を読んだのだが、日本人を代表する人物として、西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮上人の5人を取り上げ、特に西郷については好意的だ。要は、内村は、この1900年頃はナショナリストだったということだ。その後、日露戦争の頃、彼は意見を変えたようだ。

つまり、呉氏の言うように、「内村が中国人と言ったのは、日本の中国地方の意味である」のではあるが、内村の論の最後には痛烈な中国批判が書かれているため、「部分的には間違っていても全体としては正しい」、といったところなのだろう。


次に、呉智明本にとりかかる。呉氏は、自ら「封建主義者」と自称している。世の中に本当は「封建主義もいいなあ」と思っている人は何パーセントかはいるだろうが、封建主義を口に出したり本に書いたりする人間は、極めてレアであるから、主義別の「読者/著者」比率が高く、本が良く売れる。どうも著書乱発型のようだ。「危険な思想家」は1998年刊で、第三章・眠れない世のために、の7.「読書目録1996年初夏」として紹介される6冊の書評の冒頭に毒舌を撒き散らしている。

1.「中国人と名古屋人」は怪書である。

2.中国人と支那人を間違えたまま論理を展開する滑稽本である。

3.本来、戦後、支那と言うコトバを抹殺したことがいけない。だから、岩中氏は勘違いしたのだ。

つまり、呉氏がいいたかったのは、この「支那」ということばをキチンと使え、ということなのだ。だから、これも自説のキャンペーンに使っているということなのだ(我田引水型論法)。

そして、この「支那」と言うコトバだが、内村全集の中では、結構、頻繁に使われるが、表記は「シナ」とカタカナになっている。内村自体が、一般的に外国名を記すように、カタカナにしたのか、あるいは出版社の教文館が昭和38年に全集を出版した時に漢字を全部カタカナに書き変えたのか、それはよくわからない。