三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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旦場村で 6

2013年02月05日 | 海南島
 昨年11月2日に、文開瓊さんが、「日寇惨殺旦場同胞 哀嘆長恨歌」をうたってくれたとき、おおくの村人が聞いていた。そのひとりの文玉方さん(1928年生)に話を聞かせてもらった。文玉方さんは、つぎのように話した。
   「あのとき、母と一緒に村の外にいたので助かった。父は日本軍が来る前に亡くなっ
   ていた。
    日本軍がいなくなってから、遺体を牛車で何回も運んだ。殺された人がおおくて、運
   ぶのに女性も手伝って牛車で何人もいっしょに運んだ。
   家族で1人だけ生き残った人が何人もいた。ひとつの家で5~6人の殺されたところもあっ
   た。ある家で父親がひとりだけ外にしごとに出ていて助かったが、その後、日本軍に殺
   されたという話も聞いた。
    耳がよく聞こえない80歳の女性がいた。日本軍が戸をたたいたが、はっきり聞こえ
   ず、戸をあけたら、家の入り口の土間の敷居に首を押し付けられ、刀で首を切り落とさ
   れた。3か月の子どもを背負って逃げたが、うしろから撃たれて子どもが殺され、そのあ
   と殺された母親もいた。
    当時の村の人口は1000人ほどだった。洞くつに隠れて助かった人も多かった。日本軍
   がときどき来るから、あらかじめ家々で地穴を掘っていた。
    日本軍は抵抗しないよう言ってきたが、聞かなかったので、(村では)いつか掃討にく
   ると思っていた。
    「事件」のあと、共産党の組織が置かれて、子どもたちに児童団に入れというので、入
   った。ときどき、川のそばで見張りをした。村で、児童団に入っていたのは、8、9人だ
   った。(日本軍が村を襲っておおぜい殺した後で、恐くなかったか?) 不怕(怖くなか
   った)」。
                                         佐藤正人
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