大河ドラマの噂、藤堂高虎本出現

2006-05-12 00:00:32 | 書評
5ae7781f.jpg大型書店の歴史コーナーに、新書判の本が平積みされていた。藤堂高虎について書かれた「江戸時代の設計者」である。著者は藤田達生氏、46歳か。三重大学の教授である。中世・近世史専門。自称藤堂高虎ファンの私としては複雑だ。「先を越された!」。

藤堂藩は江戸時代、伊賀上野を本拠地とした32万石の大名。三重大学は、ご当地だ。本書は、もちろん藤堂高虎の業績を中心に私の知らなかった史実をふんだんに記載しているが、かなりの藤堂ひいき本である。その点を認識してから読む方がいいかもしれない。

実は、本書の中で、NHKが、高虎のことを再調査していることが書かれている。昨年9月21日にはNHK「その時歴史は動いた」でとりあげられ、若干の超ミニ藤堂ブームが起きている。大河ドラマのための候補に上がっているらしい。もちろん、この本の出版にいたった背景にも藤堂高虎の再評価の波があるのだろう。

ということで、藤堂高虎の歴史評価の幅について考えてみる。

まず、従来からの一般論は「寝技」「裏切り」「策謀家」・・・といったネガティブイメージである。本著でも、またNHKの放送の中でも紹介されているが、どうも司馬史観なるものがあり、歴史小説の中で武将をカテゴリ分けする中で、大物、中物、小物と分類、さらに織田・豊臣グループ対徳川グループと対立軸におくため、中物で歴史ヒーローになり得ない上に、仕えた大名が、浅井氏(反織豊)・豊臣秀長(秀吉の弟)・秀吉・そして最後は徳川家康と渡り歩いたことが、「寝技師」というラベルを貼られた原因なのだろう。大物であれば変節も小説上ドラマ性があるが、中物の変節は筋書きが面倒になる。

それに対し、NHKは、「高虎は、”家康から寝技師と思われているのではないか?”と疑っていて、大坂夏の陣では、きたるべき江戸時代の本格政権の中で重要なポジションを得るため、人的損害を省みず、猛烈な死闘を演じ、その後の家の安泰を勝ち取ったのではないか」、という深い洞察のある見解を示していた。

しかし、本書では、もっとずっと高虎寄りの解釈を行っている。豊臣秀長時代から家康とは親交を深めていて、関が原の前に西軍から東軍にくら替えした多くの大名の説得は高虎が行なっていて、いわば家康の個人的な参謀になっていたと大胆に断定。大坂夏の陣の先鋒役は、家康からの配慮であったのだが、たまたま藤堂家に転がり込んでいた、豪族時代からの盟友渡辺勘兵衛が意を汲まず、部隊の一部を無謀な戦いに突入させてしまったために、大損害を喫してしまった。というように書く。


このあたりで、私の意見であるが、元々、かなり若い時は、天下を狙う意気込みがあったのだろうとは思う。しかし、登場時期が遅すぎたのだろう。秀吉との年齢差19歳。家康と14歳の差。おそらく、一時豊臣家の内紛に巻き込まれぬよう高野山に逃げ込んだときに、歴史の潮流を読み、「もはや安定政府の時代」と考えたのではないだろうか。大好きだった城造りも、この頃からは、軍事的拠点から統治的拠点へと変化している。従来型の城郭では、仮想敵国に対峙するかたちで城を作り、背後に町民の居住エリアを設計するのが一般的だったのだが、この頃からは城下町という有機的な共同体の中での城郭という設計に変わっている。

そして、その後は城造りというより、広義の町割りの達人になっていくのである。そして、彼が設計した最大の遺産は、現在の東京(つまり江戸)の町割りなのである。彼は一応外様大名という範疇なのだが、家康からの信頼は絶大で、参勤交代どころの話ではなく、常に家康の近くに住んでいたわけだ。江戸においては上野の山に屋敷を構える。上野の地名は彼の所領である伊賀上野にちなんでいる。そして、家康晩年は駿府に居を構える。まさに家康の影になった男である。最晩年は日光東照宮の普請まで行なっている。幕末まで江戸城の建築工事を独占受注していた大工の甲良家は、高虎が出身地の近江時代からひいきにしていた家柄だ。

ところで、本書に紹介される数々の史実の中で、妙な話としては、名前のことである。藤堂高虎の父親の名前は、虎高だそうだ。そして母親の名前は「とら」さんだったそうである。「トラトラトラ」では、さぞ家庭内では混乱しただろうと想像。


さて、本当に大河ドラマになるのかどうか、真偽のほどはよくわからないが、評価の複雑な人物だけに、妙な解釈だけはやめてもらいたいと思うが、NHKも司馬史観から離れられるかという試金石でもあるのだろうし、興味はある。

ただし、役者の人選だけは難航するかもしれない。なにしろ、記録に残る彼の身長は6尺二寸(186センチ)であるのだ。