八幡和郎氏からのコメント

2006-12-30 00:00:14 | 書評
7791269f.jpg私のブログには、とりあげた書籍やコンサートの本人から、よくご来訪いただくのだが、今回は2006年12月13日に書いた、「幕末に関しての2冊の新書」のコメントに、このうち一冊のの著者、八幡和郎さまから、注記をいただいた。

始めに、元のブログは、「同じ幕末の人物像を描くのに、当時と同じように、佐幕派と尊攘派のような立場で書かれたものがある」というような趣旨である。その中で、八幡氏の方を尊攘派に近い書き方とした上で、幕末に大暴れした会津藩が明治政府によって、斗南(今のむつ小川原の方)に移されたことについて、八幡書にあるように、「斗南か猪苗代か選択肢があったのに、わざわざ自然環境の厳しい斗南を選んだ」という事を、青森出身の人に話したら激怒されたという実話を紹介したわけである。その部分についてのさらなる追加解説を書いていただいたという次第。

拙著「江戸300藩 最後の藩主」についてのコメント有り難うございます。このなかで、「この八幡書の記述の正確性についてだが、たまたま、青森の出身の方に、『会津藩は戊辰戦争首謀者の罪で、藩ごと斗南の地(むつ小川原付近)に送られたのではなく、斗南と猪苗代の選択権があったのに、自分たちで斗南を選んだのだ』、という八幡説を紹介したところ、「そんな話は聞いたことが無い。俺の祖先の多くは、斗南にいかれて餓死したり凍死したんだ!』と怒鳴られてしまった。引用には注意が必要だ。」とありますが、この史実は下記のなんと会津若松市のHPにも掲載されている確実なものです。

もっともこの史実を会津の方や会津贔屓の方でご存じない方が多く、無理矢理、酷寒不毛の地に追いやられたと誤解されている方が多いようですが、それは、斗南(現在の青森県むつ市で、決して不毛の地でも何でもなく素晴らしい山海の幸に恵まれ、高い水準の郷土文化があるところです)の人々にも失礼なのでないでしょうか。
また、会津藩政は善政とは言い難く、明治になって、板垣退助が「会津の武士は良く戦ったが、庶民がむしろ官軍に協力的だった」のをみて、「自由民権でなくては国が守れない」と悟ったなどというエピソードはよく知られたものです。
ともかく、会津の庶民は小原庄助さんに代表される気のいい人たちで、いわゆる『会津魂』は、進駐軍として信濃高遠からやってきた会津藩士たちの典型的な信濃人気質を指します。

まず、もともと、この話が正確とか不正確とかということを超え、要するに被害者側(旧会津藩の末裔の方々)はあまり認識していないと思うわけだ。結果としては、多くの方が亡くなったこともあり、急に斗南移転したことには無理があったことが考えられる。想像するに、旧会津の領地が猪苗代付近だけになれば面積がマイナスになり、そこでも苦しい経済環境になることが考えられ、「ままよ!」という気持ちで新天地にいったのかもしれない。明治後期になっても北海道の開拓農家の多くが挫折したことも事実。斗南を選んだのは、どういう決定プロセスを経た結果なのか、というのは少しガバナビリティ学上、興味を持っている。

7791269f.jpgさらに、これも以前紹介した、2006年7月17日号「”バルトの楽園”は骨太だった」という映画の中で、松平健扮する松江豊寿(実在)は、元々、会津藩出身の両親を持ち、斗南で悲惨な人生を送ったあと陸軍に入るのだが、そこでも長州閥に苛められ、徳島県のドイツ兵板東捕虜収容所長という閑職に追いやられるという筋書きである(会津バッシング決め付けである)。


そして、もちろん、「現在のむつ小川原の人に失礼」というのは同感だが、実際には原発や自衛隊、米軍の象の檻や農薬工場や旧原子力船母港などが集中しているという日本の要塞地域になりつつあるというのが実態のように感じる。文化人といえば「寺山修司」。やっとの思いでたどり着いた彼の記念館は三沢市のさらに辺境にあったのだが、出身は弘前方面のようだ。戦後最大級の韻文作家と思っているが、この年の暮れに、彼の探していた「祖国」を思い出してしまう。


なお、八幡さんの新書は、「江戸三○○藩 最後の藩主」 光文社新書 850円+TAX。とても新書とは思えない380ページの大著である。図書館で借りたりしないで、書店で購入した上、さらに図書館に行って、「これから読みたい本」として一票投じていただければ、さらによろしいのではないだろうか。