昨年11月2日に、文開瓊さんが、「日寇惨殺旦場同胞 哀嘆長恨歌」をうたってくれたとき、おおくの村人が聞いていた。そのひとりの文玉方さん(1928年生)に話を聞かせてもらった。文玉方さんは、つぎのように話した。
「あのとき、母と一緒に村の外にいたので助かった。父は日本軍が来る前に亡くなっ
ていた。
日本軍がいなくなってから、遺体を牛車で何回も運んだ。殺された人がおおくて、運
ぶのに女性も手伝って牛車で何人もいっしょに運んだ。
家族で1人だけ生き残った人が何人もいた。ひとつの家で5~6人の殺されたところもあっ
た。ある家で父親がひとりだけ外にしごとに出ていて助かったが、その後、日本軍に殺
されたという話も聞いた。
耳がよく聞こえない80歳の女性がいた。日本軍が戸をたたいたが、はっきり聞こえ
ず、戸をあけたら、家の入り口の土間の敷居に首を押し付けられ、刀で首を切り落とさ
れた。3か月の子どもを背負って逃げたが、うしろから撃たれて子どもが殺され、そのあ
と殺された母親もいた。
当時の村の人口は1000人ほどだった。洞くつに隠れて助かった人も多かった。日本軍
がときどき来るから、あらかじめ家々で地穴を掘っていた。
日本軍は抵抗しないよう言ってきたが、聞かなかったので、(村では)いつか掃討にく
ると思っていた。
「事件」のあと、共産党の組織が置かれて、子どもたちに児童団に入れというので、入
った。ときどき、川のそばで見張りをした。村で、児童団に入っていたのは、8、9人だ
った。(日本軍が村を襲っておおぜい殺した後で、恐くなかったか?) 不怕(怖くなか
った)」。
佐藤正人
「あのとき、母と一緒に村の外にいたので助かった。父は日本軍が来る前に亡くなっ
ていた。
日本軍がいなくなってから、遺体を牛車で何回も運んだ。殺された人がおおくて、運
ぶのに女性も手伝って牛車で何人もいっしょに運んだ。
家族で1人だけ生き残った人が何人もいた。ひとつの家で5~6人の殺されたところもあっ
た。ある家で父親がひとりだけ外にしごとに出ていて助かったが、その後、日本軍に殺
されたという話も聞いた。
耳がよく聞こえない80歳の女性がいた。日本軍が戸をたたいたが、はっきり聞こえ
ず、戸をあけたら、家の入り口の土間の敷居に首を押し付けられ、刀で首を切り落とさ
れた。3か月の子どもを背負って逃げたが、うしろから撃たれて子どもが殺され、そのあ
と殺された母親もいた。
当時の村の人口は1000人ほどだった。洞くつに隠れて助かった人も多かった。日本軍
がときどき来るから、あらかじめ家々で地穴を掘っていた。
日本軍は抵抗しないよう言ってきたが、聞かなかったので、(村では)いつか掃討にく
ると思っていた。
「事件」のあと、共産党の組織が置かれて、子どもたちに児童団に入れというので、入
った。ときどき、川のそばで見張りをした。村で、児童団に入っていたのは、8、9人だ
った。(日本軍が村を襲っておおぜい殺した後で、恐くなかったか?) 不怕(怖くなか
った)」。
佐藤正人