言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

私の好きな福田恆存の文章

2017年06月16日 21時25分09秒 | 日記

 私は福田恆存の研究者第二世代である。福田恆存の晩年になつてその存在を知り、辛うじて若干のつながりを得ることができた世代である。

 50歳を過ぎて、世の中が「保守化」してきた時代にあつて、福田恆存はさういふ保守ではないのではないか、といふ違和感を抱いてゐる。私の福田恆存論は孤独であると先日書いたが、孤独な福田恆存像であつても書きついでいくことが大事であると感じてゐる。さういふ試みをしばらくこのブログでもして来なかつた。それもまた私には必要なことがらであつたが、今後は再び始めてみようと思つてゐる。

 まづは引用から。

「人生論が單なる處世術に終らぬためには、どうしても死の問題を扱はねばならぬ。現状肯定の生きかたといつたが、死こそは何人も肯定しなければならぬ最初の、あるいは最後のものである。これだけは、今のところ、あるいは永遠に、改革不能のものである。惡くいへば、すべてが解決可能の世のなかで、やうやく一つ見つけた解決不能のものとして、人生論者はこれにしがみつく。つまり、死神の顏を借りて、人を脅しにかけるのだ。事實、その種の人生論が多い。が、人生論の本來の役割は死をもつて人を脅すことではない、死に怯えぬ心がまへを人に與へることである。死だけではない。あらゆる解決不能の問題を、それはそれとして現状のまま肯定し、あきらめをつけることを教へることだ。これは「反動」ではない。現状改革の精神を否定するものではない。むしろそれを支へるものだ。人はあきらめさへつけば、自分はその恩澤に浴さない孫子の代の幸福のためにも働くであらう。」(「人生論とは何か」)

 

 例へば、AIについて。その急激な進歩に人びとは驚いてゐる。2045年にシンギュラリティ(技術的特異點)が訪れるとカーツワイルは書いてをり、人間の生活が後戻り出來ないほどに變容してしまふと言つてゐる。コンピュータが私たちの生活に入り込み、人間を支配するやうになるかもしれないと恐怖するのである。物理學者のホーキングもその立場の列に竝ぶ。しかし、機械には故障はあつても死はない。他人の死といふものを經驗し悲しみ、自分の死を想像し憂ひを抱くといふことは、機械には起り得ない。

幸福といふことを考へ、それを他者にたいして問ふことによつて自分の生き方を決めていくといふ思考を機械に身に付けさせればいいのである。圍碁や將棋でコンピュータに人間が負けたことや、人間の仕事が機械に奪はれることを恐怖するのは、幸福を自己實現といふふうにしか考へない人が抱く思想である。

機械は人が造つたのである。その機械を恐れるのは、自分の中に恐れるものがあるからであらう。もちろん、誰にも惡はある。それを取り除くことは難しい。しかし、簡單には取り除けないから、それを凌駕する善なる行ひを他者にたいして行はうとするのではなかつたのか。そして、さういふ心根を持つて生きてゐる人が造る機械は、決して恐れる物とはならない。

同じコンピュータでも、太郎君と花子さんとではまつたく使ひ勝手が異るやうに、どういふソフトを入れるのか、どういふ言葉を記憶させるのかで、そのコンピュータの質は異つてくる。

もしシンギュラリティが2045年に來るのなら、それを恐れるよりは人間の特異點をその年までに迎へることが出來るかどうかを恐れる方がいい。「自分はその恩澤に浴さない孫子の代の幸福のためにも働く」ことこそ大事な生き方である。

 

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丸山真男の種明かし

2017年06月14日 13時25分44秒 | 日記

 丸山真男に『「である」ことと「する」こと』といふ論文がある。もともとは講演の内容で、日本の伝統的社会を「である」社会と規定し、近代化していく状況を「する」化と名付けた。存在論と現象論とを同時にとらへた文章で、高校生にはかなり難しい内容のやうであるが、私にはとても面白く感じられる。

 近代化とは、西洋化「する」ことである。日本の伝統的価値観は、私達が日本人「である」ところから発したものであり、どうして目上の人の前で足を組んで話してはいけないのかを西洋的論理で説明「する」ことはできない。日本的論理で言ふしかない。それは日本人「である」からだといふ風にである。

 「である」と「する」とは非常に優れた比喩で、山崎正和も近著『世界文明史の試み』の中で、「する」身体と「ある」身体といふ比喩を用ゐ、その影響を示してゐる。

 ところがである。丸山自身もこの言葉を別の思想家からの影響で使用したものではないかといふのが私の見立てである。といふのは、くだんの『「である」ことと「する」こと』の中に、シーグフリードの文章が引用されてゐるが、そこにかうあるからだ。

「アンドレ・シーグフリードが『現代』という書物のなかでこういう意味のことをいっております。「教養においては――ここで教養とシーグフリードがいっているのは、いわゆる物知りという意味の教養ではなくて、内面的な精神生活のことをいうのですが――、しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。」そうして彼はちょうど「である」と「する」という言葉をつかって、教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところにあるという自覚をもとうするところに軸をおいていることを強調しています。」

 丸山真男の発想に、そもそも「である」と「する」との二つの原理があつて、それによつて日本社会の分析が始まつた。そして、考へを進めてゐるうちにシーグフリードに行き当たつたといふ構成になつてゐるやうだが、実はこのシーグフリードの文章を先に読んでゐてそこに出てゐた術語を見て、「これは使へる」と思ひ日本の社会分析に利用したといふのが真相ではなからうか。

 丸山真男の書庫が、こちらに再現されてゐる。シーグフリードの書物に書き込みがあるかどうか、いつ読んだのかが分かると面白い。はずれてゐるかもしれないが。

 

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改めて『文學の救ひ』

2017年06月12日 23時04分03秒 | 日記

 私には単著として『文學の救ひ』といふものがある。

 福田恆存について書いたもので、その眼目は福田恆存が絶対者を意識し、それによつて現実を正確にとらへることができたといふことである。

 このことは福田恆存の研究者(愛読者)のだれもが言つてゐるやうであるが、じつは言ひ得てゐない。

 それはなぜか。

 絶対者の「絶対」といふ意味を取り違へてゐるからである。絶対といふのは、人間が造り出したものでもなく、人間の自覚の有無とも関係ないものである。

 地動説を知らうが知るまいが、明日には太陽が巡つて来る。太陽を神と信じようが信じまいが関係はない。お天道様は大地を照らすのである。さうであれば、太陽が私にとつてどういふ存在であるのか。時間の概念、一年の周期、季節と農作業の関係、その他のことを太陽の運行によつて考へてはいかがか、さう考へていく思考は福田恆存の思考の本質である。

 現実を正確にとらへるには物差しがいる。その物差しを歴史や自然に置いてゐるのは保守主義者である。しかし、福田恆存はその背後に絶対者がゐると見る。ここがその他の保守主義者とは違ふ。それは『日本学』に書いたことがある。

 しかし、かういふ私の論立ては今に至るまで孤独そのものである。正直、誰にも理解してはもらへない。絶対者のゐない日本においては、歴史と自然で十分だからである。

 だから、このまま理解を得られないままに終はるのだらう。そのことに十分納得してゐるとは言へないが、あちらの世界に行つたら、福田先生には、「いかがでせうか」とお尋ねするつもりでゐる。

 随分前に「神のゐない国のハムレット」として尾崎豊論を書いた。彼もまた孤独であつた。私はもはやさういふ年ではないが、「神のゐない国の福田恆存」の孤独を正しく感じ続けることができるやうになるために、私の孤独な福田恆存論を書き続けていかうと思ふ。

 その一里塚が『文學の救ひ』であつた。もはや手には入らないと思ふが、どこかで見かけたら御高覧いただけるとありがたい。

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「還元」といふ言葉

2017年06月05日 21時55分10秒 | 日記

 評論では、「還元」といふ言葉が使はれることがある。『用語集』にも項目として「還元」を立ててゐるものもある。しかし、たいがいその意味は「元に戻すこと」とあつて、実際に読解を深めようとするときには役に立たない。

 たとへば、丸山真男の次の文章の「還元」を「元に戻す」と言ひ換へても、分かつたやうな分からないやうなものになる。

「文化活動は『文化団体』や『文化人』に、政治活動は『政治団体』や政治家にそれぞれ還元されてしまうから、文化団体である以上、政治活動をすべきでない、教育者は教育者らしく政治に口を出すなというふうに考えられやすいのです。」

 この「還元」は「元に戻す」と単純に言ひ換へても、分かりにくい。文化活動は文化人以外の人がやつてゐる場合、その人から文化活動を文化人に返すといふのでは、文化とは物質なのかといふやうにも誤解されてしまふ。しかし、そんなことはない。たとへば、小説を書いてゐる政治家がゐるとして、書いた小説を文化人のものにするなどいふことは意味をなさない。

 では、「還元」とは何か。

 結論的には、「限定」するといふ意味である。つまり、文化活動は文化人に、政治活動は政治家に限定するといふことを丸山は言つてゐるのである。

 化学反応で言へば、

 CuO + H2 Cu + H2O 

 酸化銅に水素ガスを送りながら加熱すれば、赤い色の銅が作られる。この時、銅と化合してゐた酸素が水に限定的に存在するやうになるといふことである。

 還元といふ言葉が、いつごろから使はれ始めたのかは分からない。しかし、あまり使ひこなせてゐない言葉であるやうに思ふ。

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文科省はいらない。

2017年06月02日 21時37分02秒 | 日記

 先日公表された2020年度以降の新しい大学入試の詳細を知れば知るほど、悲観的な思ひが強くなつていく。

 新しい学力観としての三つの要素、①「知識・技能」②「思考力・判断力・表現力」③「主体性・多様性・ 協働性」、それらはいづれも正論である。これを兼ね備へることに問題はない。

 しかし、その学力を準備するのがどうして学校でなければならないのか。もつと言へば、それをすべて担ふのが文科省でなければならないのか、大いに疑問である。

 現在の加計学園の獣医学部新設についての問題の本質も、新学部新設の判断を文科省が専権的に行ふことの是非である。そのことは民進党の視野にはまつたく入つてゐない。現政権憎しといふ思ひだけで突つ走つてゐるから全く批判に正当性がない。メモがあつたかなかつたか、前川前事務次官の苛立ちの根本も、内閣府との戦ひに敗れた文科省の不満があつとしか思へない。

 地方に住んだことがある人なら百も承知のことだが、企業を誘致するのに地方公共団体が土地を提供するのは当たり前のことである。新学部建設に土地を提供し、それを有利に運ばうとした、そのときに横やりを入れたのが文科省であれば、何としてもそれを阻止して誘致したい。それが自然の道理である。文科省が決定権を奪はれたくないと考へ認可を渋り、結論を先送りしようとした。そこで内閣府が特区として認め設置が決定したそれだけのことである。

 決定権を持つてゐると思ひ込んでゐる文科省だが、それが大時代的なのである。人口が減り、社会構造が変化していく折に、許認可権を振り回して大学を牛耳らうとは傲慢も甚だしい。それで大学がつぶれても何も責任など取ることはできない。さうであれば、自然に任せればいい。大学同士の淘汰で適正が決定していく、それが現在である。

 かういふ権力占有意識が造り出したのが、2020年の新テスト構想である。記述問題を入れることを決定し、国語に「駐車場の契約書の読解問題」を出したことの愚は先日もこの欄で述べた。これが先の三つの要素を測るものであるとすれば笑止である。

 さすがに東京大学や京都大学は、すでに「こんなものは使へない」と判断したやうで、独自の大学入試改革を始めるやうだ。つまり、上記の試験は参考程度にとどめ、自分たちで必要な学力テストを課すといふことになる。となれば、かつての共通一次以前の大学入試に逆戻りする公算が強くなる。

 結果的に大学入試は多様化し、高校の現場は、一層広がる推薦入試への個別対応、ポートフォリオ化する調査書作成、多様化する大学入試への個別対策といふ大混乱に巻き込まれることになる。結果的に、アクティブラーニングといふ名の学級崩壊、思考力入試といふ名の無知による思ひ付きオンパレード記述、四技能重視といふ名の英文読解力低下、見るも無残な教育崩壊が現出する。

 私はさう見てゐる。それもこれも文科省の自省益優先の発想ゆゑである。文科省、あるいは安倍政権栄えて國滅ぶ。さういふことになりさうである。

 今回の文科省(前川氏を支持する勢力)と安倍政権(現文科省)との内ゲバ内部亀裂はさういふ意味では僥倖であるかしらん。

 もう文科省はいらない。成熟した時代に、中央集権でものが進むとは思へないからである。

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