■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 21
第10回海南島「現地調査」 4
★楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村で
邢亜响さん(1923年生。黎族)は、2006年3月31日、黒眉村の自宅の前でつぎのように話した。
「はじめて日本軍がこの村に来たときは、逃げた。銃を持って、山に逃げた。何日間か
逃げていた。戻ってきたら、家が全部焼かれていた。家を建てなおすと、また日本軍が
来て全部焼かれてしまった。建てなおしては焼かれ、また建てなおしては焼かれ……。
当時の家は、草葺でかんたんだから何回も建てなおした。(日本軍の)人数は、わから
ない。
保長が守ってくれた。保長が守ってくれなかったら、年寄り、子どもは、つかまって
殺されたかもしれない。保長は40歳くらいだった。日本軍が来ないときは、農業をして
いた。山のふもとで、保長は農業をしている人たちを守っていた。
日本軍と何回も戦った。18歳から戦った。仲間は50人くらい。戦って逃げて、戦って
逃げて、火薬を詰めて、戦って逃げて。日本兵を殺して銃を奪ったら、すぐに共産党に
わたした。50人はみんな黒眉村の人。
‘我們是只有鋤頭、没有家’。
(当時は)死んでも、光栄だと思った。戦友は足をけがした。日本軍、国民党軍、黒衣
軍(漢奸が連れてきた国民党軍の人?)。
日本軍が来たとき、逃げられなかった人は、殺された。人数はわからない。
機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。日本兵
を殺して、銃を奪った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射
った。わたしたちの銃はよくなかった。いのししなどを撃つ銃で、火薬を入れて使う。
銃はいまもある(家の中から持ってきて見せてくれた)。弓矢も使った。昔は、矢は
鉄だった。矢もあるよ((家の中から持ってきて見せてくれる)。
歌を歌いながら戦った。遊撃隊は、みんな歌えた。
‘日本鬼的大炮 コッコココー(擬声語、大炮の音)
我們是做農的 打到敵人大炮 為国光栄 不做亡国奴’
右足のももと尻の間を射たれたことがある。高揚感があった。
戦わないときは、農業をして、家族を養っていた。日本軍が来ないときは、家族とい
っしょに暮らしていた。でもあまり家に帰って来ることができなかった。漢奸がいるか
ら。
50人の中には、女性兵士もいた。女性兵士は、炊事をした。
老包嶺で7日間、連続して戦ったこともあった。黒眉村は、もとは老包嶺のふもとにあ
った。今は、人は住んでいない。大陸から来た人がバナナ園にしている。生産もできな
いし、交通も不便だし、解放後、村がここに移った。日本軍、国民党軍が出て行った後
に。
日本軍が来たのは、わたしが生まれたもとの黒眉村だ。
日本が敗けたことは知らなかった。後で、共産党が知らせてきた。それを聞いて、落
ち着いて生産にも集中できた。牛を日本軍にとられていたので、政府から金を借りて、
牛を買った。(そのとき以後、日本人を見るのははじめてか?)はじめてだ。(いま、
日本人を見て、どう考えるか?)いい人だったら友好的に対する。いい人でなかった
ら、戦う。
ふたりの日本兵が椰子を盗んだことがあって、村のひとが捕まえた。ふたりは、自分
たちはいい人間だといって、助けてくれといったので、逃がした」。
邢亜响さんは、別れるとき、わたしたちに、「さようなら、同志よ」といって手を振ってくれた。邢亜响さんの「党員証」には、「1993年7月1日 共産党参加五十年」と書かれてあった。
2006年3月31日から5年後、2011年3月1日に、わたしたちは黒眉村を再び訪ねた。1923年生まれの邢亜响さんが、しっかりした足どりでわたしたちを迎えてくれた(このブログの2011年4月19日~4月25日の「黒眉村」1~6をみてください)。
佐藤正人
第10回海南島「現地調査」 4
★楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村で
邢亜响さん(1923年生。黎族)は、2006年3月31日、黒眉村の自宅の前でつぎのように話した。
「はじめて日本軍がこの村に来たときは、逃げた。銃を持って、山に逃げた。何日間か
逃げていた。戻ってきたら、家が全部焼かれていた。家を建てなおすと、また日本軍が
来て全部焼かれてしまった。建てなおしては焼かれ、また建てなおしては焼かれ……。
当時の家は、草葺でかんたんだから何回も建てなおした。(日本軍の)人数は、わから
ない。
保長が守ってくれた。保長が守ってくれなかったら、年寄り、子どもは、つかまって
殺されたかもしれない。保長は40歳くらいだった。日本軍が来ないときは、農業をして
いた。山のふもとで、保長は農業をしている人たちを守っていた。
日本軍と何回も戦った。18歳から戦った。仲間は50人くらい。戦って逃げて、戦って
逃げて、火薬を詰めて、戦って逃げて。日本兵を殺して銃を奪ったら、すぐに共産党に
わたした。50人はみんな黒眉村の人。
‘我們是只有鋤頭、没有家’。
(当時は)死んでも、光栄だと思った。戦友は足をけがした。日本軍、国民党軍、黒衣
軍(漢奸が連れてきた国民党軍の人?)。
日本軍が来たとき、逃げられなかった人は、殺された。人数はわからない。
機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。日本兵
を殺して、銃を奪った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射
った。わたしたちの銃はよくなかった。いのししなどを撃つ銃で、火薬を入れて使う。
銃はいまもある(家の中から持ってきて見せてくれた)。弓矢も使った。昔は、矢は
鉄だった。矢もあるよ((家の中から持ってきて見せてくれる)。
歌を歌いながら戦った。遊撃隊は、みんな歌えた。
‘日本鬼的大炮 コッコココー(擬声語、大炮の音)
我們是做農的 打到敵人大炮 為国光栄 不做亡国奴’
右足のももと尻の間を射たれたことがある。高揚感があった。
戦わないときは、農業をして、家族を養っていた。日本軍が来ないときは、家族とい
っしょに暮らしていた。でもあまり家に帰って来ることができなかった。漢奸がいるか
ら。
50人の中には、女性兵士もいた。女性兵士は、炊事をした。
老包嶺で7日間、連続して戦ったこともあった。黒眉村は、もとは老包嶺のふもとにあ
った。今は、人は住んでいない。大陸から来た人がバナナ園にしている。生産もできな
いし、交通も不便だし、解放後、村がここに移った。日本軍、国民党軍が出て行った後
に。
日本軍が来たのは、わたしが生まれたもとの黒眉村だ。
日本が敗けたことは知らなかった。後で、共産党が知らせてきた。それを聞いて、落
ち着いて生産にも集中できた。牛を日本軍にとられていたので、政府から金を借りて、
牛を買った。(そのとき以後、日本人を見るのははじめてか?)はじめてだ。(いま、
日本人を見て、どう考えるか?)いい人だったら友好的に対する。いい人でなかった
ら、戦う。
ふたりの日本兵が椰子を盗んだことがあって、村のひとが捕まえた。ふたりは、自分
たちはいい人間だといって、助けてくれといったので、逃がした」。
邢亜响さんは、別れるとき、わたしたちに、「さようなら、同志よ」といって手を振ってくれた。邢亜响さんの「党員証」には、「1993年7月1日 共産党参加五十年」と書かれてあった。
2006年3月31日から5年後、2011年3月1日に、わたしたちは黒眉村を再び訪ねた。1923年生まれの邢亜响さんが、しっかりした足どりでわたしたちを迎えてくれた(このブログの2011年4月19日~4月25日の「黒眉村」1~6をみてください)。
佐藤正人
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