大坂夏の陣金屏風、右隻

2007-03-04 00:00:57 | 美術館・博物館・工芸品
233bb2ea.jpg先日、大阪城に行った際、見つけた「大坂夏の陣屏風図」について。重要文化財である。売店で、この屏風図のコピーを販売していたので、300億円で購入した。

この屏風は左右一式になっている。片側は高さ150センチ、横360センチ。六つ折りである。右半分は、合戦の模様が描かれ、左半分は、負けた豊臣側の残党の悲惨な運命と、戦争に巻き込まれた一般市民の悲劇が描かれている。描かれた人物は5000人強。合戦後、徳川側の重要大名だった黒田長政が記録を残すために作成させたと言われる。右半分(右隻)は歴史的資料として一級品であり、左半分(左隻)は芸術として一級品と言える。

ところで、屏風の描写の前に、これを作成した黒田長政だが、父親は黒田官兵衛(如水)。竹中半兵衛と並ぶ秀吉の二大軍師である。官兵衛は、もっぱら、包囲戦を秀吉に進言し、鳥取城、高松城、小田原城と情け容赦なく、敵を飢え死にさせている。そしてキリスト教を「自己都合により棄教」している。一説によれば、秀吉亡き後、九州中津城に篭り、家康と石田三成の両者疲弊を待ち、一挙に天下乗っ取りを図っていたらしいが、徳川側に加わった嫡男長政が関が原で大活躍してしまい、すぐに徳川優位となったため、九州からの天下取りをあきらめたらしいと言われる。

233bb2ea.jpgもっとも、息子の黒田長政は、家康の養女(というのはご落胤かもしれない)を妻にしたりしていて、父親ほどの大胆なプランは持っていなかったはずだ。福岡50万石で大満足していただろう。この屏風は黒田家に伝わっていたので、別名「黒田屏風」とも言われる。


まず、右隻の方からだが、一言で言えば「固い」。この戦いに参加した両軍のメンバーと、およその戦い方が示されているが、実際は、狭いエリアで、混沌とした白兵戦が行われたはずだ。まず、屏風の中央(右隻の左端)に大阪城天主閣がある。6層黒塗りで、最上階の外壁には鶴が描かれている。二段目には虎が描かれている。現代の大阪城はこの屏風図を元にしたとは言われるが、現代の大坂城には鶴は描かれていない。1615年5月7日の大決戦では、徳川側15万強、豊臣方5万強がこの狭いエリアで激突した。

大坂城は小田原城と並び「総構え」という構造で、町全体を城壁で囲い、その中に、市民が生活するという町並みだった。その市街地を舞台に20万人が入り乱れることになる。クラウゼヴィッツの戦争論の中で、「城を攻めるには守備の3倍の人間が必要」と述べられているが、この戦争論と同様に大激戦になる。



233bb2ea.jpgまず、屏風中央上部のところで銃撃戦を行っているのが毛利勝永と前田・井伊勢の銃撃戦。毛利勢はここを突破し、藤堂勢を分断し、家康本陣に迫っていくのだが、そうは描かれていない。戦闘が始まった時の布陣である。









233bb2ea.jpgそして、中央の下の方に行くと、刀による斬り合いが描かれる。大野治房対本多忠朝は大野側が本多勢を粉砕し、これも家康本陣に迫る。実際はどこの部隊にも銃や刀や槍や色々な武器があったと思うが、屏風上は、部隊によって武器を描き分けている。









233bb2ea.jpgそして、中央の最下部の方に、真田幸村隊がいて、こちらは槍で松平忠直に襲い掛かっている。そして、史実では、家康は戦場から逃げ出したのだが、最後は兵力の差で豊臣勢が壊滅。5月7日の夕方に大坂城天主閣は炎上してしまう。









233bb2ea.jpg家康はこの図ではもっとも右側に描かれている。大坂の町では家康の評判は著しく悪く、大坂で家康は討死にし、以降は影武者が将軍の座に座っていたとも言われていて、墓まである(江戸時代は、この墓はどうなっていたのだろうかと、少し疑念はある)。

翌、8日、千姫が徳川側に脱出し、豊臣家の存続を訴えるが、それも空しく一斉攻撃が始められ、秀頼とその母である淀君(お市の方の娘)が自害し、その後、残党狩りと一般市民の悲劇が始まるのだが、それは次回とする。