石垣山を這い上がる

2007-03-15 00:00:27 | The 城
f384f921.jpg小田急線の旅。最終回(第四回)は石垣山城。正確には、小田急線の小田原からJRで1駅、東海道線早川駅が最寄である。一応SUICAも使える。

この城は、歴史上、「一夜城」として有名で、秀吉の小田原(北条氏)攻略の際、箱根湯本の早雲寺にあった本陣では生ぬるいと、小田原城を見下ろす笠懸山の頂上付近に本陣を移設。完成前夜に全面の木を切り倒し、さらに、白い布を巨大な石垣のように見せかけた効果で、竣工後、僅か10日あまりで北条側が降伏した、と言われる。建設費総額を城を使用した日数で割ると、途方もなく割高な構築物である。そして、新品の天主閣も、その後、使われることもなく、そのまま朽ち果てた。現在残るのは、石垣や井戸を含む遺構のみである。一応、公園化しているが、犬の散歩に行くような場所にはない。

早川の駅から、歩こうか、あるいはタクシーにしようかとあれこれ悩んでみたが、小田原から3分で駅に着いてしまう。結構、ローカル感があふれる。タクシーはいない。駅前はすぐに漁港である。したがって標高はほぼゼロメートルに近い。そこから山に登るのだが、数値的によくわからない。看板類には、駅から2.2キロと書いてある。しかし、表示によって、40分説と50分説がある。2.2キロなら平地なら30分というところだ。少しゆっくり歩けばいいのだろう、と甘く考える。道は舗装された農道で山の斜面をひたすら登る。

f384f921.jpgそして、視界が一気に晴れたところに看板があって、一応の到達感を持って熟読するとがっかりだ。まだ距離1割ということ。どうしよう。さらにとぼとぼと登っていると、妙な看板が現れる。

「ハンターの方へ。人間がいる場合もあるので、慎重に」って・・

思えば、けさは伊勢原の太田道灌最期の館から、「クマ注意!」だったし・・神奈川は広い。

そして、クルマが一台、横を通過しただけで、みかん畑の中の農道を歩き続ける。箱根駅伝で、故障するランナーのことが頭に浮かぶが、駅伝ランナーは途中で倒れても、タスキが途切れるだけで収容車が待っている。私の場合はここで倒れると、みかん畑の肥やしになる。見栄を張らずにペースを落とす(誰も見てないし)。

f384f921.jpgしかし、ペースを落とせば到着予定時間が遅れるだけである。徐々に夕暮れのことを計算しなければならない。さらに山を降りる体力も計算しなければならないが、計算式がよくわからない。どうも100メートルというような高さではないような感じだ。秀吉は、この城に千利休を呼んで茶会を開いたり、大坂城から愛妾茶々(淀君)を呼んで、本妻(ねね)のいないことをよしとして愛淫に耽る(後に朝鮮出兵基地の名護屋に淀君を同行した時に妊娠したのは秀頼である)。私は、後に初代将棋名人になった大橋宗桂も、石垣山に参上したのではないかと推論しているのだが、資料は見つけていない。いずれにしても、この山の上まで大勢が登ったことが信じられない。

そして、やっとの思いで、公園にたどり着くが、さらにそこから長く折れ曲がった石段を登ったり降りたり、また登ったりしてやっと広場に出る。標高251メートル。ほぼ海抜ゼロからのスタートなので40分で250メートル登ったことになる。東京タワーの3/4である。足全体がふらふらする。以前からお城の話を書くときに繰り返しているが、決して「年金生活になってから城廻り」など考えないこと。小田原城の城口でも、係員に、エレベーターがないことを確認して登城断念している熟年トラベラーがいた。本物の古城に上るときは、はしごのような階段で、命綱につかまることもある。

f384f921.jpgさて、滑りやすい山道には、石垣の一部が残存しているが、ここに秀吉はじめ大勢の人間がいたとはなかなか実感がわかない。小田原城が落ちるまでの短い期間に伊達政宗や徳川家康が、享楽に耽る秀吉を訪ねている。秀吉が家康と連れションをして、「おみゃ~に江戸をまかせるみゃ~」と言ったとされる場所を探してみると、小田原城を見下ろす場所よりも南向きの相模湾を望む地点の方がお似合いの感がある。そこには毛利、長曾我部の水軍の軍艦が浮かんでいたはずだ。

家康は簡単に秀吉の陣に来たようになっているが、実際は、家康の布陣は、小田原城をはさみ、正反対の酒匂川側だった。もちろんその背後から態度不明瞭な伊達政宗が攻めてくるかもしれないという、いたって危ない場所である。秀吉の陣に来るにも、一旦、海岸に下りて、毛利軍の舟を借り、沖合いを回って、再び早川港から上陸し、私と同じように250メートル登ったのだろう。そうなれば、陣中訪問した家康が帰るにあたり、途中まで秀吉が同行し、海の見える場所で「まかせるみゃ~」になったのではないだろうか。近世江戸のはじまりである。

f384f921.jpg実際には、城を作れば問題になるのが厠と井戸の問題。城内に厠はあっただろうから、秀吉とて、犬のように所構わず垂れ流すわけにはいかない。小田原城を見下ろす場所は絶壁断崖なので、ちょっと怖い。厠で連れションしている時に重要な話をしたとは思えないから、少し外を歩いて、海を見ながらだったのだろうか。まあ、家康と一献した酒の勢いで、江戸を渡してしまったのかもしれない。本来は伊達政宗も滅亡させ、仙台を家康に渡すつもりだったのではないだろうか。

この辺の事情や情報だが、城が僅かな期間で朽ち果てたことや、地元小田原では反豊臣ムードが一様に漂っていることなどで、小田原城でも何も得ることはできなかった。石垣山城跡にある各種記載事項もあまり正確ではなさそうだ。

そして、城内には巨大な井戸の遺跡があるが、その穴に下りていってさらに穴から登ってくるという末足はまだ使い切りたくないので、とぼとぼと夕陽と競争しながら山を下る。

f384f921.jpg登りとはまったく逆の負荷が脚の各所に加わり、どうみても野生動物の餌食になりそうな惨めさであるが、やっと駅にたどり着く。よく見るとタクシー乗り場には、タクシー会社の電話番号が記載されていて、電話をかければ5分でクルマが到着したことがわかった。結局、タクシー代をケチったかわりに、翌日にマッサージ代が必要になった。そして、思いもよらない部分だが、両足の指のすべての関節が、その後1週間、「痛い痛い」と泣いていたのである。上り坂で逆関節状態を続けていたためだ。

そして、「伊勢原・太田道灌の館」、「鶴巻温泉・陣屋事件の検証」、「小田原城」、「石垣山城」と4ヶ所めぐりの小田急線の旅はこれで終了(温泉を最後にすべきだったかも)。新幹線で帰るとせっかくの旅の余韻も消えてしまうと、小田急線でゆっくり東京方面に向うと、たちまち電車は満員状態となり、またも後悔するのである。