横浜の元祖(下)

2006-12-12 00:00:01 | 美術館・博物館・工芸品
ところで、博物館の新田開拓史の展示資料の中には、新田内の土地売買の契約書が多数残されている。資料は吉田家から提供されたものなのだが、よく見ると、吉田家が土地を売却しているものもあれば、逆に購入しているものもある。同時期であっても単価は異なるし、上乗せプレミアムを別に支払っているものもある。これらを、少し考えていたのだが、次のようなことが起きていたらしい。

まず、この事業の総工費なのだが、勘兵衛一人では捻出できず、三人の豪商の共同事業だったわけだ。それなら、「吉田」新田と吉田勘兵衛だけの名前が残るのは不自然なのだが、事業後の運営形態で三者三様の思いがあったと考えられる(あるいは途中から意見の相違が生まれた)。勘兵衛は、事業後の新田からの安定的収益を目指したのに対し、他の2名は、当初の土地売却益というキャピタルゲインを追及していたと考えられる。

e6017cb1.jpg残された土地の売買契約書では、共同事業者から勘兵衛が土地の価額とは別にプレミアム金額を上乗せして買取っていることがわかる。一方、勘兵衛は、土地を購入して耕そうという農家には売却している。そういう売買を続けるうちに、この一帯は、吉田勘兵衛一族と中規模の農家という安定した土地所有形態になり、幕末まで続いていく。

そして、この大きな土地の奥の方を勘兵衛の長男が継ぎ、吉田北家(本家)をなす。そして長者橋より海側を次男三男が継ぎ、吉田南家を興す。ところが、この南家の方だが、ちょうど幕末から明治初頭に事業上の大失敗をしてしまう。それも創業者と同じようなディベロッパー事業である。

この吉田新田の奥のどん詰まりのところに大岡川が流れていて、これが新田中央から東京湾に水を注ぐのだが、この川を逆に辿っていき、根岸の海岸に近いところから運河を海岸まで掘ろうとしたわけだ。実際、現在細い運河が開通しているのだが、もはや、その時代には全く不採算な工事になってしまう。ちょうどその少し前に世界では「スエズ運河」が開通しているのだ。関内と根岸を結ぶ細い水路では何の役にも立たなかったことになる。そして、この吉田南家はこの事業に多額な借金をし、その担保であったすべての財産を失う。私のこのエントリの前半部(前日分)を読んで、初代勘兵衛の考えていたディベロッパーの投資条件を頭に入れておけばよかったはずだ。

そして、かたや吉田北家はその後どうなったか?

e6017cb1.jpg調べてみると、北家の現在の当主は勘兵衛から12代目であることがわかった。吉田貞一郎さんという。住所も江戸初期から同じ場所。京浜急行の”日の出町駅”で降り、長者橋を渡って右手の一ブロック(長者町九丁目○番地)。そこに大きなビルがある。第10吉田興産ビルである。さらに裏手には大きな駐車場が二ヶ所。そして現在、このビルで、ある商売をされている。

不動産業。

つまり、吉田興産は、おそらく日本で最も古い不動産業者であるのだろう。

(おわり)