三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「女性政党、慰安婦像撤去について下院調査求める決議案提出。元慰安婦女性も同行」

2018年05月11日 | 日本軍隊性奴隷
http://www.manila-shimbun.com/category/society/news237646.html
「まにら新聞ウェブ」 2018年5月11日
■女性政党、慰安婦像撤去について下院調査求める決議案提出。元慰安婦女性も同行

【写真】決議案を掲げる元慰安婦のディさん(中央)とデヘスス議員(左)ら=10日午前11時すぎ、首都圏ケソン市の下院議事堂で冨田すみれ子撮影

 女性政党ガブリエラのデヘスス、ブロサス両下院議員は10日、マニラ湾の慰安婦像撤去について調査を求める決議案を下院に提出した。


http://www.manila-shimbun.com/category/society/news237626.html
「まにら新聞ウェブ」 2018年5月10日
■女性団体ガブリエラ、慰安婦像撤去や日本の「軍事化」について抗議集会実施

【写真】撤去された慰安婦像の写真やプラカードを掲げ抗議するガブリエラメンバーら=女性団体ガブリエラ提供

 女性団体ガブリエラは7日に首都圏ケソン市の国軍本部前、8日にはルソン地方パンパンガ州アンヘレス市で、マニラ市の慰安婦像撤去や日本の「軍事化」に対する抗議集会を実施した。


http://www.recordchina.co.jp/b599497-s0-c10.html
「Record china」 2018年5月10日17時20分
■「慰安婦は国の歴史の一部」=比団体が声明、慰安所跡地での記念碑建立も
 2018年5月10日、中国僑網によると、慰安婦問題に取り組むフィリピンの団体が9日、政府や国民全体に対し、慰安婦を国の歴史の一部だと正式に認めるよう呼び掛ける声明を発表した。
 同団体は国内各地で暮らす元慰安婦を集めた平和大会の開催や、慰安所があった場所に記念碑を建立することなども求めており、マニラ市ロハス通りの慰安婦像が撤去された問題に関しても、人々の目に触れる公共の場に慰安婦像を再度設置するよう要求。「政府指導者が国の尊厳を守り、日本の圧力に屈しないことを求める」、「全国の公的組織がともに努力し、慰安婦に対する正式な謝罪、賠償を日本に要求することを求める」などと訴えている。
 なお、ロハス通りから撤去された慰安婦像はフィリピン国内の学校を巡回中という。学生らに当時のことを理解してもらうことが目的だそうだ。  (翻訳・編集/野谷)


http://www.recordchina.co.jp/b599418-s0-c10.html
「Record chin」2018年5月10日(木) 13時50分
■撤去されたマニラの慰安婦像、市職員「元の場所に戻すことは難しい」

【写真】撤去された慰安婦像

 2018年5月10日、中国新聞網は、フィリピンの首都マニラで先月、昨年12月に建立された慰安婦問題を象徴する女性像がマニラ市などによって撤去されたことについて、市職員が「元の場所に戻すことは難しい」との見通しを示したことを伝えた。
 記事はフィリピン華字メディア・菲律賓商報の報道を引用し、マニラの幹線道路ロハス・ブルーバードの海岸沿いの遊歩道に建立され、その後撤去された慰安婦像について、同市のアルコベンダス行政官が、公共事業道路省の見解として「ロハス・ブルーバードのその場所に2つの歩道橋が建設されるため、慰安婦像をその場所に戻すことができない可能性が高い」と述べたことを伝えた。
 慰安婦像の撤去をめぐっては、公共事業道路省が「下水道改良事業のために撤去した」と説明したことを受け、女性の権利擁護に取り組むNGOネットワークの「ガブリエラ」は、撤去に対する抗議声明を発表していた。
 ドゥテルテ大統領は撤去に理解を示した一方で、「私有地への設置は構わない」と述べていた。
 アルコベンダス行政官は「(大統領の発言から)それがもはや公有地に戻ることが許されないことが分かる。それが再び建てられるのであれば、恐らく私有地の上になるだろう」と述べたという。(翻訳・編集/柳川)
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「釜山市東区が徴用工像の強制撤去通知 市民団体「動かす考えない」」

2018年05月10日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/05/09/0200000000AJP20180509001800882.HTML
「聯合ニュース」 2018/05/09 11:36
■釜山市東区が徴用工像の強制撤去通知 市民団体「動かす考えない」
【釜山聯合ニュース】日本による植民地時代に朝鮮半島から強制徴用された労働者を象徴する像が釜山の日本総領事館近くの路上に置かれている問題で、韓国政府が像の総領事館前への設置を目指す市民団体に設置計画を見直すよう勧告する談話を発表したのに続き、路上を管轄する釜山市東区が23日までに像を別の場所に移さない場合は強制撤去すると通知した。

【写真】5月1日、像の設置を巡り、総領事館前でもみ合う市民団体メンバーと警官=(聯合ニュース)

 市民団体は像を動かす意向はないと表明。当局との衝突の危機が高まっている。
 韓国政府は8日、外交部長官、行政安全部長官、国土交通部長官、国務調整室長の連名で国民向け談話を発表し、「外交公館に対する国際礼譲、国内法などを勘案すると、団体側が設置しようとしている場所よりは、犠牲者追悼と後世に対する歴史教育のためによりふさわしい場所に(像を)設置することが望ましい」との立場を明らかにした。その上で、「朝鮮半島の平和と繁栄のためにわが国民、社会が力を一つに合わせなければならない重大な時期だけに一日も早く(像の問題を)終結させなければならない」とし、団体側に対し大局的な判断を下すよう促した。
 東区の関係者は「23日までに市民団体が像を撤去しない場合、手続きにより行政代執行を行うしかない」とした。
 これに対し、市民団体側は「現在の位置から像を動かす考えはない」として、「9日午後3時から会議を開き、政府の談話と東区の撤去命令について議論した後、声明発表の形で立場を表明する」と述べた。
 ただ、23日までに政府側と市民団体側が対話し、解決策を探る可能性もある。


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30528.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-05-09 01:32 修正:2018-05-09 07:11
■韓国政府「釜山強制徴用労働者像、日本総領事館に設置できない」
 政府「より意味のあるところに設置すべき」 
 市民団体「現在の位置から動かせない」 
 東区庁、23日までに自主的撤去を命令

【写真】今月1日午前、釜山市東区草梁洞の日本総領事館の近くにある強制徴用労働者像。警察が監視している=キム・ヨンドン記者//ハンギョレ新聞社

 政府が市民団体の釜山市東区草梁洞(チョリャンドン)にある日本総領事館前の強制徴用労働者像建立にブレーキをかけ始めた。
 政府は8日、カン・ギョンファ外交部長官やキム・ブギョム行政安全部長官、キム・ヒョンミ国土交通部長官、ホン・ナムギ国務調整室長の名で、共同談話文を発表した。同日発表した「国民に申し上げる言葉」では「外交公館に対する国際的礼譲と国内法などを考慮すると、現在労働者像の位置よりも犠牲者の方々の追悼と後世の歴史教育にさらにふさわしい場所に設置するのが望ましい」と明らかにした。さらに、「最近の南北首脳会談で始まった大きな変化の中で、朝鮮半島の平和と繁栄に向け、国民・社会の力量を一つに集結しなければならない重大な時期であるだけに、一日も早く決着をつけなければならない」と付け加えた。
 政府はまた、「日帝強占期(日本の植民地時代)に行われた痛ましい出来事について十分認識しており、不幸な歴史で苦痛を受けて心に深い傷を負った人々に真の和解と治癒が必要だと思っている。強制徴用という残酷な歴史を忘れずに直視しようという意味で、強制徴用労働者像を建立しようという趣旨にも共感する」としながらも、「推進団体と代案を模索するため努力してきたが、(労働者像の設置場所について)まだ合意に到達していない。労働者像の設立推進団体は、このような状況を踏まえ、(労働者像が)意味ある場所に設置されるよう、大乗的な決断を下してほしい」と述べた。
 現在労働者像は、日本総領事館前の平和の少女像から約40メートル離れた歩道の上に立っている。この歩道の管理を担当している釜山東区は同日、市民団体側に労働者像を自主的に撤去し、道路の原状回復の戒告状を送った。23日までに自主的に撤去しなければ、区庁が代わりに撤去する行政代執行に入る。
 戦争犯罪問題の解決に取り組んでいない日本政府に事態解決を促す意味で、昨年9月から労働者像建設を推進した「積弊清算・社会大改革釜山運動本部強制徴用労働者像建設特別委員会」は今月1日、日本総領事館前に労働者像を設置しようとしたが、これを阻止しようとする警察との衝突の末、現在の位置に設置することを宣言した。同委員会のキム・ビョンジュン執行委員長は「労働者像は現在の位置から1ミリたりとも動かせない。内部会議後に対応する」と話した。

釜山/キム・ヨンドン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/843792.html
韓国語原文入力:2018-05-08 21:43


http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/05/08/0200000000AJP20180508005500882.HTML
「聯合ニュース」 2018/05/08 22:15
■韓国政府「徴用工像は意味ある場所に設置を」
【ソウル聯合ニュース】韓国政府が、日本による植民地時代に朝鮮半島から強制徴用された労働者を象徴する像を釜山の日本総領事館前に設置しようとして警察に阻止された市民団体に対し、像を意味ある場所に設置するよう呼び掛けた。

【写真】4月30日夜、市民団体が釜山の日本総領事館前に像を設置しようと試みたが警察に阻止された=(聯合ニュース)

 韓国政府は8日、外交部長官、行政安全部長官、国土交通部長官、国務調整室長の連名で国民向けメッセージを発表し、「外交公館に対する国際礼譲、国内法などを勘案すると、団体側が設置しようとしている場所よりは、犠牲者追悼と後世に対する歴史教育のためによりふさわしい場所に(像を)設置することが望ましい」との立場を明らかにした。
 不幸な歴史により苦痛を受け、心に深い傷を負った方々に真の和解と癒しが必要だと考えているとしながら、「強制徴用という残酷な歴史を忘れずに直視する意味で像を建立するという趣旨に共感し、市民の関心と募金により作られた像を何よりも大切に思う」と強調した。
 その上で、「朝鮮半島の平和と繁栄のためにわが国民、わが社会が力を一つに合わせなければならない重大な時期だけに一日も早く(像の問題を)終結させなければならない」とし、団体側に対し大局的な判断を下すよう促した。
 市民団体はメーデー(5月1日)に合わせて日本総領事館前への像設置を計画していた。4月30日夜から像を設置しようと試みたが、外国公館の周囲100メートル以内での集会や行進が禁じられていることなどを理由に警察に阻止された。像は現在、総領事館付近の歩道に置かれている。
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「张发奎口述史:亲临广州日军投降仪式」 2

2018年05月09日 | 海南島史研究
http://history.dwnews.com/news/2015-08-12/59673823.html
「多维新闻」2015-08-12 05:41:32 多维历史
■张发奎口述史:亲临广州日军投降仪式
  9月16日,我一到广州就召集座谈会筹划组织接管委员会。该委员会由中央政府、省政府各个部门以及二方面军司令部的代表组成,朱晖日任主席,负责接管敌伪财产。中央政府有一位部长写信给我,要求协助他的特派员。当此人持介绍信来求我帮忙时,我说这属于他的权力,只要有需要,我一定帮助他。
  如果有两个或两个以上的特派员在接收某敌伪产业时发生争执,我便要他们请示中央,这一类财政部与经济部之间的争执很多,但他们从不提出较大的问题。当接管委员会想抓人时,譬如有人拒绝让他们接管一处财产时,委员会就通知我。如果我觉得应该逮捕,我就派宪兵去执行。
  我们也设立一个局管理敌伪财产,局长林继庸是中央派来的,其核心由中央政府各部门、省政府各部门以及我的司令部代表组成,该局负责接管委员会移交的所有财产。有时敌伪财产管理局会遭到占住房屋者的反抗,不仅是占住敌伪房产者,还有占住普通民众房产者。我们回到广州后,军、政、党机关把房屋占为己有,部分要人赖在大屋不肯走,人称住“霸王屋”。当敌伪财产管理局向我报告有人抗拒接管行动时,我就派宪兵把住霸王屋的人撵走。
  有时广州居民直接来找我或写信给我投诉侵权事例。倘若我见到适当的产权证明,会派宪兵将占住者赶走,不管是谁,限三日内迁走。有时我派车搬运他们的私人财物,弃置在露天场所,甚至赶走我的下属。在这方面,我的司令部与其他机关都犯有侵占民房的过错。华侨们对我特别感恩戴德。当然,有关征用财产的规定对任何人都是一体执行的,广州本地居民可以就近照顾自己的房产,而华侨可能没有亲友在广州照看他们的房产。
  为配合落实政策,军统局把它接管的房屋缴出来,其实它接管的房屋不多。例如军统局在我回广州时接管了汪精卫在沙面的官邸,移交给司令部时开具了一份完整的清单,包括家具、设备、油画等。我平时嗜好收藏砚台,汪公馆存着好多。我留了些给自己,赠送司令部里每位师长一个砚台。当然,接收房屋要给军统局开收据,然后将此豪宅及其附属物品移交给接管委员会。后来这座豪宅充作广州行营招待所,我的家属在此住过。我留作官邸,因离司令部很近。
  中统局接收了一些重要企业,要求中央把产权划归局方。我没有插手这些事务。中统局没有插手肃奸工作。
  陈策任广州市长仅几个月,绩效不彰。他要求蒋先生派何世礼继任,但中央党部秘书长吴铁城属意他的亲信欧阳驹,于是欧阳驹继任市长。欧阳驹比陈策坚定果敢。他告诉我,党政军机关不按章缴付水电费,民众称之为用“霸王电”、“霸王水”。他说,只有我的司令部是按月缴付水电费的。于是我督导所有机关按时缴付水电费。
  我不得不承认,胜利冲昏了人们的头脑,他们疯了。国民党的接收无一例外,汤恩伯治下的上海,情况更加恶劣。
  一开始,我就惩处了下属中的贪污犯。9月30日,我下令将梁逸飞停职候查,因为他瞒报了一笔轮胎账目,同案一名文姓男子牵涉此案被捕。最大一宗贪污案是军政部广州特派员莫与硕犯下的,他负责接收广东的军用物品,竟把其中一部分装备卖给了珠江三角洲的土匪头子高根。此案的暴露是因为土匪内部分赃不匀,他们内部有人向我们举报,还引领我们去观看为窝藏赃物而特地修建的房子,一部分盗卖的军用设备被隐藏在墙壁中。若不是此人举报,我们永远也不会知道。我派一个营包围了这伙土匪,夺回了这批军品,其中包括几千支步枪,还有机关枪、弹药、车辆等。10月19日,高根匪帮二十多名成员被俘。
  我曾讯问田中久一,为什么这批枪械没有被列入投降后移交的清单,他答这一批军品从日本启运,到广州时已是日本投降前夕,连货箱都未打开验收。他说如他把所有物资都列入清单,他要承担很大风险,所以开具清单时只列明百分之八九十的日本军品库存量。他深谙中国官场的腐败情况。
  我据实向中央申报。莫与硕当时去了南京,中央找他时发现他去了上海。他在上海被捕,旋即押回南京转送广州。我奉命监视他,遂交宪兵看管。宪兵见莫与硕是黄埔一期及军政部特派员,就让他自由活动,只是贴身陪伴。有一天我在飞机场看到他,当即斥责他。他说,他还拥有一批军品尚未登录日本人提供的移交清单,请示我如何处置,这批货包含当时价格昂贵的汽油。我说:“你确实该死!你为何不呈报军政部?”他沉默不言。我叫宪兵把他交给特务团。

  一个星期六的早晨,一名中央的高级军法官持蒋先生亲撰的处决手令来见我,他说:这是件重案,莫与硕必须立即处决。我说,军法处尚未接到这一命令,而且莫案尚未审讯。然而他找到二方面军的军法处长吴仲禧,当天下午就开庭审判,按规矩我们星期六是休班的。他们向莫与硕出示蒋先生亲撰手令,莫与硕阅后表现得很平静。我通知他的妻子立刻前来见最后一面,当天他就被枪决了。在张发奎麾下做过二方面军参谋长的谢膺白在他发表于《政协文史资料选辑》的回忆录中说:“张发奎枪毙田中久一与莫与硕李节文都是蒋介石所极端不高兴的……日本投降后未杀过一个日本战犯(按:这也不确,在中国审讯枪决的日本战犯为数不少)。莫与硕李节文是黄埔一、二期学生,蒋介石的嫡系死党,无论如何要代为掩护……张发奎屡次电请枪决,均置不复;张发奎到京开会请示蒋,蒋借故避而不谈,陈诚何应钦与莫李二人均有师生部属关系,也代二人极力洗刷。最后要张发奎将莫李二人解京讯办,实欲乘机开脱。张发奎想出一条计策,诡称莫李二人在解京途中突然逃脱拒捕,因而被押解卫兵乱枪击毙,电发,蒋介石大怒……”然而,从张发奎口述自传可知,枪毙田中久一是经过中央二审定谳(且有美国人参加会审)后维持原判押回广州处决的;而枪决莫李二人则是蒋介石亲自下手令让军法总署派大员南下监刑的。
  广东省政府主席罗卓英责怪我执行前不通知他,莫与硕曾在罗卓英的十八军任过旅长。我担任闽赣浙皖边区总司令时认识莫,当时十八军归我指挥。甚至连陈诚都因为莫与硕案对我不满。莫与硕的黄埔同学、特派员广州办公厅主任李节文也受审,同时被枪决,这是广东省最大的一宗贪污案。
  我也负责广西的接收工作,但可做的事很少。日本投降时,敌军已撤出广西。日本占领广西是1939年至1940年以及1944年至1945年,为时甚短,敌军无所作为。譬如,两次沦陷期间,南宁的学校都没有重开。我们只需要处置为数不多的汉奸。
  我同英方有着密切与友好的接触。9月20日,英国太平洋舰队司令福拉塞上将到广州作亲善访问,驻港英军司令菲斯丁将军也到访多次,我个人对他俩十分友善。港英政府要求我派人以联络官身份常驻香港,我派旅美华侨骆来添出任。
  9月28日,我派遣一个宪兵排去香港,因为当时日军第十三军奉命集中在九龙塘等候美国轮船接载他们去大连,有些日军士兵不守军纪。菲斯丁将军十分合作,他对香港军管总督夏悫上将说,倘若派香港警察去逮捕违纪日军殊不适当,建议派国军宪兵前往。我派何世礼去香港同英国人磋商。接着夏悫上将也来穗拜访我,当我依礼到香港回访时,我见到中国军队根据口头协议,在街头执勤。我住在港督府。福拉塞上将邀我去他的旗舰出席午宴。
  军政部派潘华国中将赴香港负责接收英方移交的一批军品,他的助手是莫与硕、周雁宾与余兆麒。后者是军统局所派,他享有少将待遇,但不是军人。
  过了不久,中央命令我逮捕余兆麒,中央指他招摇与滥用权力。在战前他为中华民国驻古巴公使张惠长担任秘书时我就认识他。我告诉港府,将余引渡回穗。李宗仁白崇禧打电报给我要求保释,我说本人只不过是执行中央的命令,无权释放他。两周后,中央让我释放他。
  在澳门事务上,葡萄牙对我们十分友善,我派作战处情报部前主任潘奋南去担任我的行营驻澳联络专员,他也被授权接管敌伪在澳门的财产,我们把一批汉奸引渡回广州。不久我下令逮捕潘奋南,但由于贪污证据不足,他被囚禁短时期就获释了。
  我想收回澳门。胜利后我首次回重庆报告广东接收工作时,我向蒋先生、张群等人建议收回澳门。我一贯痛恨烟赌。我告诉蒋先生,只要切断大陆对澳门的供水,我就能和平收回澳门,只要一个营的部队就可以维持当地治安,我将为我的行动负全部责任。
  张群反对我的提议,蒋先生说我想得太简单了:“收回澳门是任何时间都可办到的,可是香港……你能拿回香港吗? 如果你决定同葡萄牙人打仗,你必须考虑英国人的反应,你也得准备同英国人打仗。再者,美国人会反对你,这一切都会导致严重后果。”我后来思忖,蒋先生是对的,我考虑并不周全,我的脑筋实在太简单。1946年4月4日,澳门总督伊海杜上校到广州拜访我,我没回访。

  我坚持要去海南,同许多人谈及过这一意愿。战后我第一次去重庆见蒋先生时,就提出这一议题。蒋先生说,他赞同我的愿望,但时机尚未成熟,他要我首先在广州做好本分工作。何应钦到广州时,我又提起海南。事实上,我与何应钦、宋子文一起访问了海南,后者是海南文昌县人。1945年10月26日,张发奎致函宋子文,希望宋帮助他去海南从事开发,也希望宋南来。11月9日,宋复函说,当地的地方绥靖与恢复秩序比抗战更为艰难,他答应在建设开始时帮助张达成这一心愿。我想起一件有趣的事。我带了几位高级同事同行,包括李汉冲与甘丽初。宋子文带了他的秘书与一位姓陈的随员。我们搭乘军用货机,座椅设在机舱两旁。为了让宋子文坐舒服一些,我们带了一把椅子。可是宋子文习惯了摆官僚架子,他自己带了一张帆布床放在机舱中间。当他的随员用跪姿呈给他一封电报时,他正穿着衬裤躺在帆布床上,竟用脚趾头接电报。

  我们都被这一侮辱行为激怒了,李汉冲向我提议:我们一起上去打他。他侮辱了高级将领:我是上将,李汉冲是少将,甘丽初是中将,余皆少将。那个随员是政府文官,他本不该给宋子文递信。旧时曾国藩被批评洗脚时见客。宋子文此举无疑侮辱了所有坐在机舱两旁的将官,但我阻止李汉冲动手。由于宋子文的官僚习气,我对他印象很坏。宋子文到访广州期间不想被打扰,拒绝开会与见客。但我们还是一起视察了新一军,这是战前他将广东省盐务管理局缉私总队改编成军的,他对新一军极为满意。
  不久,新一军移师北上,不少军官眷属拒绝随军,原因很复杂,因为有些军官把钱都交给了他们的妻子。这些妻子中有些是酒家女侍。由于日本占领的影响,广州流行女侍陋习。有些新一军军官积攒些钱老是跑酒家。他们见到这些年轻的女侍穿着漂亮的衣服就想迎娶,其中许多女侍不是正经女人。她们嫁给外省籍军官是贪图他们英俊与多金。
  我们不能阻止这类婚姻。我对新一军军长孙立人与三十八师师长李鸿说,要提醒下属小心。孙立人是留美学生,认为并非所有女侍都是不正经女人,有些还是不错的。我要他保持警惕,毕竟我是广东人,比他清楚得多。我自己当然从来不去酒家,人们也不敢邀我去这类场所;我在这类场所出现时宪兵会贴身保护我,会造成业者不便。当然我会去酒家出席婚礼,譬如徐景唐的儿子娶亲,以及诸如此类的庆典。
  五十四军从南宁调来广东接替新一军的防务,驻扎在广州及其周围地区,军部设在沙面,军长阙汉骞是一位书法家,他送了我一副条幅。
  我同军统局的关系与战时一样,郑鹤影负责军统在广东的活动,他尊重我。
  我是三民主义青年团广东分团主任,广州行营政治部主任黄珍吾兼任三青团广东分团总干事,我出席过两次他主持的三青团会议。
  我同国民党内CC系的关系没有大问题,没有利益冲突,相安无事。当然,CC系在广东实力很强。在战时,省政府主席李汉魂兼任省党部主委。胜利后,CC系的余锦贤当上广州市党部主委。我同CC系在安排广东省人事方面无大歧见,CC系当然会推荐人事,但那与我无关,那是广东省政府的职责。
  我记不起广州的中统负责人姓名了。无论如何,中统局不需要直接接触我。有需要时,我会同省党部联络,他们毕竟是CC操控着的。
  中央党部指定我监察广东省党部的选举,134人投了票,余锦贤以全票当选。见此结果,我当着众人对他说:“余主席,如果你在134人中得133票更加合理。”他说他已劝告一些人,不要投他的票,我说:“但你为什么投自己一票呢?”他不能回答。
  说到国民党的贪污问题,真的三天三夜也讲不完。在抗战期间由于敌人的出现,情况比较缓和。战后政府机关都在贪污,正如我所说,接收成了“劫”收。党政机构每一个层级都贪污。我真的拣不出任何干净的层级。广东省太大了,不可能把那么多县长都严格控制住,所以我想去海南。
  接收这个历史任务虽已完成,可是整理受降后繁杂的任务,却令人感到不快。这固然因胜利的突然来临,使我们在时间仓促中不能预作详细周密的准备。而我们行政方面之低能与社会人心之腐败,也于胜利后不久之际,全部暴露无遗了。社会秩序的混乱,奸莠乘机抢掠,加上接收情形的紊乱,和浑水摸鱼的贪污罪行,真令我感到我们虽赢得了胜利,但我们先哲遗下来的羞耻观念,却已荡然无存了。
  我先谈接收的事情,这是战后行政的最大污点。首先是中央对于接收问题,根本没有全盘计划。凡接收机关的派遣,接收部门的分类,接收物资的处理,都没有明确的规定。如当我成立接收委员会时,中央仅派有军政部、交通部、财政部、中宣部和航空委员会的特派员到来,至于其他中央各部门有无派遣人员,及应接收何物,均无指示。但事隔月余,经济部、农林部、教育部、社会部、海军部等特派接收人员又陆续到来:如海军的船艇就须由军政部的特派员再行移交于海军部的接收员;有国营性的生产工业,就须再移交经济部的接收人员。甲移交乙、乙移交丙,其中损失和舞弊情事,就不难想象了。其次则物资之分类又没有详确规定,如通讯器材,究竟属于军政部,抑属于交通部?军用的化学工厂,究属于军政部,抑属于经济部?凡此均引起了接收工作不少的纠纷。接收委员会最初虽有一个概要的规定,但因中央各部门的步骤紊乱,竟无法顺利进行其工作。这些都是当时行政院应该负的责任。
  多数接收人员的低能和贪污,更直接造成了接收工作的混乱。接收人员,为个人打算的多,为国家设想的少;藏匿埋没,折扣报销,贵贱调换,敲诈勒索,层出不穷。结果发财是私人,吃亏是国家,军政部特派员莫与硕和他的办公厅主任李节文的正法,亦不足以转变此种风气。    发“胜利财”与“劫收”的名词,竟在这个时候添入了“辞典”。于是,人民由希望的高峰跌进了失望的深渊。胜利的光荣,也因此而黯淡褪色了!
  共产党员仍在行营服务,副官处的科长左洪涛就是共产党。剧宣队在那时解散,原先的共产党员只留下十来个,我亲自给他们安排工作。例如,我任命何家槐任行营秘书,我把其他人安插在第四军同事经营的怀远出版社,有些人担任誊抄、归档、译电码工作。
  为什么当我出动部队“清剿”曾生部共军时,却在行营留用共产党员?我把党与个人区别看待,我善用人才,所有这些共产党员,包括左洪涛,都只是担任低职。“清剿”曾生是由于他抗命。
  1946年3月7日,我荣获青天白日勋章。这之前发生了一件事:一天晚上,俞飞鹏在重庆邀请我、陈诚、顾祝同、蒋鼎文等人午餐,共有十五名高级将领出席。饭后,我们要求陈诚询问蒋先生,为什么我们得不到青天白日勋章。他说:“好,我会向蒋先生说。”就这样,不久以后,所有赴宴的将领都得到了青天白日勋章。
  我认为这是最珍贵的两枚勋章之一,另一枚是铁十字勋章。青天白日勋章必须由蒋先生特准,所以获颁的军人比较少。当然,蒋先生自己也获颁过。在抗战期间,他经常佩戴青天白日勋章。

     (关岭 编辑)
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「张发奎口述史:亲临广州日军投降仪式」 1

2018年05月08日 | 海南島史研究
http://history.dwnews.com/news/2015-08-12/59673823.html
「多维新闻」2015-08-12 05:41:32 多维历史
■张发奎口述史:亲临广州日军投降仪式
【多维历史】1945年8月15日,日本天皇发布停战诏书,向同盟国宣布无条件投降。获得日本政府无条件投降消息后,陆军总长何应钦根据蒋介石的指示发布命令,将中国战区划分为16个受降区,并规定了各区的受降官、指挥部队、受降地点、日军投降代表等情况。广州、香港、雷州半岛及海南岛划为第二受降区,该区由第二方面军司令官张发奎为受降主官。9月16日,受降仪式在广州中山纪念堂举行。张发奎在自己口述的回忆录《张发奎口述自传》中讲述了亲临受降现场的珍贵经历。
  
【相片】芷江洽降结束后,中国高级将领与中国战区美军作战司令部参谋长柏德纳一起交谈。左起:王耀武、卢汉、张发奎、何应钦、汤恩伯、杜聿明、萧毅肃、柏德纳

  8月21日,我和鲍曼、李汉冲飞抵芷江。到埠后,我们得悉日本驻华派遣军总司令冈村宁次大将的代表今井武夫马上就到。所以我们决定在机场等候。不久,我们看到今井的座机出现了。飞机两翼末端缠着白布条表示是来投降的,伴随着两架中国空军飞机执行监视任务。今井在机舱口露面,腰间仍佩着剑。
  那天晚上,何应钦召集四个方面军的司令官讨论受降细节,次日继续讨论。8月23日中国战区中国陆军总司令何应钦上将接见今井,在场的有美军麦克镠少将、中国战区陆军总司令部参谋长萧毅肃等人。我和其他三位司令官在邻室目睹了全过程。今井一进门就向何应钦鞠躬。何应钦彬彬有礼,起立走过去同今井握手。
  这是受降与接收工作的开始。今井武夫在22日上午洽降典礼举行时,呈献了日军驻中国(包括台湾)及北纬16度以北越南区内所有日军的战斗序列、兵力位置及指挥系统区分等各种图表,并接受何总司令授予的第一号备忘录。该备忘录指示日军投降应行准备的事项。乞降代表们,在一种不安和惶恐的表情之下,俯首帖耳地表示他们的服从。
  从乞降代表携来的一束资料中,我不但明了了敌人在中国的全般兵力部署——海陆空三军官兵总数仍有109万人,而且很详细地明了了广东方面敌人的第二十三军辖有一○四、一七九、一三○师和八、十三、二十二、二十三四个独立旅团及海南岛与香港的防卫部队,总兵力1373万余人。再从它们防御广州之部署与阵地各种设备,令我当时咋舌大惊。如果我进攻广州行动在其未投降以前实施,诚不知需费如何的心力和牺牲多少生命。在这里我感觉到敌人虽失败了,但它们军队的战斗精神和强韧不屈的情绪,以及井然不乱的纪律,依然是值得重视的。
  今井离开后,方面军司令官们、行政院代表等人讨论了受降事项。何应钦要我去接受广东省——包括海南岛与香港的日军投降。(虽然蒋先生不信任我,自1927年以来他就一直不信任我,但他还是要利用我。)鉴于广东省的重要战略地位,美国人坚持要我去受降,蒋先生接受了他们的意见。
  我知道是美国人要求让我去广州受降的,这是麦克镠告诉我的,他也到了芷江。我相信麦克镠说的是真话。(中央原来不想让我去广州,原定指派对中央非常忠诚顺服的余汉谋,蒋先生与何应钦都对余恩宠有加。)事实上,无论从公理与私情,余汉谋都应该被委派去广州受降。毕竟他的战区在广东,他还兼任广东绥署主任。但是,他被完全排除在广东日军投降仪式之外。(我相信美国人讨厌他,他们对他印象欠佳,是基于以下事实:他从未打过胜仗——正如我已说过,“粤北大捷”不是一场真实的胜仗。美国人自然对我印象良好。)(我相信美国人掌握中国战区15个受降区受降主官的人事决定权。我知道,美国人对薛岳的印象也欠佳。)作为九战区司令长官,薛岳理应被指定出任长沙受降区受降主官,但这一职位被第四方面军司令官王耀武取代了。薛岳被派到江西受降,那儿敌军数量很少。第一方面军司令官汤恩伯被指派去上海受降,他的部队空运到了沪滨。按理说,三战区司令长官顾祝同应该主持上海受降。第一方面军司令官卢汉被指派去主持北纬16度以北印度支那地区的受降。这样,四个方面军的司令官都担任了受降主官。
  我不想回广州,原因实在难于启齿。自从广州暴动与我在政坛受挫后,我一直不愿再回广州服务。1929年我打回广州,当时我想打下广州建立革命基地,但现在是和平时期。我不想去广州还有一个原因。我曾猜忖,基于我对越南革命所付出的努力,中央会派我去印支受降。我想继续同越南华侨保持密切联系。再者,我觉得到外国去接受敌军投降是一件更荣耀的事。我对何应钦说,我不想去广州,我自信能帮助越南革命。他说,是蒋先生要我去广州的。

(期望纠正这一尴尬局面,我要求何应钦指派余汉谋去惠州以东受降,我必须给他一小块属地去主持敌军的投降仪式,必须给他一点面子。中央接受我的建议。)于是,中央改动了指令,我主持惠州以东地区之外的广东日军投降典礼。余汉谋在汕头受降,然而那里只有一个旅的日军。

  8月24日,我回到南宁就召集会议讨论接受日军第二十三军司令官田中久一中将投降事宜。我计划在南宁主持受降典礼。命令田中派代表前来,依照冈村宁次的先例,签署一份投降指令。选择在南宁是为了显示我们的军威。我们要传召战败国将官来南宁投降,像芷江那样行礼如仪。
  我决定派新一军先去广州。鲍曼首先告诉我派新一军先去,何应钦随后才打电报给我。可是,即使他不吭声,我自己也会派新一军先行。虽然该军所含广东部队甚少,但其装备精良。士兵们干净、整洁,全都穿了胶鞋。我们要向广州市民与日本人显露新一军的军威。再者,新一军的驻地便于沿珠江前往广州。石觉率领的中央嫡系十三军跟着新一军去了广州,它原本是我们派去南宁参加反攻之役的。新一军负责维持广州的秩序,十三军负责维持广州郊区,例如石牌和九广铁路沿线的秩序。
  在新一军到达之前,日军在广州维持治安。新一军到达后,日军集中到河(珠江)南与石围塘,它仍被允许暂时保存步枪与轻机枪,其他重型武器便移交给新一军。
  我派邓龙光去粤西南受降。他率领四十六军及地方部队,四十六军一部分去了海南岛。张发奎命令日军派船把四十六军(减一个师)运到海南岛海口(详见9月29日日记)。我命令六十四军进驻四邑,那儿没有敌军。
  我把六十二军移交给卢汉,也把原本由我管辖的越南革命同盟会与四战区外事处移交给他。外事局副局长萧文去了印度支那。滞留广西的越南革命同盟会成员与特训班成员也同时进入越南。
  我同邓龙光吵了一场见8月28日、29日日记。,事因我派参事黄品梅去粤西南调查现况(我知道他是军统人员),他同邓龙光的弟弟、茂名军警联合指挥部副主任邓鄂相处不好,后者指摘黄自吹自擂,我猜想黄有点骄矜。邓龙光扣押了黄,我叫邓放了他。邓龙光从廉江回南宁后,我告诉他,他无权扣押黄。他说:“我是副司令官!”我告诉他,副司令官也无权扣押黄,他只能由我授权执行命令。邓龙光提出辞呈,我当然不同意,结果我俩不欢而散。翌日,他找我致歉,我拍拍他的膊头说:“忘记这件事,我们饮一杯!”
  8月30日我到昆明,何应钦告诉我,蒋先生同意英国人在香港受降,海军上将布鲁斯·福拉塞担任受降主官。香港是一个重要城市,英国人反对由我接受驻港日军的投降,并要求美国人向蒋先生游说。他们想要我们给他们一点面子,让他们在香港受降,但他们同意将日军所有装备移交给我们,由中央派人去接收那些装备。蒋先生同意了。对允许英国人在香港受降,我感到,我们不应该同意这一更改,我们不应屈服于美国的压力。
  对于香港受降任务,我感到特别兴奋。香港在国人心目中是一个国耻与创伤。在过去,它是罪犯的避风港、资本家官僚们的乐园。广东风气的败坏,以及广东政治的商业买办化,多直接间接受香港的影响。盟军最高统帅部首先划定香港地区归中国接收,根据战后领土主权完整及民族愿望的观点,是有充分理由的。英国政府借此时机将香港归还中国,未尝不是外交上明智之举。
  但唐宁街的绅士们却见不及此,致使中英邦交在战后仅保留着一种黯淡的友谊。在德黑兰会议后,罗斯福总统本来想使香港归还中国,并使之成为一个自由港,波茨坦会议对香港战后的地位,亦有同样的建议,但均受英国政府的反对。中国接收香港的规定,遂因之而中变。
  9月1日,我回到南宁。我派刘光凯到广州送备忘录给田中。我原定于9月3日在南宁举行正式受降仪式,使该方自由地区的人民,得到一种八年抗战所受苦难之慰藉,随后奉陆军总部命令,改在广州为正式受降地点。因此,特先组设广州前进指挥所,担任传达本部命令,并令中将高级参谋张励为主任,率领官兵百余人于9月6日乘盟机八架由南宁飞广州,作为我的全权代表,负责广州的一切事务。
  当飞机起飞时,南宁民众不下万人围集机场,欢送他们东飞。在南宁市政移交工作完成前,我不能赴穗。此时,已被任命为广州市长的陈策已经抵穗,他派了一位代表到南宁来见我,那就是后勤部中将副司令何世礼,他是陪同美国人进入华南沦陷区的第一位国军将领。
  我知道军统局会派人去广州,但不知道派谁去,也不知道他做了些什么。
  遵照何应钦的命令,我们于9月8日决定在抵达广州的翌日同美国人一起举行日军受降典礼。陆军总司令部指定在广州受降而非南宁,自然有它的理由。广州是一个大城市,也是敌军的一个重要枢纽。此时新一军与第十三军已经开抵广州。
  9月10日,我奉蒋先生之命,兼任军委会委员长广州行营主任(正式签署命令的日期是9月17日)。于是我成了蒋先生在广州的代表,邓龙光兼任行营副主任,另一位副司令官夏威留在广西。广州行营主任掌管广东广西两省党政军大权。罗卓英被任命为广东省政府主席,黄旭初留任广西省主席,余俊贤任广东省党部主任委员。
  我不想当这个行营主任,想去海南。自1926年攻占海南以来,我一直期望它有灿烂的前景。在战时,我思忖过胜利以后做什么营生,决心去开发海南,它极具战略价值。我把台湾与海南视为龙的双眼。倘若只注重台湾,那么龙就成了独眼动物。

  海南是一个比较小的地方,只有十五个县、三百多万人口,故其政治形势比较单纯。我认为,物色几位优秀、廉洁的县长是比较容易的。当地气候属于亚热带,土地肥沃,每年三熟。日本人在那儿建立了采矿工业基础,岛上有一个优质港口榆林。简言之,海南地广人稀。我相信,在几年勤奋努力之后,会有丰硕成果。我同许多人讨论过开发海南的意愿,其中包括有兴趣在中国投资工业建设的美国与南洋华侨。我觉得我们应该一起为海南做些事,他们也都对这一意愿表示热情支持。

  战争一结束,我就要求中央派我去海南。8月21日,张发奎致军政部部长陈诚电报,要求把他的建议转呈蒋介石与行政院院长宋子文。我建议将海南划为直属中央的特区,就像当年把香山县改组为中山县,直属于中央政府,由民国第一任内阁总理唐绍仪任县长。在芷江时,我抓住机会同何应钦谈及海南,我希望他向蒋先生与宋子文游说,让我去海南。但是中央告诉我,去海南时机尚未成熟,在广州还有重任需要我去执行。陈诚致张发奎电报于9月15日收到。

  9月15日,美国后勤司令奥朗特少将乘专机来南宁护送我去广州,鲍曼、我的参谋长甘丽初等人陪伴我同行。新一军军长孙立人等在机场迎接。鲍曼与我乘坐吉普车进入市区街道,那里挤满了欢呼欣喜的民众,街口搭建了彩牌楼,爆竹不停鸣放。我重回广州成为一件壮观的大事。广州市民以极大的热情迎接我凯旋归来。据张发奎生前亲撰的《抗日战争回忆记》所述:“当我获知受降各部队依次到达指定地点,新一军亦已确定接防广州之后,我于九月十五日上午,率同主要幕僚乘机飞广州主持受降,我与广州别离十五年的悠久岁月,这一次载着胜利之冠荣归故乡,虽无画锦堂记中所描写的心情,但亦不禁感慨万千了。尤其当我的座机翱翔于穗市晴空的时候,俯视白云珠海,念兹一片锦绣山河,和数百万中华儿女们的久受敌人的蹂躏,更令我心头涌起了无限的伤感。飞机在市空盘旋两周才缓缓地降落。我接受了欢迎人员的热烈欢呼,检阅了欢迎行列及仪队后,即率领新一军的部队,举行广州进军的盛大仪式。汽车纵列、骑兵部队和全副美武装备的步兵,以雄壮威武的姿态,通过了庄严而辉煌的凯旋门,巡行了市区的主要街道。当时我和鲍曼将军以同盟国并肩作战的象征,站在吉普车上,沿途受到全市夹道欢迎的民众的欢呼,国旗凌空飘扬,爆竹之声,不但激动了我的情感,而鲍曼将军也在被这东方式的热情所激荡,认为(这是)毕生第一次的愉快和光荣。”
  我们遇见坐着日本兵的卡车,他们停车向我敬礼。他们没有被解除武装,无疑,他们是奉田中久一的命令在街上维持秩序。
  当晚我见到了一些前进指挥所的成员,他们安排我入住日本显要居住的宾馆,这就成了我在广州的官邸。
  翌日,我们在中山纪念堂举行受降仪式。我坐在正中,两旁是鲍曼与甘丽初。田中久一中将没有佩剑,他与其参谋长富田少将,海南岛日军指挥官代表肥后大佐等三人,首先步入礼堂向我鞠躬致敬,挺直地立在我的面前,很沮丧阴沉地聆听我下达命令,继而战栗地签署了降书。站在面前的敌酋,他们的内心是悔悟,抑或是愤恨,我固然无从推知,但我看到的,是玩火者的悲哀,玩火者的收场。作为第二方面军司令官,我向田中下达第一号命令,他签了收条,保证遵守一切命令与指示。
  郑鹤影来看我,他是军统广州站负责人,我认识他,他是郑介民的族人,在军统局很有权势。他告诉我,赶在结束战争状态之前,军统就派他来广州接触汪伪政府与伪军高层,那些家伙正密谋叛乱。日本无条件投降后,军统局就逮捕了汪精卫之妻陈璧君与伪广东省主席褚民谊,把他们送到一个秘密地点。其他伪府要员,包括省建设厅长李荫南、省府秘书长周应湘、财政厅长汪宗准和何文灿都已被捕。
  9月17日,我接见田中久一。不像何应钦,田中进门时我没有动弹,只是叫他坐下。他看上去尊严犹存。从他的外表、举止与谈吐,我立刻察觉到这是一个和气、有修养、温文尔雅的人,一点儿也不残忍。但由于日军的残暴,广州市民自然痛恨他,然而此时市民没机会见到他。
  田中久一是个好人。我用“好人”这个词是什么意思?他告诉我别担心,说他是一个佛教徒,他能向我明确保证,不会逃跑也不会做任何出轨的事,
  陈宝仓意即不会自杀。他保证服从我的命令,尽到责任约束他的部下。
  9月28日,我下令禁止流通伪中央储备银行发行的储备券,我必须在中央厘定伪币与国家货币法币之间的换算比率前采取这一措施。让伪币保持流通,那毕竟是不合理的,没有一个国家会允许战败的敌人或傀儡政权的货币继续流通。我的行动是正确的,但是人们,甚至人力车夫都反对我。对已经连续使用伪币好几年的市民来说,那确实是一个难受的时刻。他们很不高兴,迁怒于我。我听到他们说:“点错炮仗鼓错掌!我们不应该欢迎张发奎!”但我别无选择。几天后,中央决定了兑换比率。二百伪币兑换一元法币,我感到政府在接收敌占城市之前,没有谨慎地研究经济状况,太过低估了伪币。
  我没有为广州行营设立单独的机关。行营一切事务都由第二方面军司令部代行。甘丽初留任参谋长,陈诚调我的副参谋长陈宝仓去负责华北一个兵站抗战胜利后,陈宝仓奉命接收胶济区,任联勤总部第四兵站总监。在兵站结束时被控贪污,就此成了无职军官。1947年由潜伏在四战区任军法总监的中共地下党员吴仲禧策反,1949年奉命赴台潜伏,因吴石案而暴露,于1950年6月10日在台北被杀害。,华振中接任副参谋长。他是我的同学,也是始兴同乡,曾在十九路军服务,后来在十二集团军,隶属余汉谋。而后在薛岳的九战区,当薛岳不再想留他时,我让他来广州。缪培南任我辖区的联勤总司令部第三补给区司令。黄埔一期的黄珍吾任二方面军政治部主任。
  10月2日,国府主席蒋中正与行政院院长宋子文签署了我晋升二级上将的授衔令。我在柳州时就获悉此事。同时晋升二级上将的有薛岳,余汉谋则是加上将衔,至1946年6月才实授二级上将。
  我们迁回广州后,鲍曼将军参加了我们一些会议,但不再起积极作用。1945年10月他离开广州。他把他的双筒望远镜与左轮手枪送给我留作纪念,我送他一些象牙作为告别礼物。
  我的首要任务是解除日军武装。正如田中久一所说,他已对士兵保持严格的管控,所以缴械过程十分顺利与迅速。解除日军武装自9月24日开始,月底结束。事实上他们自己遵从田中的命令缴出武器,再把装备移交给我们。自此,我们就视日军官兵为战俘了,他们被押入集中营。所谓集中营就是普通的房屋。我们简单地把日军战俘集中到一个地区,然后围上铁丝网。原居民暂时迁离。原来的营房,譬如黄埔军校旧址,当然可以暂时使用一下。
  我任命廖鸣欧为战俘管理委员会主任。他是东江地区兴宁的客家人,曾在第四军薛岳部任职。(当薛岳不要他时,)我收留他在百色的司令部充任参议。
  日本战俘保留他们的军事组织。由于我们没有适当的营房供他们居住,就不得不准许他们如此。有时五个或十个战俘合住一间普通的房舍。他们服从田中的命令,严守纪律,这一习惯源于良好的军事训练。然而,不久前他们还是穷凶极恶伤天害理,以征服者的姿态胡作非为。政治部每周一次派人向他们训话,这类“精神讲话”就是政训。日俘们为了显示他们的诚意,自愿在我的司令部修建了一座礼堂。每天我目睹他们整列走过,看上去行为良好,彬彬有礼,其中有些人是工兵专家,他们干得很出色。
  民众对待日俘态度极好。有时我们派他们外出扫街,民众都不敢碰他们一下。
  
  日本军民被安置到单独的集中营,我们对待他们像战俘一样。朝鲜人与台湾人——无论是平民抑或军人——都没有被关入封闭式集中营。当我奉命受降时,我决定不视他们为战俘。虽然台湾、朝鲜士兵违反军纪时比日本兵更加凶残,我还是决定对他们宽大。台湾人毕竟是我们的同胞。朝鲜人固然不是同胞,但他们已经被日本人奴役了好几十年。

  在日军中,台湾人与朝鲜人多数充任低级军官——中尉,日本人不会让他们晋升较高职位。我对待朝鲜人台湾人与对待日本人就有此基本差别。日本人进中国是侵略,而朝鲜人台湾人是被日本人奴役,所以值得我们同情。日本人待朝鲜人台湾人像对待中国人一样,摆出征服者的架势。无论他们作什么罪孽,他们都不知道反思。虽然日本人对中国犯下弥天大罪,我们仍要原宥他们。虽然有些民众咒骂日本人,甚至凶过日本人,这是日本人咎由自取。

  我执行宽大政策是我自己决定并报告中央,请求批准,中央同意了。我把所有的朝鲜人——平民与军人——都集中在一起。我把新一军的朝鲜族军官崔德新调出来,专门负责集中营的朝鲜人。换言之,我允许他们自治,从未派人去监视他们,也没有用铁丝网封闭他们,崔氏近年担任韩国外交部长,刻正出使联邦德国。我以同样方式对待台湾人,我指定一位台湾人负责,他的名字不记得了。台湾人与朝鲜人不多,各几百人。我们把财产归还给他们,但在广东,数量并不太大。

  我们怎样处置战争罪犯?当民众向司令部检举某些日本士兵、军官或部队长在当地犯下暴行时,我们立即执行逮捕。在某些案例,没有人举报我们就执行逮捕。例如,我们逮捕了肥后大佐,但没人控告他,于是他获释,被当作战俘而非战犯。

  事实上我们逮捕的战犯很少,他们被关押在一个地方。田中久一得到特殊待遇,我们确实优待他。他是中将军衔,我们让他住在河(今珠江)南集中营的一座房屋,由宪兵看守,一名来自台湾的客家人充当翻译,陪伴着他。

  我见过田中好多次,有时我想问他一些事或者要他做某些事。10月下半月何应钦到广州时,他想在我的司令部见田中,他俩会面时我在场。田中进门时,何应钦起立。田中是个好人,但他的部下军纪很坏,积案甚多,例如日本兵向中国无辜民众鼻孔灌水致死,这些暴行都有照片为证。广州开庭审讯田中时,他辩称并未下令作恶。田中不是一个残忍无道的人,不像酒井隆在香港下令集体屠杀。然而,田中必须为他下属的灭绝人性行径负责,死有余辜。军队的事是很难说的。当统率许多官兵时,你不能保证无人违反军纪。田中统领十几万人,包括日军驻香港部队,他控制不了部下杀人强奸。几名日本将领因日军滔天暴行而被处决。1947年5月12日,日寇陆军少将旅团长平野仪一与驻市桥分队长五十岗孙三郎在广州被处决。

  有一次去南京,我路过冈村宁次的住宅,他获准留在日本投降前他所住的豪宅中,唯一区别是他由中国宪兵监护。我认为不该待他太好,至少要叫他搬到小房子去住。

  战犯由司令部军法处审讯。我们向中央请示,中央答复采取宽大政策,我们甚至释放了田中的参谋长富田直亮1949年9月,获国防部军事法庭宣告无罪开释回国的侵华日军总司令冈村宁次,在日本招募日籍军官组成军事顾问团来华协助军训,该团团长就是前华南派遣军参谋长富田直亮,他化名“白鸿亮”于11月赴台,设立圆山军官训练团,对国民党军队中上级军官作短期的战术训练,讲述战争哲学及登陆作战等实务,蒋介石还亲自到场旁听。1951年,蒋介石决定增聘日本教官50人,扩展训练规模;另外建立一支名为中山师的半机械化模范部队,另聘日本教官46人,人事费用年耗26万美金。这支部队后来编为第三十二师。直至60年代才结束。,他与其他战俘一起被遣送回日本。

  田中久一上法庭受审许多次,最终判处死刑。然后他作为国际战犯被押送到上海。美国人要求把他押到上海由美国军法官与中央指派的法官组成合议庭审讯。结果,再度被判死刑,送回广州执行,因为他是侵占广东的日军首领。他被处决时我在南京。后来我听说,他处决前被五花大绑站在敞篷卡车上游街示众。为此,我训斥了我的参谋长甘丽初。如果我在广州,我一定将他关在密闭囚车中押往刑场。

  没有任何台湾人或朝鲜人受审,正如我说,我们并不视他们为战俘,遑论战犯。这并不意味着他们无人犯下暴行,可是他们都是普通士兵或低级军官。许多美国人参与日本战俘等的遣返工作,他们都住在西方人聚居的沙面。当美国轮船开抵时,我让朝鲜人先离开,然后是台湾人,最后才是日本人。遣返工作持续了比较短的时间,1946年4月25日宣告完竣。

轴心国的国民中我只拘捕了一个德国人奥多医生,他在中国住了很久,是个纳粹党人。我见过他。我们掌有证据他参与政治活动。他的医疗设备被没收,后来被遣返回德国。我没有拘捕意大利人,许多意大利神甫来拜访我,他们害怕国军进驻教堂。

  我记不得有关盟国国民被日本人囚禁的案例,我想就是有也不会多。

  根据中央的命令,在国军到达之前,政府指定伪军的正规部队为“先遣队”,就地维持秩序。陈诚向蒋先生建议立即遣散伪军,蒋先生接受了这一建议,政府命令我在两个月之内解散伪军。我要求延期,因为广东省的伪军多达几万人,我担心他们抗命;如果操之过急,他们会投向共产党,或者上山落草为匪。那么,我们就没法解除他们的武装了。所以我规劝中央莫草率行事,要谨慎小心。上面答复说,限期两个月不可能再延长。

  很幸运,我是广东人。再者,广东省伪军的高级军官对我很信任。我命令伪军集中到芳村、花地、石围塘周围地区,10月12日邀请他们的部队长来司令部出席会议。出席者有留日的师长彭济华和另一名师长李辅群。我告诉他们,有两种选择:遣散或者并入缺额的国军部队与保安团队,10月底就要定夺。他们回营后同下属商量了我的提议。大多数军官——包括李辅群与彭济华——报称,他们的下属愿意遣散。广东人就是这样——宁为鸡口毋为牛后,宁可挨饿也不肯被吸纳到其他部队。当然,他们知道我们不会信任他们。他们愿意领一笔遣散费各奔前程。

  有一小部分伪军军官选择了并入国军正规部队或保安团队。我们吸纳了士兵,把部分军官送到韶关林挺华管理的待命军官团。其他军官选择回家。

  我任命了先遣队指挥官招桂章,10月4日,张发奎传召招桂章出席先遣队指挥官会议。我们是老友,他是陈策在广东海军学校的同学,此人没有问题。我们遣散伪海军的高级军官。事实上,汪伪的所谓海军只包含几艘小艇,我们接收了它。

  一切都很顺利,我在限定的两个月内完成了整个遣散程序。我向中央报备中央批准我对伪军的有关安置,这不需要报批。只要两个月后不再向中央支领那些伪军的军饷,中央是不介意的。我向中央解释,如果我解散了全部伪军,他们在走投无路之下会上山为寇。

  我以汉奸罪枪决了几个伪军混合部队的指挥官范德星等人。范德星原来是第十师师长,后任十一军军长,他被控在北江地区欺压民众。战争结束时他逃跑了,我的部下抓住了他向我请示如何处置,我下令立即枪决。我也下令立即枪决陈修爵、吕春荣和符永茂,后者是土匪出身,被控欺诈广州湾民众,吕春荣是粤西南的暴君。陈修爵原任粤军第一师旅长,我在韶关统领四战区时,他在粤西南(阳江)当县长。我们调他去干训团,快结业时省政府逮捕了他,他伺机逃跑投靠汪伪当局,仗势欺压北江地区民众。这四个汉奸都是粤西南人氏。陈修爵不知为何逃走了。我下令立即处决前并没有请示过中央,因为高级将领有临机决断之权,这类事不必请示,是他们违反军令、抗拒报到才遭此后果。

  听说战后法国枪毙了数万的奸伪人员。国家的正义与民气必须伸张。文天祥的浩然之气,实足以代表一个国家民族的生存条件。奸伪的政治主张,虽有其不同的角度,但卖国求荣的行为是罪无可逭的。

  伪军也必须区分正规军与杂牌军。前者并不负责地方治安,他们受训打仗;后者掌管地方权力,是当地民众的暴君。还有些有名无实,其主官系“无兵司令”,人称“游击单位”。我们分辨出游击单位,就命令他们集中缴械,其中多数人能服从命令。我们给军官安排工作,把士兵解散,枪械交还给地方政府。有些杂牌游击队我们未能成功地遣散,结果有些人去当了土匪。

  我让曹启秀在司令部充任参议。戴朝恩想当遂溪县县长,我建议他在司令部当参议,他不想当参议,说当县长才能更好地服务桑梓。我说遂溪是个小县,为何不想去大县。他说没有足够的钱去津贴一个大县。一般来说,千里为官只为财,他却是个例外,他有很多钱,遂溪是个三等的穷县。他为人正直,我推荐他去罗定县。

我认为必须使用武力处置广东的共产党部队,同时拟订全面解决的办法。既然蒋先生决心消灭共产党,那就没有理由不在广东采取行动,我相信自己有能力在广东“剿灭”共军。曾生部共军不成问题,加上老弱总共才两千挂零人马。虽然曾生是莫斯科中山大学毕业生,但他有些部下是土匪出身,还有些是广东省自卫团队的成员,其部下多数并非共产党员。他们处境很艰难,自然不想为曾生卖命。

  我下令曾生将所部集中到惠州,他抗命,似乎察觉到我会解除他的武装。我派六十四军的刘绍武师与绥靖公署的保安部队去解决曾部。曾生部奉行共军的战术“敌进我退,敌退我追”,故不必打大规模的仗。再者,他们是广东人所说的“地头虫”,我的部队必须尾随追击。

  冯白驹琼崖纵队的冯白驹是个中学毕业生,部下有些是土匪,这并不奇怪。譬如,1921年我统领的第二十七游击警卫营就是土匪组成的。当国民党为推翻清王朝而斗争时,它也同土匪合作过。冯白驹只有不到一千人马,躲藏在海南岛的山区。
  我向蒋先生要六个团,誓灭冯白驹部。四十六军有一个师驻在海南,但那时日本战俘——其中大部是海军——仍待在海南。再者,四十六军已内定调防广西。
  我不能派十三军与新一军去“剿匪”,因为他们已内定调往东北,正等候美国军舰载运北上。余汉谋已带领他的广东部队去浙江就任衢州绥靖公署主任。唯一我能调度的部队就是六十四军,其中一个师又被派去“围剿”曾生部,剩下的部队需要维持地方治安。
  当时匪患严重,广州长期遭受土匪祸害。在抗战时期由于日寇入侵,匪情稍见缓和,基于爱国情怀,部分土匪团伙自动改编为抗日游击队。抗战胜利后,死灰复燃,他们属于“职业匪帮”之类。第二种类型的土匪包含汪伪军的残余、游击队以及其他混合部队。有些土匪团伙是由逃兵组建的。到战后,有些土匪团伙被中共渗透与操控。有时共产党训练某些地区的村民,派他们回去制造动乱。

  匪患为祸甚烈,殃及全省,最严重是在东江与北江地区。大多数土匪是迫于生计入草为匪的,当时政治形势恶劣,经济环境严酷。剿匪军事行动由广东省政府主席罗卓英兼任司令的省保安部队以及地方自卫团队负责,也得到军队协助。
  自从1939年邹洪带走六个团组成暂编第二军之后,广东省保安处直属部队与保安团的实力大大削弱了。胜利后,我们组建了新的保安部队,总数增加到九个保安团。按规定,必须每个行政区配备一个保安团,筹集武器、军饷及遴选适任军官都需要时间。除了被遣散的伪军单位,我们只能征募新兵。
  我认为,扑灭土匪的唯一办法是强化地方基层组织,甲、保、村、县之间务必密切配合。换言之,我认为要解决匪患,政治举措重于军事行动,在处理共产党问题时,这一点尤其显得正确。蒋先生的口号是“三分军事,七分政治”消灭共产党,我把它改为“一分军事,九分政治”。例如,当一个陌生人进入一个村庄,或者甲内有人失踪多日,如果甲长立刻报告当局,那么共产党就没法渗透村庄。甲长必须为他所辖十户居民中全体成员的行动负责,例如,其中有人接受共产党训练后返回村庄,其他居民就应该立刻报告上级。可是,保甲制度徒有其名,不起作用。

  共产党占据了乡村,还“骗取”了村民们的信任,每当国军来到前,村民会主动给它报警。虽然冯白驹是海南岛本地人,我相信如果政治形势良好,他会无处藏身的。
  我认为广东省的汪伪政府成员罪恶昭彰,必须惩处。虽然汪精卫同我很接近,但我感到陈璧君在个人关系上一无可取。我一到广州,(陈璧君的妹夫)褚民谊就写信给我申述他的困难,希望让他尽快见到蒋先生。他说,如果他能见到蒋先生,蒋会谅解他的处境。褚民谊还对军统局的特派员说,陈璧君想见我。考虑到我的职务,我不能见他们——我们的关系只是私人关系,所以我派我的秘书长麦朝枢去探望他们,褚与陈他都认识。后来麦朝枢说,陈璧君对他讲,她知道我是不会去见她的。麦解释道,我因官箴不能前去,所以派他去,我想知道自己能为她做些什么。她说对伙食不满意,又说她希望马上见到蒋先生。他们被扣押在市桥。我对郑鹤影说,他们想吃什么就供应什么。我也建议郑请示戴笠。鉴于陈璧君叛国仅止于她一人,我认为她的子女与佣仆与她一起囚禁不甚妥当,应予开释。

  我没有听到广州民众对汪伪省政府的抱怨与抨击,也没有广州市民对伪政府怀抱恶感的印象。在广州的伪府大员——伪广东省长褚民谊,陈璧君的弟弟、伪广州绥靖公署主任陈耀祖等人我都认识,陈璧君在广州是幸运的——她在广州度过的日子比在南京多。她同日本人打交道是比较强硬的,她就是这种类型的人。据我观察,陈公博、周佛海——这些人我都认识——在上海同日本人打交道也比较坚定,陈公博面对日本人时十分敢言;当日本人欺凌上海市民时,陈公博大胆提出异议,这就是上海市民对陈公博、周佛海印象良好的原因。倘若戴笠不在1946年3月死于空难,周佛海会离开监狱的。

  无论在广州抑或上海,这些伪府政要都是汪精卫的追随者,他们鼓吹所谓“和平”,其叛国的理由就是“中国打不过日本”,汪精卫组织伪府就是基于这一理念。事实上,日本人并不是平等对待他们,他们充当了傀儡。然而他们宣称,即使他们仅仅是傀儡,也要为老百姓争回一点权益。

  我没有见到伪府在广州压迫民众的任何证据。如果确有这类事实,我至今仍相信,涉案的伪府成员一定会受到严惩,首恶枪决,从犯入狱,这是天经地义。

  没有人抨击广州行营,因为它只是执行中央的命令。民众没有批评我宽纵汉奸,也没有人要求我逮捕伪府成员。

  可是,(1945年10月19日至26日何应钦在广州时)在欢迎何应钦的群众大会上,有人突然要求逮捕四名伪组织首领——李辅群、广东省政府警务处长郭卫民、广州卫戍司令招桂章以及商会会长。何应钦命令我逮捕此四人。我们抓获了郭卫民与招桂章,但是商会会长逃走了。
  翌日,郑鹤影带了李辅群来见我。我可以当场逮捕他,但他表示已被捕过,他不能保证政府能接管他的全部财产——有些旧式的钱庄与其他企业,他打算捐献给政府,可是他手下的职员不会移交有关文件。他建议我在逮捕他之前给他时间去处理业务,将财产移交给政府。我问他需要多少时间,他答一个月。我问,若是不回来怎么办,他答应不让我失望。我想,他可能以为军统局会保护他。从权责上考虑,我必须逮捕他,不管政府是否能接管他的财产。可是,我想,既然郑鹤影带他来见我,一旦李辅群弃保潜逃,郑鹤影可以作为证人,证明我没有收过李辅群的贿赂。再者,我发觉李辅群很坦率,相信他不至于骗我。故我准许他保释一个月做他必须做的事,这一安排只限我们三个人默契。
  我来广州之前不认识李辅群,这段时期他常来见我讨论财产捐献给国家的事。他是伪军师长中唯一土匪出身者,战前在广州郊区市桥一带活动,人们叫他“市桥皇”。在朱执信收编他以前,他的所作所为酷似早年的李福林。他胁迫每位坐船的乘客向他缴纳两元买路钱,所以人们称他“李朗鸡”——“朗鸡”同粤语方言“两元”谐音。
  李辅群隐居了一个月,满期那一日他独自到我的司令部投案。当他递交名片时,司令部人员感到震惊,因为此事我甚至没告诉过参谋长。我命令他进来,宣布逮捕。他苛虐民众,故民愤极大,经司令部军法处审讯后,判处死刑。他被解送南京复审,再度判死。所有涉及死刑的案件都要呈请中央批准,中央可能交付南京的高院复审,也可能派人到广州复审。
  军统局为李辅群申辩,但是枉然。李福林去找许崇智的门路,可惜许崇智那时很少有机会见到蒋先生,遂把希望寄托于居正。这三个人一起去见蒋先生要求特赦。他们说,李辅群在珠江三角洲拥有一定的实力,最好是免其一死。倘若将来有什么突发事件,他可以出来为国家出力。蒋先生聆听他们三人的意见后,同意特赦,减为终身监禁。1959年李辅群被从上海市监狱押回市桥,同年9月19日被枪决。

  陈璧君、褚民谊与其他汪伪政府要员被解送到中央受审,名单是中央指定的。结果褚民谊判死、陈璧君判无期徒刑。

  我组织了一个肃奸委员会,由中央与省政府的代表组成,二方面军军法处长吴仲禧代表司令部,冯次淇任主席。在我回广州前,军统局已经逮捕了伪府重要成员,名单通知了我,其中一些人由军统直接解送中央,次要的汉奸移交给肃奸委员会。

  在我回广州后,军统局继续逮捕重要汉奸,它给了我一张次要汉奸名单,我交付肃奸委员会调查。该委员会想实施逮捕时便会报告我,由我派宪兵执行。不必要的逮捕极少,因为中央颁布了惩治汉奸条例,规定哪些人可确认为汉奸,又把他们分成不同的种类:文化、教育、经济、政治、军事等等。在教育界,譬如,只有中学校长以上或者教育局处长以上才被视为汉奸。

★处理汉奸案件条例
  国民政府三十四年十一月二十三日令,兹制定处理汉奸案件条例,公布之,此令。
  第一条处理汉奸案件依本条例之规定,本条例无规定者,适用其他法律。
  第二条对于左列汉奸应厉行检举。(一)曾任伪组织简任职以上公务员或荐任职之机关首长者。(二)曾任伪组织特务工作者。(三)曾任前两款以外之伪组织交武职公务员,凭借敌伪势力,侵害他人,经告诉或告发者。(四)曾任敌人之军事政治特务,或其他机关工作者。(五)曾任伪组织所属专科以上学校之校长或重要职务者。(六)曾任伪组织所属金融或实业机关首长或重要职务者。(七)曾任伪组织管辖范围内任报馆通讯社杂志社书局出版社社长,编辑,主笔,或经理,为敌伪宣传者。(八)曾在伪组织管辖范围内主持电影制片厂,广播电台,文化团体,为敌伪宣传者。(九)曾任伪党部,新民会,协合会,伪参议会,及类似机关,参与重要工作者。(十)敌伪管辖范围内之文化、金融、实业、自由职业、自治或社会团体人员,借敌伪势力,侵害他人经告诉或告发者。
  第三条前条汉奸,曾为协助抗战工作或有利于人民之行为,证据确凿者。得减轻其刑,依前项规定减处有期徒刑者,仍应褫夺公权。
  第四条汉奸所得之财物,除属于公有者,应予追缴外,依其情形,分别予以没收或发还被害人,前项财物之全部或一部无法追缴,或不能没收时,追缴其价额,或以其财产抵偿,但其财产价额不足应追缴之价额时,应酌留其家属必需之生活费。
  第五条汉奸案件,除被告原属军人复任伪军职,应军事审判者外,均依特种刑事案件审讯条例之规定,由高等法院或其分院审理之。
  第六条汉奸于民国三十四年八月十日以后自首者,不适用自首减免其刑之规定。
  第七条收复区高等法院或其分院,开始办公后,政军机关应将所有汉奸之行为,财产及其他调查资料,移送检察官侦查。
  第八条高等法院或其分院审理汉奸案件。必要时得派推事赴犯罪地就地审判。
  第九条关于汉奸案件各级检察官均应行使侦查职权,移送该管检察官办理。
  第十条各地政府机关对于司法机关办理汉奸案件应切实协助。

  吴仲禧告诉我,朱执信的老婆、广州执信中学校长拒绝将学校移交给肃奸委员会。吴说,肃奸委员会要逮捕她。我要他为朱夫人向肃奸委员会辩护,毕竟她是国民党的革命烈士遗孀。我传召她来见我,我吩咐她把学校移交给肃奸委员会,她拒绝了,称:“如果我是汉奸,那么朱执信也是汉奸!”最后,她的儿子劝她听我的话办了移交。
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「从1896年到1940年,利用在海口开商行之便为日本收集情报 日军侵琼“哨探”胜间田善作」

2018年05月07日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2009-02/16/content_104303.htm
『海南日报』 2009年2月16日  文\海南日报记者 李科洲
■永不忘却 日军侵琼七十周年
 从1896年到1940年,利用在海口开商行之便为日本收集情报
 日军侵琼“哨探”胜间田善作

【相片】1933年,胜间田善作(左)、胜间田义久(右)与广东南区委员黄强(中)及其幼女在胜间田海口家中合影。

  在1939年2月10日,日军侵琼之前。一位日本商人已在海口博爱路经营商行多年。
  商行的主人叫胜间田善作。他被一些日本人称为“海南岛之王”“海南岛之主”“海南岛的恩人”。然而,从1896年到1940年,就是这位“海南岛的恩人”却率其家人不遗余力地从事间谍活动。海南日报记者通过对有关专家和知情者的寻访,为您披露这段鲜为人知的历史。

  在70多年前,海口市博爱路是该市最繁华的商业街道。而在现博爱北路67号,当时有一个最豪华、生意最好的百货商行———胜间田商行。
  商行的主人是一位旅居海南的日本人胜间田善作。这位被一些日本人称为“海南岛之王”“海南岛之主”“海南岛的恩人”的商人在经商的同时,也在主动地进行着情报的收集工作。虽然没有史料明确指出他是一位日本间谍,但说他是“编外间谍”并带领其家族进行间谍活动,应该是比较确实的。而他的第三个儿子胜间田义久,就有史料确凿记载其隶属于日军特务机关。
  也正因为胜间田善作为日军侵琼提供了很多有价值的情报,立下“马前卒”的“汗马功劳”,在他1940年4月3日死去的当日,日本皇室便追授他五等瑞宝勋章。这一专门授予日本官员和军人的荣誉授予了一位商人,颇值得玩味。
  日军侵琼研究专家、海南师范大学教授张兴吉的研究成果提供了有力佐证:日本军队攻占海南前,日本人对海南岛的调查,就日方公布的著作情况来看,胜间田家族进行的调查时间最长、范围最广,窃取的情报也最多。

★受托登陆海南
  胜间田善作1874年出生于日本静冈县。其家族中的每一个人,包括其妻子、3个孩子(长子晖睹、次子政胜、第三子义久)和其弟胜间田长马及妻子,都曾在海南岛生活。
  1896年,22岁的胜间田善作受雇于一位英国商人,前来海南岛从事动植物标本采集工作。此后,直到67岁时在海口去世,他大部分时间都在海南岛生活。
  1909年,不再受雇于英国人的胜间田善作在海口开办了名为“健寿堂”的药店(胜间田商行的主要组成部分),主要从事药品、杂货生意。此后,他的事业迅速发展,商行活动范围也日益扩大,在金江、嘉积设有分店,在各县有13个办事处,业务主要是把药材、毛线针织品、棉布等日本商品输入到岛内,同时把岛内所产的天然蚕丝向日本输出;胜间田家族还在当时的海口郊区———原白沙乡君尧村西边开办了农场,在琼东县的乌场设有水产收购站,在屯昌设立天然丝制造厂。
  从1933年拍摄的一张照片看,胜间田善作已成当时海口的一位头面人物。和他合影的是广东南区委员、多次出任海南岛最高行政长官的黄强。而抗日战争爆发后,在驻海南岛的国民党军人准备策划暗杀胜间田善作时,当时的海口公安局还曾派出了6名警员负责其家庭的保卫工作。后在黄强的保护下,胜间田善作于1938年离开海南,迁往台湾。
  海口市琼剧团原艺委会主任、退体老人吴梅还记得,在现在的博爱北路67号,有一家老海口人都知道的公司叫精华公司。这家公司拥有一间3层楼。胜间田商行租用的就是这间楼。吴梅带我们到现场指认说,现在的安娜布艺商店和文和楼肯定有一家原先就是胜间田商行。根据史料和我们对一些老人的走访,胜间田最早在得胜沙开一家商行,其家也安在这里。博爱路的这间商行应该是在日军侵琼后再开的。

★主动收集情报
  据1939年的《东京朝日新闻》披露,胜间田善作常对妻子说,海南岛终有一天会成为日本的国土,如果看到太阳旗在岛上飘扬,他会高兴得流泪的。
  张兴吉说,从这句“肺腑之语”中,我们看到了作为日本一位普通国民对海南的领土野心!
  正因为有了这种“觉悟”,胜间田善作才会主动地、不遗余力地对海南进行了大量的调查工作。而且他的调查从一开始就立足于将成果介绍到日本国内,以引起日本官方及民间的注意。
  1908年,胜间田善作雇用当地中国人绘制了海南岛全图,并交给一位日本人带回国内;1920年,又把他在海南岛20多年实地探查测量的结果和对当地人的访问材料,携往日本国内,交给日本有关研究者。胜间田善作还怀揣海南岛地图,奔走于日本各政府机关之间,呼吁日本政府重视海南,开拓南方。
  胜间田善作先后100多次来往于日本和海南岛之间。作为一个商人,胜间田善作实际上已非正式地参与了政事。
  胜间田善作的调查材料引起了日方的重视。这是因为他的调查时间较早,内容广泛而细致。他到过海南岛很多地方,连黎母山这样偏僻之地也曾涉足。其父子的调查成果集中体现在他们出版的《海南岛现势大观》《日海语集成》《最近的海南岛事情》《海南岛最近事情》《在海南岛的矿业》等著作中。
  随父在海南生活了18年的胜间田义久也一直致力于海南岛的调查活动,被日本出版的《黎明的海南岛》一书称为对海南岛调查倾尽心血的“笃志家”。胜间田善作的次子胜间田政胜也在日本军舰上印制有关海南话的小册子,提供给日军以便其登陆后使用。胜间田父子的调查资料奠定了后来日本人调查海南岛的基础,为日军侵琼提供了很有价值的情报。

★接待日方来客
  除了收集情报,胜间田家族还担任起了接待日本来客的任务。在日军侵琼前,几乎所有来海南岛调查的日方人员都和他们有过来往。可以说,他位于海口得胜沙路的家相当于一个日本人在海南的地下“交通站”。1917年,台湾总督府专卖局事务官池田幸甚到海南考察,在海口会见了胜间田善作,两人还提出了赶在欧美前趁早“开发”海南岛的设想。经胜间田善作介绍,池田幸甚还会见了当时海南岛的实际控制者龙裕光。
  由于对海南的调查以及在海南对日本官方和民间人员的接待,胜间田家族在日本有很大的名声,一些日本资料也因此把胜间田善作称为“海南岛之王”和“海南岛之主”。

★正式参与政事
  虽然胜间田家族1938年离开了海南岛,但他们对海南岛的“关心”一直没有中断。在日军侵琼时,他们主动参加了侵略海南的活动,可谓开始公开、正式地参与了日方在海南的政事。
  在日军侵占广州后,胜间田善作到广州向日方介绍海南岛,直接推动了当时日方“开发海南岛”的愿望。他还和日本海军一起活动,于1939年2月10日随日海军陆战队进入海口。而他的二儿子胜间田政胜1938年1月主动提出从军,以自己对于海南岛的知识,直接参与了侵占海口的活动。三子胜间田义久也参加了日军在澄迈湾的登陆。
  日军进入海口的第二天,胜间田义久协助日军召集海口市内的200多位店主开会,之后成立了正式的海口维持会。胜间田义久还担任过该会的指导官,促使许多在日军侵琼后关闭的商店重新开业。这期间,在胜间田家族被迫离开海南岛后而关闭的胜间田商行当然也恢复营业,并且还与别的资本合作,成立了胜间田产业株式会社,其业务较前得到了更大的发展。胜间田家族的商业活动一直持续到日军在海南统治的结束,其资产最后被中国方面接收。


http://hnrb.hinews.cn/html/2009-02/16/content_104303.htm
『海南日报』 2009年2月16日  文\海南日报记者 李科洲
■永不忘却 日军侵琼七十周年
 劝说唐品三当汉奸被拒

【相片】在海口市博爱北路67号,吴梅老人指认当年的胜间田商行。 海南日报记者 张杰 摄

  日本人胜间田善作和他3个儿子都能说一口流利的海南话。日军侵琼后,胜间田善作还用海南话劝说过当时的海南书局经理唐品三出任海口维持会会长。
  唐品三的儿子、80多岁的唐南椿老人接受海南日报记者采访时说,“胜间田善作不仅仅是一个生意人。”
  1930年代,在海口市博爱北路的胜间田商行的正对面,是赫赫有名的海南书局。书局董事长兼经理由当时的琼山县府城城西七里村人唐品三担任。唐品三同时是海口市商会第一届执行委员会常务委员、第二届商会主席。日军在澄迈登陆当天上午,正在商会办公的唐品三接到国民政府打来的电话,告知他这一消息并通知他们早做准备。
  商会设在中山路,离海南书局不远。唐品三匆匆赶回位于书局后面的家,带上两件衣服就出门了。他先到下洋村的一个佛祖庙里过了一夜,第二天天未亮便到东营港找朋友雇了艘小帆船逃往湛江。看到丈夫一夜未归,唐品三的妻子知道他是出走了。此前大家已风闻日军侵琼传言。同为海口商会会员的胜间田善作当时也通过熟人给唐品三传话:将来如果发生什么事,还要请唐先生出面维持海口秩序。为此,唐品三对家人交代,如果日军到来,他决不做汉奸。唐品三走后的第三天,其妻也带着几个孩子躲进了位于现泰龙商城的一家法国教堂。
  几天后,胜间田善作带着他的3个儿子,一起到法国教堂打听唐品三的行踪。
  不过,第一次,教堂不让胜间田善作进去。胜间田善作不死心,找人与法国教堂讲情,最终得以见到唐品三的妻子。胜间田善作劝说道,他知道唐品三逃走了,唐品三如果回来为“皇军”效力,还可以继续经营海南书局,否则,日本陆军马上就会占领书局。果然,没多久,海南书局便被日军接管。
  唐南椿说,在法国教堂呆了一个月,他母亲在外公的劝说下带着几个孩子也逃到了湛江。唐南椿听说,此后,胜间田善作还来教堂找过他母亲。
  唐南椿说,他妻子小时候常到胜间田善作位于得胜沙的商行玩,对胜间田善作的印象是:很和气。也许,这和他生意人的身份有关,更和他“编外间谍”的身份有关。
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「突如消えた慰安婦像 歴史認識を今、考える」

2018年05月06日 | 日本軍隊性奴隷
http://www.manila-shimbun.com/category/society/news237554.html
「まにら新聞ウェブ」 2018.5.5
■【新聞論調】突如消えた慰安婦像 歴史認識を今、考える
 土曜日の朝、マニラ湾遊歩道を散歩、ジョギングしていた人々は、フィリピンの伝統衣装を身にまとい、目隠しをされた慰安婦像が消え去っていたことに気付いた。そして突如として道の真ん中にショベルカーが置かれ、溝が掘られていた。金曜日の夜、公共事業道路省の作業員たちは排水工事という名目で像を撤去した。
 昨年12月の像設置の後、日本政府は「遺憾の意」を表していたものの、設置時には国家歴史委員会などの政府機関も設置に許可を出しており、日本政府の抗議に影響されてか、政府による撤去は議論を呼んでいる。第2次世界大戦中、旧日本軍により約千人もの比人女性が慰安婦とされた。像はその様な残酷な歴史が忘れ去られないように建てられた。
 撤去に関しドゥテルテ大統領は「日本政府はすでに賠償金を払っている」と、多くの比人と同じような間違った認識を示した。90年代に慰安婦問題が明るみになってきてから、元慰安婦たちは国家賠償と謝罪を求めてきたが、払われたのは政府からでなく財団法人を通した国民からの募金だ。歴史教科書への慰安婦についての記載も少なく、日本政府が慰安婦の歴史を認めることを拒む姿勢は明らかだ。
 比政府による撤去は、日本からの巨額な経済支援に対する感謝の意を表すものだったのか。日本は確かに比に対し多大な財政、技術支援をして比の成長に協力してくれているだろう。しかし支援と引き換えに像を撤去することはできない。比人女性の尊厳や戦争中に日本がした行為を売り飛ばすことは、決して許されないだろう。(3日・インクワイアラー)
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「日本でも済州4・3  70周年追悼の熱気」

2018年05月05日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30387.html
「The Hankyoreh」 2018-04-24 09:42
■日本でも済州4・3 70周年追悼の熱気
 東京1500人、大阪700人が慰霊祭に参加 
 在日同胞ら「文在寅大統領の追悼演説に感動」 
 講演・追悼公演など…大阪に慰霊碑建設を推進

【写真】22日、大阪で行われた済州4・3 70周年「在日本済四・三事件犠牲者慰霊祭」が開かれ、追悼行事や公演が続いた//ハンギョレ新聞社

 「1948年に翰林(ハンリム)中学の何年生でしたか?」。
 「3年生でした」。
 杖をついた在日同胞のキム・ジョンサムさん(89)とパク・ヨンマンさん(89)が4・3事件を逃れてそれぞれ大阪に密航してから約70年ぶりに会い、4・3事件の話を交わした。二人はいずれも18歳の時、死を逃れて日本に渡ったが、お互い知らない間柄だった。22日午後、在日本済州四・三事件犠牲者慰霊祭が開かれた大阪市立東成区民センターで会った二人は、互いに生きてきた過程を尋ね合った。

 同じく在日同胞のコ・チュンジャさん(78)は「4月3日、済州で開かれた4・3事件追悼式に出席した後、母の墓を訪ね『大統領が謝罪したからもう安心して』と報告した。文在寅(ムン・ジェイン)大統領が追悼式の時、国家暴力による苦痛に対して謝罪すると言ってくれて本当に感謝している」と話した。祖母が連行されて銃殺される場面を直接目撃したコさんの母は、4・3事件が名誉回復される前に亡くなった。コさんの母方の叔父2人は4・3事件の時、銃殺されたり行方不明になった。

【写真】22日、大阪で行われた済州4・3 70周年の追悼行事で、済州翰林中学校の同級生であるキム・ジョンサムさん(89・左)とパク・ヨンマンさん(89)が70年ぶりに会って話を交わしている//ハンギョレ新聞社

 済州四・三事件70周年犠牲者慰霊祭実行委員会などが共同主催した慰霊祭で、創作パンソリ「4月物語」が公演されると、在日同胞たちはすすり泣いた。かつて日本で4・3の慰霊祭が行われた時は200~300人程度が参加したが、文大統領が謝罪した今年は、在日同胞と日本人など700人あまりが客席を埋めた。この行事を主催した藤永壮・大阪産業大学国際学部教授は「南北首脳会談と朝米首脳会談など朝鮮半島をめぐる肯定的な環境が、追加の真相調査と名誉回復に役立つだろう」と期待を示した。
 距離が比較的近い済州と日本には特別な縁がある。植民地時代にも多くの済州の人々が日本を行き来し、4・3事件の時には、日本は済州の人々にとって避難場所となった。特に4・3事件の頃、たくさんの済州島の人々が虐殺を逃れて隠れた大阪では、遺族会を中心に長い間真相究明と名誉回復活動が行われた。

【写真】22日、大阪で開かれた在日本済州四・三事件犠牲者慰霊祭で、参加者たちが4・3犠牲者たちの魂を悼んで献花をしている//ハンギョレ新聞社

 これに先立ち21日には、東京のほくとぴあ桜ホールでも済州島4・3事件を考える会・東京の主催で、70周年追悼行事である「眠らざる南の島」が開かれた。在日同胞と日本人1500人が押し寄せ、会場は階段までいっぱいになった。この行事では、日本で4・3の真相を広めた小説『火山島』の作家である在日同胞の小説家・金石範(キム・ソッポム)氏が、最近日本の代表的な月刊誌『世界』に連載している内容を紹介した。
 「第2次世界大戦後初めて孤立した島・済州島でジェノサイドが起きた。魚や肉をまな板に載せて切るように、肉体と精神を切り刻む殺戮が行われた」。彼はまた、「文在寅大統領が追悼式の時『4・3の真実はどんな勢力も否定できない明確な歴史の事実として定着したということを宣言する』と述べた言葉を聞いて驚いた。これは歴史的な発言だ」と強調した。

【写真】21日、東京で行われた済州4・3抗争70周年記念行事「眠らざる南の島」で、済州島4・3事件を考える会・東京のチョ・ドンヒョン会長(左)の進行で在日小説家の金石範氏と文京洙立命館大学名誉教授が講演している//ハンギョレ新聞社

 これまで韓国内で4・3事件の歴史的真実が隠蔽された時も、真相究明の橋渡しの役割をしてきた大阪と東京では、4・3の真実を歴史に記録することを望んでいる。大阪四・三遺族会と実行委員会はこの日、「大阪で四・三慰霊祭を毎年開催するようになってから20年が過ぎた。大阪に慰霊碑を建てる事業を推進する」とし、慰霊碑建設資金募金運動に入った。オ・グァンヒョン遺族会長は「大阪は4・3の現場だ。市民の力で慰霊碑を立てたい」と話した。

東京、大阪/文・写真 ホ・ホジュン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/841704.html
韓国語原文入力:2018-04-23 21:59
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「行き場を失った釜山強制徴用労働者像」

2018年05月04日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30485.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-05-04 06:21 修正:2018-05-04 10:38
■行き場を失った釜山強制徴用労働者像
 강제징용 노동자상, 어디로 갈거나?
 市民団体「総領事館の前がだめなら近くに設置する」 
 東区「協議が終わるまで、現在の位置に置いておく」 
 外交部「外交公館保護の国際慣行に沿って行われるべき」

【写真】今月3日、釜山東区草梁洞の日本総領事館の前で、市民団体が警察の過剰鎮圧を抗議している=キム・ヨンドン記者//ハンギョレ新聞社

 釜山(プサン)の市民団体が日本総領事館前に設置しようとした強制徴用労働者像が行き場を失っている。市民団体は日本総領事館の前に設置できないなら、近くに残したいという意見であり、政府は総領事館の近くも不適切だという意見だ。両者は協議する計画だが、平行線を辿る可能性が高い。
 3日、釜山強制徴用労働者像建設特別委員会は「今になって釜山市と東区(トング)側が労働者像の設置と関連して協議しようと言っている。しかし、他の場所に労働者像を移すつもりはない。ここに設置する計画だ。この問題と関連し、釜山市などと協議するつもりはない」と言い切った。現在、強制徴用労働者像は、日本総領事館前の平和の少女像から約40メートル離れた歩道の上に立っている。警察の1個中隊が労動者像を取り囲んでいる状態だ。
 この道路の管理を担当している東区側は、ひとまず市民団体の意思を尊重するという立場だ。今月2日、東区は「日本総領事館前の道路管理業務は東区に委任されているが、結局は外交部と釜山市が解決すべき問題だ。近いうちに外交部や釜山市と共に、市民団体と協議する方針だ。その時までは国民感情を考慮し、労働者像を移転せず、現在の位置にそのまま置いておく」と明らかにした。
 しかし、外交部は日本総領事館の近くに労働者像を置くことも適切ではないという立場だ。外交部は韓日間の外交紛争を懸念し、最初から日本総領事館前の設置に反対してきた。同日午後、ノ・ギュドク外交部報道官は定例会見で「労働者像の建立趣旨には共感するが、このような活動は関連法令と外交公館の保護関連の国際慣行に沿って行われなければならない」という原則的立場を再確認した。市民団体と外交部の間の意見が大きく分かれており、両側の協議が始まっても空転する可能性が高い状況だ。
 一方、強制徴用労働者像建設特別委員会は「先月30日から今月1日まで、労働者像の設置を試みる過程で、警察が暴力的に市民たちを鎮圧した」と批判した。建設特別委員会は同日、日本総領事館前で記者会見を開き、「1日、警察は労働者像を設置しようとする市民らを深さ10メートルの都市鉄道換気口の上に引きずり出し、店の大型ガラス窓の方に押し出した。大型惨事が憂慮される状況だった」と指摘した。
 これに対して、釜山警察庁は「今月1日の日本総領事館の近くでの集会は許可されていなかった。市民らが集会禁止区域に押し入ってきたため、これを阻止する過程でやむを得ず衝突が発生した」と釈明した。

キム・ヨンドン、キム・ジウン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/843136.html
韓国語原文入力:2018-05-03 18:01


http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/05/03/0200000000AJP20180503003000882.HTML
「聯合ニュース」 2018/05/03 14:42
■日本総領事館付近の徴用工像 「動かさない」=韓国団体
【釜山聯合ニュース】釜山の日本総領事館前に1日、日本による植民地時代に朝鮮半島から強制徴用された労働者を象徴する像を設置しようとして、警察に阻止された韓国の市民団体が3日に総領事館前で記者会見を開き、付近の歩道上に置かれている像を動かす考えはないと重ねて強調した。

【写真】会見を行う団体のメンバー=3日、釜山(聯合ニュース)

 団体は「領事館から遠くなるほうに動かす意思はなく、(歩道を管轄する)自治体と交渉する考えもない」との方針を明らかにした。
 像は現在、総領事館の裏門から約25メートル離れた歩道に放置されている。
 一方、団体は像の設置を図った際の警察の過剰な警備により、約30人がけがを負ったとして抗議した。
 これに対し、釜山地方警察庁の関係者は「多くの(集会)参加者が集会禁止区域の領事館のほうに労働者像を運び、参加者を領事館付近で排除する過程でやむを得ず衝突が起きた」と説明した。
 会見後、団体のメンバーは労働者像まで移動しようとしたが、警察が阻止し、約30分間もみ合になった。

【写真】総領事館前に像を設置しようとして、警察ともみ合う団体のメンバー=1日、釜山(聯合ニュース)


http://japanese.joins.com/article/091/241091.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|main|top_news
「中央日報日本語版」 2018年5月3日8時38分
■釜山「強制徴用労働者像」 韓日外交問題の火種にも

【写真】警察が2日、釜山の日本領事館付近に市民団体の会員が設置した強制労役労働者像を領事館前の少女像の隣に移せないよう官用車両を配置し、労働者像の移動を阻止している。
 
 1日、釜山(プサン)では警察と全国民主労働組合総連盟(民主労総)釜山本部および市民団体の関係者およそ3000人が対峙する状況があった。釜山日本総領事館の前に強制徴用労働者像を設置しようとしたからだ。市民団体側は警察と8時間の対峙の末、計画より30メートルほど離れたところに労働者像を設置した。市民団体側は労働者像を総領事館の前に設置すべきだという立場であり、衝突の可能性はまだ残っている。この日の集会は韓日中首脳会談(9日)を控えて外交に微妙な波紋を起こした。南北首脳会談、米朝首脳会談をきっかけに日本との外交的協力が強調される中で発生したからだ。
 日本政府は日本人拉致被害者問題などを解決するため積極的な外交関係を図っている。同時に幅広い外交チャンネルを通じて労働者像設置問題に対しても持続的に問題提起をしている。共同通信は1日、安倍首相が先月24日、文在寅(ムン・ジェイン)大統領との電話会談で釜山日本総領事館前の強制徴用労働者像設置の動きに「適切な対応」を要請していたと報じた。
 安倍首相は当時、南北首脳会談を控えて意見交換のために文大統領と電話会談をした。先月11日に河野太郎外相が訪韓した時も康京和(カン・ギョンファ)外交部長官と会談し、「現在、北朝鮮情勢をめぐりこれまで以上に協力すべきだが、労働者像の設置は望ましくない」という立場を伝えた。
 これに対し韓国外交部は「労働者像は日帝強制動員犠牲者に対する追慕と後世に対する歴史教育のために政府が準備した追悼空間の国立日帝強制動員歴史館(釜山南区所在)など適切な場所に設置するのが望ましい」という立場だ(4月19日、魯圭悳報道官)。「外交公館の保護に関する国際礼譲と慣行の側面で適切でなく、外交的問題を招く可能性が高い」という理由でだ。
 日本との過去の問題、被害者追悼は背を向けられない問題だが、新たな外交摩擦になることに対する懸念の声も出ている。現政権の慰安婦合意再検証で韓日関係が冷え込み、こうした中で北核問題の解決という重要な協調課題が進行しているからだ。
 ある元外交官僚は「表現の自由や追悼の意味を考えれば労働者像は設置することができる。しかし他国の顔にあたる大使館の前に設置して反発を招きながら友好・親善を話すことができるのか」と指摘した。別の外交専門家は「労働者像設置推進団体の面々を見ると理念的カラーが明確だ。単純な市民運動というよりも韓国と日本の接近を防ごうとする政治的な意図が強い」とし「民主労総が現政権に近いため青瓦台もこの問題に後手に回る局面」と話した。

◆「軍艦島など世界遺産登録の後続措置が必要」
 趙顕(チョ・ヒョン)外交部第2次官は2日、ユネスコの2015年の日本近代産業施設世界遺産登録決定に言及し、「韓国政府は日本政府が適切な解釈戦略を用意して国際社会に対する約束を誠実に早期履行することを促している」と述べた。外交部と文化財庁、ユネスコ韓国委員会が共同開催した「ユネスコ世界遺産協約加入30周年国際セミナー」でだ。これは、日本が長崎造船所、端島(軍艦島)炭鉱などを世界文化遺産に登録する際、総合情報センターなど被害者を知らせる措置を取ると述べながらセンターを東京に設置すると明らかにしたことを批判したのだ。
 ユネスコ世界文化遺産登録が決定した日本の23カ所の産業施設の中には端島など数万人の朝鮮人が強制労働した現場7カ所が含まれている。23カ所のうち16カ所が九州にあるが、軍艦島を含めて最も多い8カ所がある長崎県と東京は約1000キロも離れている。
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「日本兵戦没者の慰霊碑はフィリピンに400基以上  たった1基の日本軍「慰安婦」被害者像を撤去させた 日本政府の恥ずべき行為に抗議する!! 」

2018年05月03日 | 日本軍隊性奴隷
http://www.restoringhonor1000.info/2018/05/400-1.html
posted by 日本軍「慰安婦」問題解決全国行動 5/01/2018
■日本兵戦没者の慰霊碑はフィリピンに400基以上  たった1基の日本軍「慰安婦」被害者像を撤去させた 日本政府の恥ずべき行為に抗議する!!

 昨年12月8日、フィリピンの首都マニラに、日本軍の「慰安婦」にされた女性たちを記憶するための碑が建てられた。歴史的な記念物の設置に関わる政府機関「フィリピン国家歴史委員会」が、民間の協力により設置したものだ。台座にはタガログ語で「1942~45年の日本統治下で虐待の被害に遭った全てのフィリピン女性の記憶である。彼女たちが自身の経験を語り出すまで、何年もの月日を要した」と記された。
 なぜ記憶しようとするのか。
 それは、再発防止のために他ならない。
 日本軍「慰安婦」(性暴力)被害者たちは、二度と同じような被害者を生まない平和な世界の実現を訴えてきた。今、世界に広がる日本軍「慰安婦」メモリアルは、この訴えを記憶することで、今も戦時下で、あるいは基地周辺で、そして日常の中で繰り返される性暴力を根絶しようとする決意と切望を表すものなのである。
 このような趣旨でマニラに建立された碑に対し、日本政府は設置直後から「日本政府の立場と相容れない」として「遺憾の意」を表明し、今年1月に同国を訪れた野田聖子総務相兼女性活躍担当相も「非常に残念だ」として、政府間で協議するよう求めた。
 しかし、このような「立場」表明こそが、日本軍「慰安婦」問題の解決を遠のかせ、被害女性たちを再び傷つけ、国際世論の非難を浴びる原因になっていることに、日本政府は、もういい加減に気付くべきだ。一方で「お詫び」と「反省」を口にしながら、加害の歴史をなきものにしようと、なりふり構わず被害国に圧力をかける。これは、「反省」が口先だけのものだとわざわざ行動で示すものだ。
 そもそも、フィリピンの人々が自国の犠牲者を悼む碑を自国内に建てることに対して「日本政府の立場と相容れない」と主張すること自体が恥知らずな行為だ。一方で日本政府は、日本兵戦没者の慰霊碑をフィリピン国内に建てているのである。フィリピンのラグナ州カリラヤに日本政府が設置した「比島戦没者の碑」がそれだ(厚労省HP)。
 さらに、フィリピン各地に日本人が建てた日本兵戦没者の慰霊碑は400基を超える。「日本人生還者や戦没者のご遺族の方々が、フィリピンに日本人戦没者の慰霊碑を建立しようとしたとき、フィリピンの人々は自らも戦争において約120万人もの犠牲者が出ているにもかかわらず、慰霊碑建立に快く協力」してくれたという(フィリピン戦没者慰霊碑保存協会HP)。
 かつて侵略した国に、日本兵の慰霊碑を建立する一方で、フィリピンの人々が自国の地に、日本軍による性暴力被害女性の碑を建てることに対して露骨に妨害する。しかも、その論拠が「日本政府の立場と相容れない」というのだから、私たちは日本の市民として、フィリピンの人々に申し訳なくて顔を上げることすらできない。このような非常識で厚顔無恥な態度は、世界のそしりを免れないだろう。
 そして4月27日、遂に碑は撤去された。現場で撤去を確認したという在比日本大使館は「(撤去は)フィリピン政府側の判断であり対応」とうそぶく一方で、「フィリピン政府には像設置は遺憾であり、二国間の関係に悪影響を与えないようにとの日本政府の立場を繰り返し伝えてきた」と述べている。
 恥ずかしい、あまりにも恥ずかしい言動だ。
 私たちは、このような日本政府の対応に、強い怒りを込めて抗議する。
 そして、日本軍「慰安婦」被害女性たちを記憶することで、再発防止をはかろうとするメモリアル建設に、これ以上、干渉・妨害をして、世界に恥をさらす行為をやめるよう求める。
 フィリピン政府は、現日本政府の不当な要求に屈し、自国の女性の尊厳を切り捨てたという汚名を返上しなくてはならない。フィリピン「慰安婦」被害者像を再建し、女性の人権確立に向けた姿勢を、世界に示すべきだ。
 私たちは、厳しい状況の中でも女性の人権確立と女性に対する暴力根絶のためにたたかうフィリピンの女性たちをはじめ、世界の女性たちと連帯して、日本軍「慰安婦」メモリアルがめざす本来の意味を追求するため、今後も行動を続けていく。

     2018年4月30日
          日本軍「慰安婦」問題解決全国行動

※「全国行動」は、「フィリピン人元『従軍慰安婦』を支援する会」、「フィリピン元『慰安婦』支援ネット・三多摩(ロラネット)」などを含む40余りの団体で構成される全国的なネットワークです。


http://www.manila-shimbun.com/category/society/news237435.html
「まにら新聞ウェブ」 2018.5.1
■慰安婦像は制作者に戻る 国家歴史委に事前通告なし マニラ市「撤去は政府の判断」
 撤去された慰安婦像は制作者の彫刻家ロセスさんに返還されていたことが分かった

【写真】制作者のロセス氏に戻された慰安婦像=30日午後8時ごろ、ルソン地方リサール州で冨田すみれ子撮影

 首都圏マニラ市の湾岸遊歩道から27日夜に撤去された慰安婦像が、彫刻家で像のデザインと制作を担当したジョナス・ロセス氏(42)の元に返還されていたことが30日、分かった。
 ロセス氏によると、慰安婦像は28日午前0時ごろ、民間業者のトラックの荷台に積まれ、ルソン地方リサール州のロセス氏宅に届けられた。「像を見てとても悲しく、動揺した。フィリピン政府は自国民である元慰安婦のために(像への批判に)立ち向かう道を選ばなかった」と憤った。
 撤去の知らせを受けたのは約1週間前で、像設置を企画、資金を提供した中華系比団体「トゥライ財団」から聞かされたという。その際、同氏は像を引き取ると伝えた。
 ドゥテルテ大統領は29日未明にダバオ空港で行った会見で慰安婦像について「私有地に設置するなら構わない」と述べている。ロセス氏によると、トゥライ財団はマニラ市内の教会などに設置を打診をしているという。
 慰安婦像は比国家歴史委員会などが承認して昨年12月に建てられた。同委員会は30日、像撤去をめぐる緊急会議を開き、今後の対応などを検討した。今回の撤去に関して委員会は、まにら新聞に「事前に知らされることはなく、報道で撤去を知った」ことを明らかにした。委員会が作成した「記憶(メモラーレ)」との題のフィリピン語のプレートは行方不明のままで「返却されるのであれば、その手続きを取る」としている。
 一方、マニラ市には、比政府から公共事業道路省による撤去が行われることが事前に知らされていた。市広報担当者は「エストラダ市長による判断ではない」と強調した。 
     冨田すみれ子


http://japanese.joins.com/article/081/241081.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|main|top_news
「中央日報日本語版」 2018年5月2日14時52分
■ドゥテルテ比大統領、関係団体への慰安婦像撤去の説得を日本に約束=日本メディア
 フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領が、今年1月にマニラに設置された慰安婦像撤去のために関係団体を説得することを日本に約束したと産経新聞が2日、報じた。
 同紙によると、ドゥテルテ大統領は1月、自民党の河井克行総裁外交特別補佐と会談した際、フィリピン憲法の「表現の自由」との関係にも触れつつ、日本側の懸念と要請に理解を示し、慰安婦像設置を主管した関係団体を説得すると約束した。
 ドゥテルテ大統領は1月17日にマニラで河井氏と会談した。外交筋によると、河井氏は昨年12月に像がマニラ湾に面した遊歩道に設置されたことについて「日本側は激怒している」と批判した。その上で、河井氏は安倍晋三首相のメッセージとして「慰安婦像の設置を懸念している。日本はアジア女性基金を設立し、歴代首相も謝罪の手紙を出した」と伝えた。
 フィリピンのメディアによると、ドゥテルテ大統領は4月29日の記者会見で、像の建立や撤去は関知しないとした上で「日本の償いは何年も前に始まった。侮辱するのはもうやめよう」などと述べ、公共の場への設置に反対する考えを示した。
 一方、マニラに設置された慰安婦像は先月27日夜に突然撤去された。フィリピン女性団体連合は4月28日、記者会見を開き、「日本統治時代に犠牲になった数百人のフィリピン人慰安婦を侮辱し、フィリピン女性の尊厳性を冒とくしている」と非難した。続いて「日本とその操り人形がいくら伏せようとしても日本統治時代の惨状を知らせることを継続する」と強調した。


https://www.sankei.com/world/news/180502/wor1805020006-n1.html
「産経ニュース」 2018.5.2 06:00
■比慰安婦像撤去 ドゥテルテ大統領が関係団体説得 事前に日本に約束

【写真】4月28日、マニラの遊歩道に建てられていた「慰安婦像」は撤去され、周囲はビニルシートで覆われていた(フロイラン・ガルシア撮影)

 フィリピンの華人団体などがマニラに設置した日本軍占領下の慰安婦を象徴する女性像をめぐり、ドゥテルテ大統領が1月に「像を撤去するように関係団体を説得することを約束する」と日本側に伝えていたことが1日、分かった。像は4月27日に撤去された。安倍晋三首相と親しく、日本との関係を重視するドゥテルテ氏の判断が影響したとみられる。
 ドゥテルテ氏は1月17日にマニラで自民党の河井克行総裁外交特別補佐と会談した。外交筋によると、河井氏は昨年12月に像がマニラ湾に面した遊歩道に設置されたことについて「日本側は激怒している」と批判した。
 その上で、河井氏は安倍首相のメッセージとして「日本はアジア女性基金を設立し、歴代首相も謝罪の手紙を出した」などと伝えた。メッセージには「私とあなたが築いてきた過去最高水準の日比関係が悪化することがないようにご理解とご支持を賜りたい」との内容もあった。
 これに対しドゥテルテ氏は、フィリピン憲法の表現の自由との関係にも触れつつ、日本側の懸念と要請に理解を示し、関係団体の説得を約束した。
 フィリピンのメディアによると、ドゥテルテ氏は4月29日の記者会見で、像の建立や撤去は関知しないとした上で「日本の償いは何年も前に始まった。侮辱するのはもうやめよう」などと述べ、公共の場への設置に反対する考えを示した。


http://www.recordchina.co.jp/b596716-s0-c10.html
「Record china」 2018年5月1日(火) 11時50分
■フィリピンの慰安婦像撤去、中国ネットユーザーはどう見ているのか
 2018年4月30日、フィリピンの首都マニラに設置された慰安婦像が撤去されたことについて、中国のネットユーザーからさまざまな反応が寄せられている。
 マニラ市ロハス通りに設置されていた慰安婦像が、27日深夜に撤去された。市の当局者は「政府が下水道の改良工事のため一時的に撤去した」と話しているというが、今年1月に自民党議員がドゥテルテ大統領と会談した際にこの問題が取り上げられた際に、大統領は「対処する」と述べていた。また、フィリピンの現地メディアも、今回の撤去について同大統領が支持するような姿勢を示していると報じており、日本に配慮した可能性も指摘されている。像は中国系団体の助言の下、政府機関であるフィリピン国家歴史委員会が昨年12月に設置していた。
 中国中央テレビ(CCTV)が28日に中国版ツイッター・微博(ウェイボー)アカウントでこれを伝えると、ネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。「日本の東南アジアでの影響力を小さく見積もってはいけない」「日本の東南アジアでのイメージは中国より良いから」といった声や「日本が金を積んだのだろう。ドゥテルテは金を見ると目を見開くからな」といった声が目立ち、さらに「原則のない国だ」とフィリピンを批判する声も見られる。
 その他、「フィリピンの“精日(精神日本人。自分のことを精神的には日本人であると考える人々)”がやったのか?」と最近中国で問題になっている精神日本人を持ち出すユーザーや、「中国に像はあるのか?」と自国について指摘するユーザーも見られた。  (翻訳・編集/北田)
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「「強制徴用労働者像」設置をめぐり市民と警察・政府が対峙」

2018年05月02日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30466.html
「The Hankyoreh」 2018-05-02 10:53
■「強制徴用労働者像」設置をめぐり市民と警察・政府が対峙
 市民団体「戦争犯罪知らせよ」日本総領事館前の設置を要求  
 外交部「韓日間の外交問題発生」の理由で建設に反対

【写真】今月1日午前、釜山東区草梁洞の日本総領事館付近で強制徴用労働者像を建てようとする市民たちと、これを阻止する警察が対峙している//ハンギョレ新聞社

 釜山の日本総領事館前に強制徴用労働者像を建てようとする市民団体と警察の対峙ともみ合いが二日間続いた。結局、警察が労働者像を奪って設置を阻止すると、市民団体のメンバーらはこの日午後遅くまで抗議デモを行った。
 1日朝8時ごろ、釜山市東区(トング)草梁洞(チョリャンドン)の日本総領事館付近。前日の晩、ここに強制徴用労働者像を設置しようとしたが、これを阻止する警察と夜通し対峙した「積弊清算・社会大改革釜山運動本部強制徴用労働者像建設特別委員会」(釜山労働者像特別委)のメンバーと参加市民100人あまりが集まっていた。彼らはここで労働者像建設を阻止する外交部と釜山市、東区、釜山警察庁などを糾弾した。キム・ジェハ釜山運動本部代表は「釜山平和の少女像がある日本総領事館の前に労働者像を建てることができない状況が悲しい。これを阻止する警察は、親日行為をしたも同然だ」と批判した。
 午前9時50分ごろ。参加者たちが重さ1.2トン程の労働者像の下に鉄棒を敷いて転がしながら日本総領事館の方に移動すると、警察が立ちはだかり、もみ合いが起こった。参加者たちは「警察は日本総領事館から100メートル以内の区間についての集会制限をするだけであり、労働者像の移動を妨害する権利はない」と主張した。警察側は「管轄の地方自治体である東区役所が労働者像建設を阻止してほしいと要請したため、(法的に移動制限が)可能だ」と反論した。
 午前10時30分ごろ。警察は参加者たちに不法集会だとして何度も解散を通告した。続けて、保護具を着用した機動隊を投入し、市民たちが囲んでいた労働者像の確保に乗り出した。労働者像を押さえていた市民20人あまりは大声をあげ、全身で抵抗したが、まもなく警察の制限ラインの外に押し出された。市民たちは抗議し続けたが、警察は防具を着用した機動隊3個中隊を投入して労働者像を幾重にも取り囲み、市民の接近を遮断した。

【写真】1日午前、釜山東区草梁洞の日本総領事館付近で市民らが強制徴用労働者像の設置を試みると、警察がこれを阻止し、もみ合いが起こっている//ハンギョレ新聞社

 午後4時ごろ。日本総領事館近くで民主労総と5つの進歩政党の共闘宣言記者会見と労働者像建設大会が相次いで開かれた。主催側は集会参加者を5000人以上と推算した。警察は39個中隊約3000人を周辺に配置した。
 釜山労働者像特別委は、昨年9月から日本政府に戦争犯罪問題解決を求める意味で日本総領事館前の強制徴用労働者像の建設を推進した。特別委関係者は「日本総領事館の前に建てれば、日本の朝鮮人強制徴用の蛮行を市民たちに広く知らせ、日本政府に警告することができる」と話した。キム・ビョンジュン釜山労働者像建設特別委執行委員長は「強制徴用の犠牲者らはいまも苦しんでいる。政府がすべきことを市民たちがやっているのに、妨害しないでほしい」と話した。
 特別委が日本総領事館前に固執する理由は簡単だ。他の場所は強制徴用労働者像を設置する意味が弱くなるということだ。例えば、釜山には2つの平和の少女像があるが、日本総領事館の前にある少女像だけが知られており、草邑洞(チョウプドン)学生教育文化会館広場にある少女像は、市民のほとんどがそこにあることも知らない。

【写真】1日午前、釜山東区草梁洞日本総領事館付近で警察が市民とのもみ合いの末に強制徴用労働者像を確保した//ハンギョレ新聞社

 しかし、外交部と釜山市などは「韓日間に外交的紛争をあおり得る」という理由で反対している。代わりに南区にある国立日帝強制動員歴史館に設置することを提案した。すでに日本総領事館前に設置された平和の少女像をめぐり韓日間で対立が生じている状態だからだ。また、朴槿恵(パク・クネ)政権の慰安婦問題合意を文在寅(ムン・ジェイン)政権が事実上認めなかった点をめぐっても両国は衝突している。ここに強制徴用労働者像まで設置されると、ただでさえ良くない両国の関係はさらに悪化するものと予想されるというのが政府の見解だ。

釜山/文・写真 キム・ヨンドン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/842835.html
韓国語原文入力:2018-05-01 19:12


http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2018/05/02/0400000000AJP20180502005500882.HTML
「聯合ニュース」 2018/05/02 18:12
■徴用工像の行き先に注目 釜山・日本総領事館前への設置阻止
【釜山聯合ニュース】日本による植民地時代に朝鮮半島から強制徴用された労働者を象徴する像(徴用工像)の設置場所がどこになるか注目が集まっている。韓国の市民団体は1日、徴用工像を南部・釜山の日本総領事館前に設置する計画だったが、警察に阻止された。像は2日現在、総領事館近くの歩道に置かれており、警察官約25人と警察車両1台によって囲まれている。

【写真】釜山の日本総領事館近くの歩道に置かれた徴用工像=(聯合ニュース)

 徴用工像の設置を進めていた市民団体「積弊(積み重なった弊害)清算・社会大改革釜山運動本部」の強制徴用労働者像建立特別委員会は、現在、徴用工像が置かれている場所が、最終的な設置場所になるとの見解を示している。
 ただ、本来の計画通り、総領事館前に設置された旧日本軍の慰安婦被害者を象徴する少女像の隣に置くべきとの声も市民団体の一部から出ている。
 市民団体側が徴用工像を総領事館前へ動かそうとすれば、警察が阻止する可能性が高い。
 総領事館前の警備を管轄する東部警察署の関係者は「政府がウィーン条約により、外交公館を保護しなければならないと要請しているため、像の設置を防いだ。今後も(総領事館前への設置を)防ぐしかない」と説明した。
 領事館前の道路を管轄する釜山市東区の朴三碩(パク・サムソク)区庁長は「政府や釜山市が(事実上反対の)立場を発表したため、そこから逸脱することができなかった」と説明。現在、像が置かれている場所は歩道の中央で、今後移動を求める要請が増えることが予想されるため、総領事館から近い場所にある鄭撥(チョン・バル)将軍像の近くに移す方向で市民団体と協議するとの方針を明らかにした。
 だが、外交部は鄭撥将軍像周辺についても総領事館と距離が近いため、認めないとの立場を東区に伝えたことが分かった。
 また市民団体側も現在の位置よりも総領事館から遠ざかるため鄭撥将軍像周辺に徴用工像を設置するつもりはないとの立場を明らかにしている。
 市民団体はメーデーの5月1日に合わせ、前日夜から像の設置を試みたが、外国公館の周囲100メートル以内での集会や行進が禁じられていることなどを理由に警察に阻止された。その際に、もみ合いが起き、市民団体メンバー約10人が負傷した。


http://japanese.joins.com/article/073/241073.html?servcode=400§code=400&cloc=jp|main|top_news
「中央日報日本語版」 2018年05月02日13時19分
■釜山「強制徴用労働者像」設置めぐる衝突で少女像が毀損?

【写真】釜山日本総領事館前に設置された平和の少女像。(写真=中央フォト)

 釜山(プサン)の市民団体が日本総領事館前に「強制徴用労働者像」を設置するのを阻止する警察が「平和の少女像」を毀損したという主張が出てきた。
 少女像を守る釜山市民行動によると、1日午後、警察と「強制徴用労働者像」を設置しようとした市民団体の物理的な衝突で少女像の椅子と隣の椅子を固定していたピン2個が毀損した。
 これは強制徴用労働者像の設置を阻止する過程で警察が市民団体の会員を少女像側に押したことで生じたと、団体側は推定している。
 これに対し警察関係者は「少女像の毀損に関して入っている情報はない」とし「まだ把握されていない」と述べた。


http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/05/01/2018050102419.html
「朝鮮日報日本語版」 2018/05/01 22:05
■釜山の徴用工像設置ひとまず断念、デモ隊と警察は夜通し衝突
 釜山日本総領事館前の徴用工像設置、警察が阻止
 現場騒然、車線規制で市民生活に大きな影響

 韓国の市民団体が1日午後、釜山の日本総領事館前に、日本による植民地時代に韓半島(朝鮮半島)から強制徴用された労働者を象徴する像(以下、徴用工像)を設置する計画だったが、警察によって阻止された。市民団体は強制的に解散させられたが、その後も近くの公園で「親日勢力は去れ」などと叫びながら警察とにらみ合いを続け、午後5時ごろひとまず解散した。

★警察、銅像を何重にも取り囲み市民団体の接近を阻止
 徴用工像の設置を計画していたのは、全国民主労働組合総連盟(民主労総)釜山本部が主導する市民団体「積弊清算・社会大改革釜山運動本部」。同団体は1日午後2時ごろから日本総領事館(釜山市東区)近くでメーデーの記念集会を開き、同3時43分ごろから集会を終えた参加者約3000人が日本総領事館に向かい始めた。参加者らは総領事館から250メートルの地点まで行進を続けた。警察は約3000人を動員して総領事館への接近を阻止。警察は総領事館から100メートルの地点に規制線を張り「この線の中での集会やデモ、更新は禁止されており、違反した場合は処罰される可能性がある」と繰り返し警告した。デモ隊は規制線に近づき「道を開けろ」と叫んだが、警察は法に則った集会を開くよう放送で警告した。
 総領事館前に設置される予定だった徴用工像は、警察の警戒網から100メートル離れた歩道で警察が何重にも取り囲んだ。午前中には、徴用工像を日本総領事館前に移動しようとしたデモ隊と警察が衝突したが、警察はデモ隊を解散させる際に銅像を確保し、銅像に接する車道に車両3台でバリケードを築き、銅像を取り囲んで市民団体メンバーの接近を阻止した。

★デモ隊、午後5時ごろひとまず解散
 銅像の確保に失敗したデモ隊は午後4時40分ごろ、近くの公園に移動し「親日勢力は去れ。労働者像を設置させろ」と叫びながら集会を続けた。
 これに先立ち市民団体は前日の午後10時30分ごろ、フォークリフトを動員して徴用工像を日本総領事館前に運ぼうとしたが、総領事館から100メートル離れた与党「共に民主党」の党舎前で警察に制止された。団体は警察が「1日のメーデー記念大会の後、日本総領事館周辺でのデモ行進を規制する」と通告したため、前夜にゲリラ的に設置を強行しようとしたのだった。
 このときデモ隊およそ100人は1日未明まで警察約500人と夜通し対峙(たいじ)し、徴用工像設置を阻止しようとする警察を大声で非難しながら何度も警察ともみ合いになった。また、デモ隊は1日午前10時45分ごろにも警察と激しくぶつかり合った。警察はこれについて「デモ隊が総領事館から100メートル以内に進入しようとしたためで、連行者はいない」と説明した。デモ隊側は「徴用工像を設置するために平和な形で集まった市民を武力で鎮圧した」として、腕を折るなど複数の負傷者が出たと主張した。
 この日は大規模な集会によって、8車線道路の4車線が400-500メートルにわたって規制され、激しい渋滞を招いた。
          釜山= 権慶勲(クォン・ギョンフン)記者


http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2018/05/01/0400000000AJP20180501002800882.HTML
「聯合ニュース」 2018/05/01 17:57
■日本総領事館前への徴用工像設置 警察が阻止=韓国・釜山
【釜山】メーデーの1日、韓国の市民団体が日本による植民地時代に朝鮮半島から強制徴用された労働者を象徴する像を南部・釜山の日本総領事館前に設置する計画だったが、警察に阻止された。

【写真】日本総領事館付近に集まった市民団体=1日、釜山(聯合ニュース)

 総領事館付近でメーデーの記念集会を開いた市民団体のメンバー約4000人(警察推計)は、午後3時45分ごろから行進を始め、同5時ごろに集会を終えた。主催者側は総領事館の隣のビル前に置かれている徴用工像を動かさない方針を示した。
 警察は約3000人を動員し、市民団体が徴用工像の設置を予告していた総領事館前の歩道など周辺を完全に封鎖し、総領事館への接近を阻止した。

【写真】徴用工像を囲む警察=1日、釜山(聯合ニュース)

 市民団体「積弊(積み重なった弊害)清算・社会大改革釜山運動本部」の強制徴用労働者像建立特別委員会は、メーデーに合わせて総領事館前に徴用工像を設置する計画を明らかにしていた。前日の4月30日夜から像の設置を試みたが、警察は総領事館の周囲100メートル以内での集会や行進が禁じられていることなどを根拠に、同委員会メンバー100人余りを像から引き離す強制排除に踏み切った。もみ合いが起き、約10人が負傷した。
 韓国政府は、総領事館前への像の設置は不適切との立場を表明していた。
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