横浜の元祖(上)

2006-12-11 00:00:12 | 美術館・博物館・工芸品
あれこれと個人の伝記を追いかけると、時々、歴史の主流にはいないものの、面白い人物をみつけることがある。ブログを書き始めてから趣味になった。普通は、趣味をブログに書く人が多いのだろうが、逆パターン。今回、見つけた人物は、間違いなく横浜開発の祖である。しかし、いささか時代が古いので、あまり細かな事情はわかっていない。今のところわかる範囲で書いてみる。吉田勘兵衛。江戸の初期である。

0054a900.jpgよく、ペリーが開国を迫ったため、それまで漁村だった横浜村を貿易港として開港し、それが今の神奈川県庁から先の関内地区と思われているのだが、もう少し視野を広くとると、江戸初期には、横浜村自体、村どころか地面も存在していなかったことがわかる。まず、今の京浜東北線のあたりから海の方は大部分が開港に向けて埋め立てられた部分であるのだが、さらに今の関内の奥の方、伊勢佐木町、長者町、吉野町方面、は深い入り江であったわけだ。つまり、地図で確認すると、野毛山と山手の間に広がる平地部分が、まったく存在しなかったことになる。それを一気に埋め立てたのが吉田勘兵衛という人物で、時は明暦2年(1667年)である。彼の実像と当時の事情を追ってみる。

まず、勘兵衛は1611年に大坂で生まれる。実は、幼少の頃、父を亡くしたことはわかっているらしいが、徳川=豊臣抗争の渦巻く大坂で商人として腕を磨いていたと考えられる。そして1634年、家光の時代に24歳で江戸に出てくる。日本橋で石材と木材の店を構える。商売が巧みであったらしく開業10年、30代半ばで、幕府御用木材商人の座を得る。今で言えば入札参加権である。そして、当時、幕府御用はそれによって得る利益が課税対象外だったはずだから利益率は高い。しかし、幕府御用には高級材が必要ということで、先に請負価額を決めた後、木材調達をするので、ギャンブルのように大損が出ることもあったらしい。

そして、この幕府による公共事業というのは、奈良茂や紀文でも有名だが、豪商を生んでいる。なにしろ江戸には大火が多いし、さらに綱吉の時代には、仏教と学問を奨励したので寺院や学問所の建設ラッシュとなった。ついでに中野にあった巨大犬小屋も。ところが、この利益の多い木材の御用商人には希望者が殺到。得た利益を賄賂に使ってビジネスを拡大続けていたのが奈良茂であり紀文なのだが、勘兵衛は、利益を干拓事業につぎ込んだとされている(裏の話はわからない)。

それで、彼が最初に行った干拓事業は隅田川の中流である千住の湿原の埋め立て工事だったそうだ。農地に変換している。悪所で有名な吉原の地も、葦(よし)が生えている原っぱという意味だったらしいので、年代的には、勘兵衛が造成した可能性があるかもしれない(未調査)。そして、そ千住造成が成功した後、第二の干拓候補地が探され、勘兵衛は全国行脚の旅に出て候補地を探すのだが、なかなか見つからない。そして、空しく江戸に戻ろうとした直前に、横浜方面に寄ったときに、「ここだ!」と気付いたそうだ。

そして、江戸幕府に干拓事業を願い出て受理される。

後から、彼の仕事を見ると、新田開拓の条件として、以下のことを考えていたようだ。
1.自然的条件として、浅い海(あるいは湿原)、それを埋め立てる土砂のある山や島が近いこと。
2.新田を維持するための用水用の河川が近くにあること。
3.商業的条件として、開拓した後、そこを小作する農民数、あるいは土地を購入する富農数が必要。
4.開発資金の見積もり及び、その手当て。(自己資金、借り入れ、共同事業者など)



遠浅の入江、そして天神山、大丸山、宗閑島という土砂のあてがあったこと。大岡川というちょっとした川があったこと、そして、付近には小さいながら農民がいて、しかも江戸初期は人口爆発時期であった。17世紀の100年間に日本の人口は1000~1200万人から3000万人超に膨張したにもかかわらず、鎖国していたのですべての資源が不足になっていた(傘や鍋のリペアが職業になった。現代に繋がる話。)。土地があれば農民が押しかけるわけだ。そして、こに吉田新田事業は3人の共同事業ということで始まる。もちろん、3人はそれぞれ異なる目論見(金儲けの手法の違い)だったのだろうということは、私の推測。

ところが、理論的には可能でも、土木工事は自然を相手にするので想定外が起きてしまう。川原を埋め立てるのと海を埋め立てるというのは同じようにいかない。入り江の中にまず俵で堰を土俵のようにループ状につなぎ、次にその中を土砂で埋め、水田にする予定だったが、台風や大地震が発生し、工事は進まない。そして、彼は、ある特定の(と言っても普通の)宗教に仏頼みをする。どの宗派かは書かないが、そこは今でも彼の偉業を宣伝している。このブログも、その宣伝と、先日まで横浜歴史博物館で開かれていた吉田新田350年史の資料を参考にしている。

そして、11年かけて、干拓は終了する。入り江のほぼ全面を埋め立て、中央に水路を引く。入江の中に巨大な島があるような構造で、左右に二本ずつ計4本の橋が架かった。この事業の成功に対して、勘兵衛は「吉田」の苗字と帯刀が許された。

0054a900.jpgそして、1667年の干拓完成の7年後1674年に最初の検地が行われている。この7年の猶予は、単に、埋め立てた後、水田にするための土地の改良期間だったのか、年貢の上納の猶予期間だったのか、そのあたりはよくわからない(全国の新田開拓比較史でもやればわかるだろう)。そして、資料としては、1700年の村高として、1038石、面積116町とされ、その8割が田。農民が81人住んでいて、その他、通い農民が117人とされている。年貢は1500俵(600石)とされている。1038石と言えば、税率50%以上。現代では億万長者用の税率である。

(続く)