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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 33

2013年02月18日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 24
 「朝鮮村試掘」を始める少し前、2006年4月20日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会はつぎのような呼びかけと報告をおこなった。

■2006年5月海南島「朝鮮村試掘」の目的■
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2006年5月に「朝鮮村試掘」を行なうことにしました。参加を希望する方、あるいは日程を知りたい方は、会あてに連絡ください。
この文書の公開が遅くなったのは、韓国の真相糾明委員会からの最終連絡を待っていたからです。

★「試掘」規模:5平方メートル~7平方メートルを想定。
 ただし、地権問題などにより、こんかいの「試掘」が、最初で最後の科学的「発掘」となるおそれがあるため、条件があれば規模を拡大する。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会だけで、「朝鮮村発掘」をやりとげることはできない。会だけで独自に「発掘」するとしても、それは「試掘」であって、わたしたちができるのは、本格的・全面的な「朝鮮村発掘」の前提作業だけである。

★目的:
1、「朝鮮村」における日本人による朝鮮人虐殺の事実を確かめる。
 1998年6月から2006年4月まで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は30回あまり、「朝鮮村」を訪問してきた。おおくの村人が、日本侵略時に、朝鮮人が「朝鮮村」とその周辺で日本人によって強制労働させられ、虐殺され、埋められたのを目撃したと証言している。
2、はじめての科学的な「発掘」をおこなう。
 2001年1月の韓国MBCらによる「発掘」によっても、朝鮮人が埋められていた事実ははっきりしたが、その「発掘」方法・記録は十分には科学的でなかった。今回は、全面的な科学的「発掘」の前提として、朝鮮人が埋葬されていると村びとが証言する広い地域のうちの僅かな部分を、慎重に考古学者の指導のもとに可能なかぎり科学的に「試掘」する。
3、死因を特定する。
 ①埋葬様式、②埋葬状態、③遺体状態、④遺骨、⑤遺物状態、⑥遺物内容などを解析・鑑定・分析し、できるかぎり死因を特定する。
 朝鮮人であるかどうかは、埋葬様式と埋葬状態の分析によってできるだけ明らかにする。
4、公的機関による全面的「発掘」をうながす。
 「朝鮮報国隊」に入れられていた朝鮮人が「朝鮮村」に埋められたという事実は、おおくの「朝鮮村」村びとの証言、および当時の日本人刑務官(衣笠一第7次「朝鮮報国隊」派遣中隊長、のちに部隊本部庶務主任)の証言によって明らかであるのだから、今回の「試掘」は、韓国政府と日本政府による全面的「発掘」→鑑定、犠牲者追悼、日本政府の引責・謝罪・責任者処罰の第1歩である。
5、「朝鮮村発掘」は、日本の侵略史の発掘、日本の侵略犯罪の発掘である。
 「朝鮮村発掘」が国民国家日本の侵略犯罪・他地域・他国侵略史の発掘である以上、それをおしすすめることは、国民国家日本の近現代史と全面的に対決することである。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日本政府(総理大臣、法務大臣、厚生労働大臣)に「“南方派遣朝鮮報国隊”の真相究明にかんする要請」をおこなったが、厚生労働省職業安定局総務課から「厚生労働省では“南方派遣朝鮮報告隊”に関する資料がないため、要請に対してお答えすることができません」(「南方派遣朝鮮報国隊」と書くべき個所が、「南方派遣朝鮮報告隊」となっていた)という「回答」があっただけである。

★附記 
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2002年4月17日に金大中大統領に、2003年5月5日に盧武鉉大統領に、①「朝鮮村」に埋められている人たちの遺骨の死因を解明してほしい、②「朝鮮村」の遺骨の処遇を国家プロジェクトとして考えてもらいたい、と要請した。
 これにたいし、2003年11月12日付けで、韓国外交通商部長官から、
   「海南島をふくめ、海外に所在する日帝時代の韓国人犠牲者の遺骨奉還と関連して、外
   交通商部ではまず、日本、および太平洋各地を調査し、実態調査を実施した後、総合的
   な計画を樹立したあと、汎政府次元で推進するのが望ましいという立場です」
という公文書が送られてきた。
 2004年11月に、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が韓国国家機構として設置され、2005年2月1日から、強制動員被害真相調査申請と被害申請の受付開始した。
 2005年4月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会に、日帝強占下の海南島における朝鮮人強制動員・虐殺被害真相糾明を共同でおこなうこと、そのために、「朝鮮村」発掘をおこなうことを提言した。
 この提言に、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は同意したが、それからこんにちまで1年間、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は、海南島での組織的調査も「朝鮮村」発掘の具体的準備もすすめてこなかった。
 ほんらい、海南島における日本の朝鮮人にたいする侵略犯罪は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が職権で調査すべきであるが、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会の要請に応じて、2005年6月23日に、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会にたいし調査請求をおこなった。その請求は同年9月2日に受理されたが、請求内容にかかわる回答は、これまで届いていない。
 いつまでも放置しておくことができないため、やむをえず、こんかい紀州鉱山の真実を明らかにする会が独自で「試掘」せざるをえなくなったが、全面的な「発掘」は今後の課題である。ただし、地権問題が複雑化しており、こんかいの「試掘」後、埋葬地が「開発」=破壊されるおそれが生じている。
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 32

2013年02月17日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 23
 2006年4月4日の『朝日新聞』各地域版に、紀州鉱山の真実を明らかにする会が「朝鮮村」に埋められている朝鮮人の遺骨を「試掘」することにかんする記事が掲載された。版によって記事がすこし異なっていたが、西部版(2006年4月4日夕刊)の記事は、写真とそのキャプションを除いて、ほぼ、つぎのとおりであった。
                                          佐藤正人

■■海南島 無念の骨探る■■
   戦時中 鉱山強制動員の朝鮮人
   日本の市民団体 試掘へ

 戦時中に日本が占領した中国・海南島で数百人の朝鮮人が殺害された疑いがあるとして、関西や北海道の民間研究者や大学教授らでつくる「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が、遺体が埋められたとされる場所を年内に試掘する。
 法医学者や考古学者の協力も得て、遺骨が朝鮮人のものかどうかを調べる。6日までメンバーが現地入りして、準備を進めている。(佐藤純)

 韓国政府の「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」も朝鮮人が殺害された可能性があるとみて、昨年夏に担当者を海南島に派遣した。同会は試掘の結果を踏まえ、韓国政府に本格的な発掘を働きかける方針だ。
 防衛庁防衛研究所の「戦史叢書」によると、旧日本軍は1939年2月に海南島を占領し、軍政を敷いた。南進の足場とする目的のほか、島内の天然資源も狙った。石原産業や日本窒素肥料(現チッソ)などが鉱山開発に進出したという。
 朝鮮総督府法務局内に置かれた財団法人治刑協会が刑務所の運営状況などを伝えた雑誌「治刑」は、海軍の要請を受けた総督府が43年、朝鮮半島の受刑者らを「南方派遣報国隊」として海南島に派遣し、土木工事や採掘をさせた、と伝える。
 同会は石原産業が経営した三重県の紀州鉱山に動員された朝鮮人の被害を調べたのを機に、海南島にも調査を広げた。海南島から受刑者200余人が生還した記録を韓国で見つけたが、残りの人たちの消息はつかめていない。
 会の協力で韓国の放送局は98、01の両年に計100体ほどの遺骨を発掘。頭部がない遺骨や穴が開いた頭蓋骨(ずがいこつ)も見つかったが、身元の特定には至らなかった。
 遺体が埋められたとされる場所の付近で開発計画が持ち上がっていることから、現場の情況が変わる前に改めて試掘することにした。
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 31

2013年02月16日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 22
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2006年3月19日から4月6日まで10回目の「現地調査」をおこなったが、そのさい、5月はじめに実行しようとしていた「朝鮮村」での試掘の最終準備もおこなった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、埋葬地が「開発」によって破壊されるおそれが生じているため、いつまでも放置しておくことができないので、やむをえず、独自で、2006年5月に、「朝鮮村」で「試掘」をおこなうことにした。
 その「試掘」は、あくまでも、韓国政府機関である日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会による全面的な「発掘」が実行されるための緊急行動であると判断し、2006年はじめから、なんどとなく、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会に「試掘」への協力をよびかけていた。しかし、まったく応答がなかった。
 ところが、後日2006年3月13日の新華網の記事をみて知ったのだが、紀州鉱山の真実を明らかにする会が「朝鮮村試掘」の最終準備に海南島に行く半月ほど前に、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会の孟康鉉調査官らが海南島に行っていた。
 以下は、そのことを伝えていた2006年3月13日の新華網の記事である。
 この記事によるかぎり、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会のこのときの海南島での「調査」の内容は、紀州鉱山の真実を明らかにする会がそれまで日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会に伝達してきた海南島「現地調査」の内容や独立紀念館から2005年4月14日に出版された韓国独立運動史研究所編『일제강점하 국외 한인피해 실태조사보고서 Ⅰ  중국 해남도지역(日帝強占下国外韓人被害実体調査報告書Ⅰ 中国海南島地域)』の内容に比べるなら極めてずさんなものであった。
                                           佐藤正人

 韓國首次來海南調查日佔時期朝鮮勞工受害真相
  http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/politics/2006-03/13/content_4299720.htm
  新華網海口3月13日電(紫荊 邢志生)
  “韓國日佔時期強制徵用受害者真相查明委員會”海南省調查小組一行2人,于6日至12日在三亞、陵水、東方、海口等地,尋訪當年被日軍擄掠到海南島的朝鮮勞工及慰安婦的遺跡,並通過相關資料調查“朝鮮報國隊”在此的受害真相。
  在為期一周的調查中,調查小組先後到三亞“千人坑”、三亞與陵水日軍機場遺址、八所港紀念碑、石碌鐵礦、海口等地,通過當地的幸存老人,找尋當年朝鮮勞工的遺跡,搜集資料,了解歷史真相。
  在三亞田獨鎮的“千人坑”,調查組通過當地健在老人及海南省政協《腥風血雨》一書證實,約有千名朝鮮勞工因饑餓、疾病、受虐等原因致死,集中埋葬于此,但填埋數量及方式還有待進一步調查核實。
  當時的受害者之一——現居美國的韓國人張達雄,曾于1998年重返三亞找到“千人坑”。此事經韓國電視臺制作專題片播出後,引起韓方高度關注,也為調查小組此次的調查工作提供了線索。調查小組從當時日佔時期的雜志確認,在1943至1944年間,約有2300多名朝鮮勞工被擄掠到海南島,從事建機場、修路、開礦等苦力活,遭到日軍的殘酷壓迫。
  韓國調查官孟康鉉表示,希望了解日本強制徵用朝鮮勞工到海南省這段歷史的知情者,能夠大力協助調查,提供有關資料,以共同紀念這段鮮為人知的歷史,教育子孫後代不忘國恥。
  據悉,“韓國日佔時期強制徵用受害者真相查明委員會”成立于2004年11月,直屬于韓國國務總理,旨在通過對世界各地史實的調查,查明日佔時期被強制徵用到世界各地的朝鮮受害者的真相,接受受害者及家屬的受害申告,通過調查判定是否確實,並通過建立紀念碑、資料館等設施安慰亡靈、教育後代。
  這個委員會計劃用3年甚至更多的時間,調查並匯總日佔時期被強制徵用的朝鮮勞工及慰安婦等受害者的情況。截至目前,他們已受理審告20萬件,正在開展相關工作,為判定物質與精神賠償提供依據。
  朝鮮勞工“千人坑”位于海南省三亞市田獨鎮南丁三羅村。上世紀四十年代,侵瓊日軍在海南島西部和南部修築公路、鐵路、橋梁和機場,大肆掠奪海南的礦產資源。日軍從朝鮮半島強徵青壯年到此,以“朝鮮報國隊”命名,強制他們從事高強度苦役。這些勞工被折磨致死或殺害後就填埋在此。為紀念這段悲慘的歷史,當地政府和群眾曾將此地命名為“朝鮮村”,一直沿用到1975年才改名為“三羅村”。(完)
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 30

2013年02月15日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 21
 第10回海南島「現地調査」 4
 ★楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村で
  邢亜响さん(1923年生。黎族)は、2006年3月31日、黒眉村の自宅の前でつぎのように話した。
   「はじめて日本軍がこの村に来たときは、逃げた。銃を持って、山に逃げた。何日間か
   逃げていた。戻ってきたら、家が全部焼かれていた。家を建てなおすと、また日本軍が
   来て全部焼かれてしまった。建てなおしては焼かれ、また建てなおしては焼かれ……。
    当時の家は、草葺でかんたんだから何回も建てなおした。(日本軍の)人数は、わから
   ない。
    保長が守ってくれた。保長が守ってくれなかったら、年寄り、子どもは、つかまって
   殺されたかもしれない。保長は40歳くらいだった。日本軍が来ないときは、農業をして
   いた。山のふもとで、保長は農業をしている人たちを守っていた。
    日本軍と何回も戦った。18歳から戦った。仲間は50人くらい。戦って逃げて、戦って
   逃げて、火薬を詰めて、戦って逃げて。日本兵を殺して銃を奪ったら、すぐに共産党に
   わたした。50人はみんな黒眉村の人。
   ‘我們是只有鋤頭、没有家’。
   (当時は)死んでも、光栄だと思った。戦友は足をけがした。日本軍、国民党軍、黒衣
   軍(漢奸が連れてきた国民党軍の人?)。
    日本軍が来たとき、逃げられなかった人は、殺された。人数はわからない。
    機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。日本兵
   を殺して、銃を奪った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射
   った。わたしたちの銃はよくなかった。いのししなどを撃つ銃で、火薬を入れて使う。
    銃はいまもある(家の中から持ってきて見せてくれた)。弓矢も使った。昔は、矢は
   鉄だった。矢もあるよ((家の中から持ってきて見せてくれる)。
    歌を歌いながら戦った。遊撃隊は、みんな歌えた。
      ‘日本鬼的大炮 コッコココー(擬声語、大炮の音)
       我們是做農的 打到敵人大炮 為国光栄 不做亡国奴’
    右足のももと尻の間を射たれたことがある。高揚感があった。
    戦わないときは、農業をして、家族を養っていた。日本軍が来ないときは、家族とい
   っしょに暮らしていた。でもあまり家に帰って来ることができなかった。漢奸がいるか
   ら。
    50人の中には、女性兵士もいた。女性兵士は、炊事をした。
    老包嶺で7日間、連続して戦ったこともあった。黒眉村は、もとは老包嶺のふもとにあ
   った。今は、人は住んでいない。大陸から来た人がバナナ園にしている。生産もできな
   いし、交通も不便だし、解放後、村がここに移った。日本軍、国民党軍が出て行った後
   に。
    日本軍が来たのは、わたしが生まれたもとの黒眉村だ。
    日本が敗けたことは知らなかった。後で、共産党が知らせてきた。それを聞いて、落
   ち着いて生産にも集中できた。牛を日本軍にとられていたので、政府から金を借りて、
   牛を買った。(そのとき以後、日本人を見るのははじめてか?)はじめてだ。(いま、
   日本人を見て、どう考えるか?)いい人だったら友好的に対する。いい人でなかった
   ら、戦う。
    ふたりの日本兵が椰子を盗んだことがあって、村のひとが捕まえた。ふたりは、自分
   たちはいい人間だといって、助けてくれといったので、逃がした」。

 邢亜响さんは、別れるとき、わたしたちに、「さようなら、同志よ」といって手を振ってくれた。邢亜响さんの「党員証」には、「1993年7月1日 共産党参加五十年」と書かれてあった。

 2006年3月31日から5年後、2011年3月1日に、わたしたちは黒眉村を再び訪ねた。1923年生まれの邢亜响さんが、しっかりした足どりでわたしたちを迎えてくれた(このブログの2011年4月19日~4月25日の「黒眉村」1~6をみてください)。
                                         佐藤正人
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国民国家の「新領土ノ発見及取得」 2

2013年02月14日 | 個人史・地域史・世界史
 日本政府は、1869年にアイヌモシリの一部を日本の領土とし(8 月15日に「開拓史」を設置)、1872年10月16日に琉球王国を「琉球藩」として日本の領土とした(琉球国王を琉球藩王とした)。その100年後の1972年5月15日に、日本敗戦後アメリカ合州国に占領されていた琉球は、「祖国復帰」した(日本に再併合された)。
 1875年5月7日に、日本政府は、ロシア政府と「樺太千島交換条約」を締結して「千島列島」全域を領土とした。
 その翌年、1876年10月17日に、日本政府は、「小笠原島ニ官庁ヲ設ケル」ことなどを12か国(ドイツ、オランダ、フランス、スペイン、アメリカ合州国、イギリス、オーストリア、ベルギー、デンマーク、イタリア、ペルー、ロシア)の在日公使に通告して「小笠原島」を日本の領土とした(内務省が管轄)。このとき、各国は、日本の領土化を黙認した。
 その2年半後、1879年4月4日に、日本政府は、「琉球藩」を「沖縄県」とし、琉球藩王を廃止し、「華族」の一人を県令(県知事)とした。
 
 日本外務省条約局が、『国際法先例彙輯 (2) 1933年10月調』として出した機密文書『新領土ノ発見及取得ニ関スル先例 島嶼先占』には、「帝国ノ為シタル島嶼先占事例」として、「小笠原島(1876年10月)」、「硫黄島(1891年9月)」、「久米赤島、久場島、魚釣島(1895年1月)」、「南鳥島(1898年7月)」、「沖大東島(1900年9月)」、「中鳥島(1908年8月)」が挙げられており、「外国ノ為シタル島嶼先占ニ対スル帝国政府ノ措置ニ関スル事例」として、「クリツバートン島(1898年)」、「ミッドウエー島及ウエーク島(1900年―1902年)」、「プラタス島(東沙島)(1907年―1909年)」、「ジャン、マイヤン島(1922年―1929年)」、「ブーベェ島(1928年―1929年)」、「ピーター一世島(1929年―1932年)」、「グリーンランド島(1921年―1933年)」、「パラセル島(西沙島)(懸案)」、「新南群島(懸案)」が挙げられている。このうち、「パラセル島(西沙島)」と「新南群島」は「(懸案)」と注記されている。
 「小笠原島」の日本領土化は、1933年10月調の日本外務省の機密文書では「帝国ノ為シタル島嶼先占事例」の最初の例とされていた。
 
 日本政府は、「小笠原島」を領土とした翌年(1877年)、「沖縄県」設置の2年前に「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」とする太政官指令をだし、「竹島外一島」(欝陵島と独島)は日本の領土ではないことを明示した(太政類典第二編には「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」と書かれている)。
 1891年9月9日に、日本政府は、勅令によって「硫黄島」を日本領土とし、東京府小笠原島庁所属とした。
 国民国家日本形成の初期、日本政府は、「小笠原島」と「硫黄島」を領土化した時期に、欝陵島とともに独島は日本の領土ではないと、公文書に明記していた。
                                         佐藤正人
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対三重県訴訟最高裁判決

2013年02月13日 | 紀州鉱山
 昨年10月3日に、名古屋高裁民事4部は、紀州鉱山で犠牲になった朝鮮人を追悼する碑の敷地に課税した三重県を被告(被控訴人)とする控訴審で、実質審理をほとんどしないで、課税を認める「判決」をだしました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、10月12日に最高裁に上告し、12月5日に上告理由書をだしました(上告理由書全文は、このブログの2012年12月5日~12月10日の「対三重県訴訟上告理由書」1~5をみてください。
 この紀州鉱山の真実を明らかにする会の上告に対する最高裁第3小法廷の「決定」(2013年2月12日付け)が、きょう(2月13日)、郵送されてきました。
 その主文は、「本件上告を棄去する」というもので、裁判官は、岡部喜代子、田原睦夫、大谷剛彦、寺田逸郎、大橋正春の5人でした。
                                     紀州鉱山の真実を明らかにする会
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独島問題の要点

2013年02月12日 | 個人史・地域史・世界史
■1、独島問題は、領有権問題でなく、植民地問題である。
   日本政府が、ロシアとの戦争のさなか、1905年1月28日の閣議で、独島を「本邦所属」と
  した理由は、
   ①、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡」がないこと、
   ②、「1903年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ 関係書類ニ依
    リ明ナル所ナレバ 国際法上占領ノ事実アルモノト認メ」
  というものであった。
   ①の理由は、大韓帝国政府が1900年10月25日に、「勅令」で、独島(トクト)を「石島(トク
  ト)」と書き記して欝陵郡の管轄地としており、日本軍艦「新高号」の1904年9月25日の日誌
  に、「「リアンコルド」岩韓人之ヲ獨島ト書シ」と記録しているのであるから、なりたたない。
   ②の理由も、1903年以前から独島で朝鮮人が「漁業ニ従事」していたので、なりたたな
  い。独島は水がほとんどない岩礁であり人が移住(長期に居住)することができない所で
  ある。したがって「1903年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ」ということも事実ではない。
   日本政府は、1905年1月に、大韓帝国の一部である独島を「併合」し、1910年8月に残り
  の大韓帝国全土を「併合」した。
■2、なぜ、そのようなことができたのか(世界近現代史における独島問題)。
    帝国主義諸国の他地域・他国侵略の世界史。
    帝国主義諸国の黙認・追認・同意。
■3、国民国家日本の形成過程→国民国家日本の領土拡大。
■4、いまなお領土拡大・他地域・他国侵略を肯定し続けている日本ナショナリズム。
   国民国家日本の独島再占領を具体化しようとする日本ナショナリズム。
    1905年に占領し「竹島」と命名した独島を、いまなお「竹島」と称し、「竹島は、歴史的事
   実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です」とする日本政府は、
   朝鮮植民地化の歴史的責任をとろうとしていない。国民国家が独島をふくむ大韓帝国を
   植民地としていなければ、朝鮮は分断されなかった。
    独島は、朝鮮で最初に日本の植民地とされた地域である。
    日本政府が、独島を「日本国家の固有の領土」と主張することは、国民国家日本の朝
   鮮植民地化を肯定することである。日本政府の独島再占領策動は、日本政府が朝鮮を植
   民地としたことを根本的に否定していないことを示している。日本政府は、国民国家日
   本が他地域・他国を侵略しつづけてきた歴史を全面的に否定しようとしておらず、基本
   的な謝罪も賠償も責任者処罰もしていない。
         2013年2月5日、日本政府は、前年11月22日に内閣官房に設置された「竹島
        問題対策準備チーム」を改組し「領土・主権対策企画調整室」を設置した。
■5、日本政府・日本ナショナリストの虚偽
    日本帝国政府は、大韓帝国の領土であった独島を、1905年1月に「本邦所属」として併
   合した。
    現在の日本国の政府は、1905年の日本帝国の独島併合を前提として、独島を「我が国
   固有の領土」であると主張し、独島の再占領を策動している。
    日本政府の独島再占領策動に加担し、独島を竹島と称し、独島を日本国家の領土であ
   ると述べる日本人歴史研究者は少なくないが、その策動を明確に批判する日本人歴史研
   究者は限られている。
    日本政府の独島再占領策動にたいして発言しない日本人歴史研究者は、客観的には、
   独島が「日本国家固有の領土」だとする宣伝に加担している。
    独島問題について、日本のおおくのマスメディアは、「日本側」の主張と「韓国側」
   の主張とを対立させ、日本ナショナリズムを煽動している。対立しているのは、「日本
   側」の主張と「韓国側」の主張ではなく、客観的な歴史認識と侵略的な日本国家主義的
   「歴史認識」である。
    独島が、日本の領土ではないことは、「韓国の論理」でも「日本の論理」でもなく、客観的
   な歴史的事実である。客観的な歴史的諸事実の認識にかんして、「韓国の論理」、あるい
   は「日本の論理」という「区別」をすることは、問題の本質を日本ナショナリズムの枠内
   にとじこめることである。
■補、地名が示していること
    1900年10月25日に、大韓帝国政府は、「勅令」第41号で、独島を「石島」と書き記
   し、欝陵郡の管轄地としている(『官報』第1716号、1900年10月27日、議政府総務局官
   報課)。この島を欝陵島地域の朝鮮人は、「ドクソム」(石の島という意味)とよんで
   おり、発音にしたがって漢字表記すると独島となる。
    日本の軍艦「新高号」の日誌の1904年9月25日の部分には、
      「松島ニ於テ「リアンコルド」岩の実見者ヨリ聴取リタル情報「リアンコルド」岩韓人
     之ヲ獨島ト書シ本邦漁夫等略シテ「リヤンコ」島ト呼称セリ別紙略図ノ如ク二個岩
     嶼ヨリ成リ……」
   と書かれていた。1904年9月以前に、朝鮮人が、この岩礁を独島と呼んでいたことが、日
   本軍の報告書に明記されていた。
                                           佐藤正人
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海南島近現代史研究会第7回総会・第12回定例研究会の主題

2013年02月11日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会第7回総会・第12回定例研究会を8月25日(日曜日)に大阪で開催します。
 主題は、海南島と沖縄 です。
 読谷村に生まれ育った知花昌一さんに主報告をしてもらいます。

 海南島と沖縄のつながりの一端については、このブログの2012年6月25日~30日の「沖縄で」3~8、2012年7月22日~23日の「「海南島海軍軍属募集」」1~2、および海南島近現代史研究会の会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号(2011年2月10日発行)に掲載してある浦島悦子「「鍬の戦士」たちの胸の内  沖縄からの三竈島移民・断章」」と蒲豊彦「日中戦争期沖縄の中国華南開拓移民団」をみてください。
                                         海南島近現代史研究会
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海南島近現代史第11回定例研究会報告

2013年02月10日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(2月10日)、74年まえ日本陸海軍が奇襲上陸し海南島侵略を開始した日、わたしたちは大阪で第11回目の研究会を開催しました。韓国釜山や東京など遠方からの参加者もあり充実した研究会になったように思います。
 今回の主題は「海南島と独島(竹島)」で、会場に、独島(「松島」)の位置を示す18世紀後半から1910年代までの地図(原本)が20点あまり展示されました。
 まず3人の主題報告が行われました。
 はじめに竹島=独島問題研究ネットの朴炳渉さんから「独島(竹島)の最新の歴史」と題して報告がありました。朴さんは、江戸幕府が独島をいずれの藩にも属さず、日本の領土ではない、として独島への渡海を禁止し、絵図でも現在の欝陵島と独島を朝鮮領として赤色をつけていたことを指摘し、1877年の太政官指令でも、独島を日本とは無関係なものと指令し、官撰地図、およびその他政府機関の資料でも独島を日本領とする公式資料はないことを指摘しました。日本政府が1905年までは独島を日本領とは一度もしたことはなかったことを実証しました。
 続いて、佐藤正人さんが「海南島と独島」と題して、独島問題は領有権問題ではなく、植民地問題であると述べました。国民国家日本はアイヌモシリ侵略いらいの他地域、他国を侵略する歴史のなかで独島を日ロ戦争のさなかの1905年に領土化し、現在もその歴史を継承している。独島を「日本固有の領土」と主張することは、そのような日本の侵略の歴史を肯定することである。かつて海南島の軍事占領が日本国民によって歓迎されたように、今日独島の領有権が日本ナショナリズムのもとに主張されている現実を国民国家日本の独島再占領を具体化する日本ナショナリズムの侵略に基づく歴史認識として批判的に位置づけるべきことを強調しました。
 続いて久保井規夫さんが「独島(竹島)問題の解明」と題して、日本政府の「竹島は歴史的にも国際法上も日本固有の領土」という主張がなりたたないことを実証し、そのなかで長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年初版)をはじめとする地図がいずれも、独島(当時は松島と呼んでいた)を朝鮮国の領土としていたことを明らかにしました。
 休憩をはさんで質疑応答が行われ、その後会場の参加者の自己紹介を兼ねて、一人一人の参加者から発言を受けました。
 会場の参加者のなかには、学校の教師として教育現場で歴史教育に携わっている方から学校では領土問題と天皇制はタブーのような社会的雰囲気があり、そのことに批判的に触れると「非国民」扱いされかねない雰囲気があること、育鵬社の歴史公民教科書のように「竹島は日本固有の領土」と明記した教科書を使いながら、生徒たちに歴史認識の視点から独島問題を教えることの困難さについての発言がありました。
 韓国の釜山から参加された歴史研究者から、強制連行の歴史、浮島丸事件の調査を続けてきたものとして、独島にかかわる歴史的事実を客観的な歴史認識の方法によって明確にしようとする本日の研究会にたいする共感のことばが寄せられました。
 パレスチナに連帯する運動に取り組んでいる参加者からは、独島を日本の領土拡張の流れの中に位置づける日本政府の思考を、イスラエルの入植者によるパレスチナの土地収奪と重ね合わせて捉える必要があるという指摘がありました。
  「“竹島の日”を考え直す会」のひと、在日の運動や差別の運動に取り組んでいるひとなど、今日の社会が抱える問題に実践的に取り組んでいる方がたなどからの発言も寄せられました。独島にかかわる現在の日本政府や島根県などの動きが、社会に分断の仕切りを入れ、ひとびとを排外主義へと駆り立てていく動きとして了解されていく共通の土壌がこれらの発言の中に芽生えているのを感じました。
 後半の報告は、昨年(2012年)10月~11月に行われた海南島現地訪問の報告が会員から行われました。はじめに斉藤日出治が海南島の地図で今回の旅程をたどりながら、日本軍に襲撃されて村民を殺害された各地の村で生存者からの当時の様子について聞き取りをした報告をおこないました。日本軍が村を襲い、村人を一か所に集めて銃殺、あるいは焼き殺し、家畜を奪い、生き残った村人を望楼や道路工事に駆りたて、さらには日本語学校を開設して日本語教育を押し付けようとした動きについて報告しました。
 続いて、キムチョンミさんが海南島西部の昌化江河口にある東方市四更鎮旦場村に訪問した時の報告を行いました。この村では1939年11月(農暦9月)に村人93人が殺害され、いま一人ひとりの名前を刻んだ追悼碑建立の準備を進めていること、「日寇惨殺旦場同胞 哀嘆長恨歌」という犠牲者を哀悼する長歌を歌ってくれたこと、旦場村委員会から「日本で開催される海南島近現代史研究会第11回例会で1939年9月23日(農暦)に日本侵略軍が無辜の村民93人を殺害した罪悪の歴史が天下に明らかにされる。日本政府は歴史を鑑とし、未来に向き合い、中日友好を発展させ、両国人民に幸福をもたらさなければならない。きょうの集会の成功を祝す」というメッセージが寄せられたことが報告されました。
 また、キム チョンミさんは、海南島の南部の「朝鮮村」で日本軍に殺害された朝鮮人が埋められている現場が高速道路建設によって破壊が進んでいる、遺骨や遺品を展示してあった展示場が荒れ放題で遺骨が何ものかに持ち去られている、遺骨が埋められている現場の半分が陶芸園の敷地になりあとはごみ捨て場のようになり雑草が生い茂る荒れ地になっている、という現状を報告しました。
 最後に、佐藤正人さんから今日の研究会の総括と、3月に行われる予定の第23回目の海南島訪問とこんごの海南島の人たちとの共同行動についての報告と提起があり、研究会を終えました。
 独島を「日本固有の領土」であると主張して国民を排外主義的ナショナリズムへと駆り立てていく動きに抗して、わたしたちが歴史の真実を明らかにすることを通して新たな連帯の歴史を築いていく、今日的で政治的な運動であることをあらためて実感した集会になったように感じました。
                                          斉藤日出治
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国民国家の「新領土ノ発見及取得」 1

2013年02月09日 | 個人史・地域史・世界史
 国民国家形成の過程で各国の領土が確定していくが、その領域は、国民国家形成以前の諸国家による他地域侵略の歴史を前提としている。
 国民国家形成以前、15世紀末以後、ヨーロッパ諸国は、他地域を植民地化していった。18世紀末以後の国民国家形成期にヨーロッパ諸国は、それ以前に「発見」していた他地域を、相互に争奪しつつ領土化していった。
 1776年に北アメリカ大陸内に形成されたイングランドの13個の植民地(東部13州)が「独立」してアメリカ合州国を建国したが、その後、この国民国家は、西部侵略を続け、90年後の1865年に西海岸まで領土を拡大し、さらに西方を侵略し、1898年にハワイ王国を「併合」した。現在、アメリカ合州国の領土の最西端は、グアム島である。グアム島は日本の最東端である南鳥島の南西の島である。
 チャモロ人の大地であったグアム島は、1565年にスペインの植民地とされた。1669年にスペインの政治的・文化的・宗教的支配に抗してチャモロ人は戦闘を開始したが、10万人のチャモロ人が5千人以下になったという。1898年にスペインがアメリカ合州国との戦争に敗北し、グアム島はフィリピン、プエルト・リコとともにアメリカ合州国の領土とされた。1941年12月8日に日本海軍がパールハーバーを奇襲攻撃してから約5時間後、日本軍はグアム島を爆撃し、2日後の10日に占領した。1944年8月にアメリカ合州国が再占領してから現在まで、グアム島はアメリカ合州国の領土(アメリカ合州国自治連邦区)とされている。
 ハワイ王国の島々、グアム島、フィリピン、プエルト・リコを領土とした翌年1899年にアメリカ合州国はウェーク島を「併合」した。1941年12月8日のパールハーバー奇襲の数時間後、日本海軍はウェーク島を爆撃して占領し「大鳥島」と名づけて領土化した。日本の敗戦後、1945年9月4日に、アメリカ合州国はウェーク島を再占領した。いま、1991年に独立したマーシャル諸島共和国がウェーク島の領有権を主張している。
 アメリカ合州国がハワイ諸島西北のミッドウェー島を領土としたのは、ハワイ王国を植民地とする30年あまり前の1867年であった。
 1880年にテ・アオ・マオヒ(タヒチ島、ムルロア環礁など。「フランス領ポリネシア」)は、国民国家フランスの領土とされた。ムルロア環礁は、1966年から1996年までフランスの核実験場とされた。
 1833年にイングランド軍がフォークランド諸島(マルビナス諸島)を軍事占領し、領土化した。150年あまり後の1982年にアルゼンチン軍が一時占領したが、イギリス軍に敗北した。現在もアルゼンチン南部のフォークランド諸島は、はるか遠くのイギリスの領土とされている。
                                           佐藤正人
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