中国・日本の貴重書-静嘉堂文庫美術館

2006-12-17 00:00:22 | 美術館・博物館・工芸品
12月2日から17日までの非常に短期間に開催される「中国・日本の貴重書展」に行く。場所は、東急二子玉川駅から徒歩20分。超高級住宅街の中の遊歩道を歩く。そして、こんもりと突然に出現する丘陵を銀杏の落葉で足を滑らさないように上る。登山靴がいいのだが、それだと世田谷の風景と調和しない。そして美術館は、知る人ぞ知る大三菱が戦前に収集した東洋のお宝の山を所有する静嘉堂文庫

この静嘉堂文庫のことを語るのは、とても難しい。何しろ、和漢の古典書二十万冊、美術工芸品五千点を保有している。三菱株式会社は初代社長が岩崎彌太郎、そして彌太郎亡き後、二代目が弟の彌之助。そして、短期で引退し、三代目は彌太郎の子である久彌。さらに没後四代目を引き継いだのが二代目彌之助の子である小彌太。そしてそのまま昭和20年の終戦を迎え、三菱は解散。つまり、社長は4人で兄弟とそれぞれの子供が順に職に就いている。そして、その二代目の彌之助とその子である四代目小彌太が美術品収集に命を懸けた、ということになっている。そして国宝6点はじめ、時価総額計算不能状態なのだが、そのあたりは近く別稿に譲る。

そして、この膨大な収蔵品のうち、ほんの少しづつを、ほんのたまに(2ヶ月に1回程度)公開している。今回は、20万冊の書籍のうち貴重な古書48点が姿を現す。つまり、19万9952冊の古書と5000点の美術品はお蔵の中だ。この48冊の中の大部分は、原典の写本である。漢籍(中国書)は、北宋・南宋・元の時代の作。国書は奈良時代から江戸時代まで範囲が広い。この中から3点について少し感想を書いてみる。

07f8d7ec.jpg漢籍・李太白文集 南宋初期の作である。李太白というのは、詩人の李白のこと。この書籍の何が凄いかと言うと、書物の冒頭に、印鑑が20個押されている。それは、蔵書印ということ。つまりこの書は、完成後20人の所有を経て、現在、三菱の所有になっているということ。気になるのが、中央上部の楕円印で、何か日本人の苗字のようにも読める。「末本?」。まさか今後、スリーダイヤモンドの印を押すことはないと思うが、蔵書は20万冊もあるので、順番に端から押している最中かもしれない。


国書・百万塔陀羅尼 世界最古の書物といわれる。木製の20センチほどの小塔の中に、筒状に巻かれ嵌め込まれていたもの。四種類のお経である。一部が朽損しているが、大部分は残っている。年代は、神護景雲四年となっており、中国の年号かと思って帰宅後調べると、日本の年号だった。「神護景雲」のような四文字年号は現在にいたるまで、数回登場しているが、その最後がこの神護景雲である。西暦767年から769年とされている。それならば3年間しかないから、神護景雲四年というのはどういうことか、とかはまったくわからない。経典の方が神護景雲3年末に完成したものの、それを入れる小塔の完成が翌年にずれ込みそうなのを計算し、先付けで4年と記したものの年号が変わってしまった。誰も気付かないだろうと作者はたかをくくっていたが、1236年後、おおた某なるブロガーに秘密を暴かれた、ということなら面白いが、調べる術もない。

ところで、これを見ていて、気付いたのは、「紙は炭素を固定化するのに、非常に有効な方法ではないか」というCO2対策なのである。となれば、紙の再生利用というのは、まったく間違った環境対策で、古紙は窒素封印してどんどん保管して、さらに植林事業と組み合わせるべきではないかということなのだが、そのうち、計算してみよう。


国書・つれつれ種(徒然草) 永享3年写。1431年である。「つれつれ種」がなぜ「徒然草」なのかよくわからない(わからないことだらけ)。実は、このコレクションをじっと眺めていると、左の端の上部にこまかな文字が書かれていることがわかる。残念ながら、古文書が苦手で解読できないが、目をこらして見ると、その小さな文字は、幅3ミリ程度の細い紙を貼られて書き込まれているのだ。誰か後世の人間の所作なのだろうか。専門家は気付いているのかな。

07f8d7ec.jpgそして、徒然草の奥付けには、この写本を手がけた人物の名前が書かれているのだが、「 正徹」と自筆で書かれている。正徹というのは人物の名前なのだろうが、「」というのはどういう意味なのだろうか。江戸幕府によって被差別階級とされた身分と関係があるのだろうか。あるいは、単に、人にあらずということなのだろうか。気になり、調べて見るが、はっきりしたことは、これもまたわからない。

ただし、正徹(1381-1459)というのは、著名な歌人である。一方、室町時代の臨済宗の僧であったことがわかった。僧として高名なのではなく、京都東福寺で書記をしていたそうだ。新聞記者がブログを書いているようなものだ。徒然草の写本は趣味の方ではなく仕事の方で手がけたのだろう。そして、足利義政と対立して、目を付けられ、”謫挙”されていた、という。「謫挙」というのがどういうことかわからないが、「蟄居処分」のようなものなのではないだろうか。そして、正徹は義政がなくなるまで、この処分を受けていたようだが、それに対するプロテスト精神で「」と自らのことを書いたのではないだろうか、というのは私の想像である。


そして、今回出展されないある国宝については、近く別稿で触れる予定。