「百円札をもやして靴をさがさせた」といふ繪を、中學生の時代に教科書で見たことがある讀者も多からう。そんな大正時代の成金は一部の人々だけの醜態であつたが、戰後の成金は大衆すべてである。今日の状況は、醜態の再生産である。したがつて、生活から切り離されて空虚になつた言葉をもう一度正し、しらじらしいばかりの倫理や道徳といふ言葉を私たちの心に取り戻すことは、さう簡單に解決はできまい。さう思つてゐる。
そして深刻なことに、保守派の言論でさへ、その處方箋についての主張が眞つ二つに分裂してゐるのである。
世界の歴史に通曉し文明論を獨自の視點で描き出す、貴重な著者である山崎正和氏は、西尾幹二氏や西部邁氏が取り組む傳統を礎にした教育改革に眞つ向から異を唱へてゐる。それどころか、學校教育のなかから「歴史教育を外せ」とまで言ふのである。
山崎氏の現状理解は、次のやうである。
現代は何であれ一元的な原理が力を失い、全体を包むただ一つの社会秩序という観念が無効になりつつある時代なのかもしれない。秩序化の原理そのものをも多様に組み合わせ、同時に複数の秩序ある小さな共同体を連携させることのほかに、救済の途のない時代なのかもしれない。このような現実主義にたったうえで、いいかえれば可能性の限度を見限ったうえで、社交にそのための一つの役割を期待することはたぶん荒唐無稽ではないだろう。
「アステイオン」二〇〇〇年五四号
歴史的假名遣ひで著作集を出版してゐたこの著者が、近年書き下ろしの原稿まで現代仮名遣ひにしてゐる。そのことが端的に示してゐるやうに、歴史といふものから距離をおき、個人と個人のむすびつきに期待しようといふのがその主旨である。「かもしれない」といふ推量の文末表現が、現状認識變更の可能性を殘してゐるが、これはいつもの山崎氏のやり方である。確信をもつて歴史性の喪失を見てゐるに違ひない。
そこで現状克服の手がかりとしたいのが「社交」である。この言葉が近年の山崎氏のキーワードであるが、このことについては、引用文は連載第一囘目であるので、完結したをりにまた觸れることにしたい。
ただし結論ははつきりしてゐる。「一元的な原理が力を失つ」たから、歴史教育がゐらない、必要なのはまつたうな社交の復活であるといふのは、あまりに「高等」すぎる。知識人のサロンにゐすぎて、現實が見えてゐないのらしい。社交の精神の復活を非難するものでもないが、それがどうして歴史教育の復活と同時に進めて行くことができないのか、大いに疑問である。つまり、「社交にそのための一つの役割」以上のものを山崎氏は「期待」してゐるのは明らかである。
簡單に今日の醜態を改善することは難しい。だからこそ、その醜惡を矯正するために言葉を正していくといふことが必要だと考へるのが、私の立場である。
山崎氏については、縷々觸れていく。が、ここでは「醜態」の話に戻すことにする。