浜松町付近にあった版元

2006-12-26 00:00:28 | 美術館・博物館・工芸品
02265b29.jpg終わってしまった展覧会のことを書くのは恐縮だが、書いてもなかなかたどり着けない場所にあって、いかにも通という人用という感じなので、ご容赦を。場所は港区の三田にある「港区立郷土資料館」といっても見つけることは難しく、港区立三田図書館4階である。別名、触れる博物館でもある。「港区」というキーで、驚くほど上質な展覧会を開くので、目が離せないのだが、ほとんど告知されない(千代田区、中央区、台東区のように歴史のある区の郷土資料館には注意が必要)。

今回は、浮世絵にこだわって、浮世絵の風景に登場する港区の風景と、現在の浜松町から芝大門の間に多く集まっていた浮世絵版元の特集だった。集めた浮世絵は約250点という膨大さである。とても一介の区が図書館の4階でやるような規模じゃないのだが、裕福な区なのだろう。

まず、ケチをつける気は無いが、港区の風景の話だが、それほどのものでもない。あえて言えば、海岸で行われていた漁業とか愛宕山の花見なのだが、それは月並みということで、多数の作品が残っている。古地図を見るとわかるのだが、現在の港区のあたりはまず「増上寺」という途方もなく大きい寺がある。増上寺の話はいずれということにして、この大きさは江戸城をちょっとこぶりにした位である。そして、その外側に薩摩藩・仙台藩などの外様大名が住む。そして東海道という幹線道路が海岸に近いところを走っている。この芝地区というのは、海と増上寺の間で東海道に沿った場所ということで、武士と町人が混住していた地区なのである。だから、いわゆる下町とは異なる雰囲気があったのだろう。

02265b29.jpgそして版元の話だが、これが集まっていた。江戸にはその他、日本橋近くにも版元があったはずだから人気画家の引き合いを激しく行っていただろうとは想像がつく。そして浮世絵師は版元とは無関係なところに住んでいるから、版元の「パシリ役」が版下を運んだり、原稿料を運んだりと走り回っていたのだろう。なにしろ北斎みたいに90回も引越しするのもいるから、情報収集は怠ることができない。

 増田銀次郎  「増銀」 天保~明治
 有田屋清右衛門「有清・または有永堂」天保~文久
 若狭屋与一  「若予」
 若林堂      寛政~明治 国芳、広重
 佐野屋喜兵衛 「佐野喜」 英泉 広重
 丸屋甚八
 和泉屋市兵衛  明治になり、教科書業者になった。

ではなぜ、港区に版元が多いかといえば、私の推測では「東海道」関係だろう。当時の浮世絵は1枚800円程度であり、それ自体が高級品ではなかったのだが、そのため江戸土産に使われていたようなのだ。もちろんお土産は軽いほうがいい。となればこの芝あたりで版元直行し工場出荷のアウトレット品を買い集めるという合理性がでてくる。となれば、芝の版元は「江戸の名所画」に特化し、日本橋の版元は「下町の人間」をフォーカスするように分化していったのも頷ける。

さて、版元と絵師のどちらが強かったかはわからないが、絵師の仕事場はこの出版社だったのだろうか、あるいは自宅だったのだろうか。何か、出版社と締め切りを無視する作家のような関係なのだろう。ところが、浜松町のあたりに、現在、浮世絵に関係する遺跡類など、まったく見たことはないのだが、少し探してみる価値はあるかもしれない。