三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章 7

2015年08月30日 | 海南島近現代史研究会
■「参加海南岛的调查/崎久保雅和」の原文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』36号(2002年10月21日発行)に掲載されたものです。その全文はつぎのとおりです。

  
     海南島調査に参加して
                        久保雅和

 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の活動を海南島へむすびつけていったのは、田独鉱山(石原産業)、朝鮮村(日本軍による朝鮮人虐殺)であり、日本がおこなった侵略の問題、戦後責任の問題だと思います。わたしはこの会での調査活動を通じてはじめて海南島での虐殺や強制連行、強制労働の問題を知り、今春(02年3月・4月)、はじめて海南島での現地調査活動に参加しました。
 この海南島の問題が現在に続く問題であることを思った出来事がありました。
 わたしが今回の現地調査に先立ち、日本に現在も生きている、海南島を占領した日本軍(海南警備府)に所属していた日本人男性への直接聞き取り調査に同行したときのことです。待ち合わせの場所にはやくついたわたしはぶらぶらとあたりを歩きまわっていたのですが、偶然、家が立ち並ぶなかに小さな墓地を見つけました。こじんまりとした、でも手入れの行き届いた閑静な住宅街に似合うような小さな墓石を見て歩いていると、その風景のなかで異様なまでに背の高い、先のとがったおおきな墓石に行きあたりました。そのいかにも居丈高で硬質な感じを与える墓石には「陸軍……島で戦死」などの文字がきざまれているのが見てとれました。 
 会のみなさんと落ち合ったとき、見せてもらったのが、海南島の朝鮮村で見つかった、日本軍に虐殺された朝鮮人の遺骨の写真でした。それは激しい損傷を受け、土の中に埋められたままの遺骨でした。
 その日、聞き取りを行う男性は、この朝鮮村での虐殺について知っている可能性のある人でした。自宅の玄関前でわたしたちと会った、その老人はわたしたちの質問に答えようとはしませんでした。ただ、後日、再度訪れた竹本さんの、「海南島は暑かったですか」との質問に対して、彼は「木下はそんなに熱くはなかった」と答えたということを聞いたとき、わたしはある生々しさを感じていました。
 わたしの前に、象徴するかのようにあらわれた、年老いた彼、彼が家族とともに住むであろう彼の「家」、小さな墓地の異様に大きな墓石、その墓石と彼の閑静な「街」。そして、朝鮮村で見つかった、その名もわからない朝鮮人の遺骨。彼はあの墓石のように固く口を閉ざして死んでいくのだろうか、この社会は、自らがおこなった侵略、虐殺、強制労働を隠しつづけ、あの「墓石」だけを歴史に残していこうというのだろうか……。なぜ海南島にわたしは行くか、その答えを知ったような気がする聞き取り調査でした。
 
 海南島では、歴史の説明ではわからない、ことばにできないような次元から多くの体験をしたと思います。わたしが歴史を語るときのことばからはあふれ出てしまう現実。それ以上に、実際に体験した人にとってはどれほどのものだったろう。
 歴史のヨコ軸を広げていくと見えてくる日本の歴史の姿というものがあると思います。それをわたしは、この一連の聞き取り調査をつうじて、それぞれの人たちの人生に刻まれた歴史のなかから見たのだと思います。被害を受けた、殺された多くの人の存在を隠しつづけ、「今」を当然に生きていってしまう、そんなことでいいのだろうか。埋められた歴史をあきらかにして、わたしの、わたしたちのあり方を問うていきたい。

 わたしの海南島調査についての報告は、「月刊むすぶno.377、no.378、no.380、no.382」に載ってます。
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