三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章 6

2015年08月29日 | 海南島近現代史研究会
■「参加海南岛的调查/日置真理子」の原文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』36号(2002年10月21日発行)に掲載されたものです。その全文はつぎのとおりです。

 
     海南島調査に参加して
                           日置まり子

 今年の春の海南島調査に初めて参加しました。三亜、黄流、石碌、新盈、海口、陵水、保亭とまわりました。ちょうど海南島を西回りで一周した形になります。時間切れで東部分はあまりまわれませんでした。調査の内容はパトローネや月刊むすぶに他の方々が丁寧に書いてくれているので、わたしは感想を書こうと思います。
 キムさん、佐藤さん、斉藤さんがこれまでの調査でしりあった人を探してまた聞いたり、移動の間に老人を見つけて飛び込んで聞いたり、運転手に教えてもらったりなどの手段を取りました。老人の記憶、昔こんなことを聴いたことがあるとか今も残っている建物などから日本軍の侵略の歴史を知っていきました。黄流の田んぼの真中にある大きな日本軍の飛行場跡が今は住民のトイレがわりになっていたり、イモや作物を干すのに使われていたりしました。また新盈では「慰安所」に使われていた建物(元々旅館だったそうです)に人が住んでいました。「慰安所」に実際立ってみると日本人であるわたしが居てていいのかという気持ちになります。ちょうど雨が降りだして、子どもたちがたうさんまわりにいて……その空気は忘れられません。一緒にいる日本人の男性で昔の日本兵の誰かに似ている人がいたら、その土地の人は本当にいやな思いをしてしまうだろう、などと想像していました。その土地にも人々の記憶や生活の中にこんな侵略のあとがあるということに本当に驚きました。一方侵略した側の日本に住んでいる日本人であるわたしは侵略したという記憶を自分でかなりの努力をしなければ持つことができません。わたしは海南島という名前も昨年始めて聞きました。友達にも知っている人はいませんでした。このことがわたしも含めて日本社会は侵略の歴史をずっと取ってきていないということを示していると思います。
 海南島ではたくさんの人に助けてもらいました。運転手の人たちは海南語を漢語に訳してくれましたし、街の人が手続きのことで間に入ってくれたり、行く先々で多くの人が寄ってきて世話を焼いてくれました。中でも石碌ダムに連れて行ってくれた黎さんは忘れられません。春にはおなかにいたあかちゃんが8月5日に生まれたとこないだ手紙がきました。書ききれないほどたくさんの手助けの中でわたしはいろんなことを知り、反省しました。
 もうひとつ大きかったのは経済格差のことです。大きな街に行くと、ゴミ捨て場におばあさんが座っていたり、半地下になった広いゴミ捨て場をふとのぞくと人が住んでいるのを見ました。市場の近くでは女の人が顔をタオルや帽子で隠すようにして麻袋に拾ったものを集めていました。ある街では夜に子どもが二人、大きすぎる服を着てやはり麻袋にものを集めていました。恐ろしいことですが、障がい者にほとんど会うことがありませんでした。海南島の生活は日本に住む私にとってはとても安かった。おどろくことに京都から関西空港までの行き来のほうが、2週間弱の海南島の生活費を上回るほどであったということです。海南島ではあまりお菓子もないし、電話もテレビも普及していません。洗濯機などありません。村では子どもたちは裸足で、学生も非常に少ない。わたしの住む日本がアジアに対する経済侵略の上に成り立っているということを実感しました。
 先日、海南島で会った数少ない学生から手紙をもらいました。袁さんと言います。手紙には侵略した日本人は冷血な怪物でその三世代、四世代とも一緒に食事をしたくないと思っていたと書いてありました。わたしはその三世代です。そして日本は侵略をしつづけ、ともに生活する在日朝鮮人を日本人は差別し続けています。わたしは袁さんにどう返事を書くか、今ものすごく悩んでいます。
コメント
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