三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章 1

2015年08月24日 | 海南島近現代史研究会
 『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章は、「海南岛近现代史研究会主要成员文章摘录」です。
 その目次は、つぎのとおりです。
      调查文昌市昌美村“九·廿二”惨案/佐藤正人………………………………………233
      第一次参加调查日军侵略海南岛活动/佐山和子…………………………………·238
      第一次访问海南岛的想法/竹本升 …………………………………………………241
      参加海南岛的调查/日置真理子 ……………………………………………………243
      参加海南岛的调查/崎久保雅和·……………………………………………………245
      海南岛记事/金智媛·…………………………………………………………………247
      观看纪录片《日本占领下的海南岛 60年前如昨日》/足立正生……………………249
      站在“侵略犯罪没有时效”立场的历史证言――看摄影集《日本侵略
     海南岛与抗日反日斗争》/太田昌国 …………………………………………………251
      抗日志士邢诒壮/邢越 ………………………………………………………………254
 収録されている文章は、すべて、南海出版公司編写組が、独自に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』、紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』、海南島近現代史研究会『会誌』などから選択したものです。
 同書には漢語文のみが掲載されています。

■「观看纪录片《日本占领下的海南岛 60年前如昨日》/足立正生」の原文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』41号(2005年5月1日発行)に掲載されたもので、その全文はつぎのとおりです。


  ドキュメンタリー・ビデオ「日本が占領した海南島で」を観て
                    
                           足立正生  2005年2月

 ビデオ作品「日本が占領した海南島で」を観ていると、どくどくどくと鼓動が弾み始め、映像を焼き付けた脳裏が独りでに蠢動を始め、全身が映像の中に吸い込まれて行く。
 この、紺碧の空と濃緑に囲まれた美しい海南島の郷土で、強制連行され強制労働で痛めつけられた「朝鮮村」の人々が、何を恨んで死んで行ったかを感じ取ろうとする。
 今はただただ荒野の滑走路跡にどれほどの血と魂が吸い込まれているのか。その島を占領した日本の軍隊と国策企業が強行した戦争犯罪の史実の実態を記憶しようとする。
 生き残った現地の人々の語りが聞こえる。日本語のナレーションが語る。
そう。そこに描かれていくのは、例え60年以上が経つ今でも、決して風化していない事実である。事実の実態である。
 いや、ビデオを観ているうちに、その事実と事実が相乗して、いつの間にかビデオ映像が繰り広げる事実の世界に降り立ち、観る側にいたはずの視点がいつの間にか逆転して、事実の側から自分自身を照射していることに気付く。
 人々に降り注いだ厄災の数々は、今も村の人々のなかで事実として生きられている。
 彼らは、それを抱きかかえ、その重みの中で日々の生を紡ぎ続けている。
 そう。彼らは、血肉に蘇える怨念を、今も事実の姿として語るのである。
 私は、既に高鳴り始めた脈拍と鼓動の中で、生き残った海南島の人々が物語る言葉に、一々共鳴する。語る老爺の目元と表情に溶け込んで、思いは傍に寄り添って手を握りしめている。
 そして、この老爺の掌の温もりを感じた時、いつもこうなのだ、と一緒に頷く。
 そして、全く同じような事実の世界に抱かれていた時間を思い起こす。
 26年間、私が生活を共にしていたパレスチナの人々も、家族を虐殺され村を焼かれて追われた難民生活の中で、自分に降りかかった厄災の数々を語った。しかし、迸り出る言葉さえもどかしくなり、自然と伸びた両手が故郷の村の姿を描き始め、瞳はその村の光景を見つめて虐殺の現場にたどり着く。全身が一瞬凝固して、やがて、全てを飲み込んで胸をかき抱き、オリーブの木が、母が、父が、兄弟姉妹が、子供たちが、と瞑目したまま動かなくなる。それを今、新たに海南島の人々の語りに共鳴させて聞いているのだ。
 今、「日本が占領した海南島で」の中で人々が語るのは、風化しようにも風化できない事実なのである。
 私たちは、この事実を、よしんば認めた時、それを「60年前の史実」だと言う。
 しかし、果たして「60年前の史実」にくくって納得することで済むのだろうか。このビデオが史実を事実として語るのを観て、史実は今もおき続けている現在の事実実態でしかないことを感得させられる。
 このビデオを観て始まった私の、止みそうにも無い蠢動は、その60年前の史実を現在の事実として共にきることを問われて起こった驚きの実態だろう。史実という認識と今感得した事実が矛盾したのか。いや、今語られている事実に直面し、史実の彼方に葬り去ろうとした人々の血と魂が私を揺さぶっているのだと思う。
 恐らく、「日本が占領した海南島で」を何度も何度も見続けることによって、史実を事実に手繰り寄せる試みを、自分が今生きている喜びにしていくことになるだろう。(了)      
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