文吉華さんに聞きたいことは尽きなかったが、6時を過ぎ、陽が落ちかけてきたので、長時間の証言に感謝して別れた。
旦場村の家は、石積みの塀で囲まれている。その壁の間の道をとおって村の入り口の広場に向かった。向こうから牛の群れを連れた人が来た。放牧から戻ってきたのだろう。村のなかの小さな空き地に牛がたくさんいて、そばを通りすぎるわたしたちを見つめていた。
周囲の石の塀が崩れ、土台だけが残っているところがあった。73年前に日本軍に焼かれた家の跡だと、村人が教えてくれた。
昌化江河口の最大の中洲全域が旦場村である。昌化江下流の北側(右岸域)にある昌城村、黄羌村、浪炳村、新城村、光田村、耐村、大風村などをも日本軍は襲撃した。
郭周権「光田村惨案」(政協昌江黎族自治県委員会文史工作室編『昌江文史』第六輯〈暴行与反暴行専輯〉、1997年1月)に、“1945年5月に日本海軍横須賀第4特別陸戦隊の日本兵が、昌江黎族自治県昌城郷光田村(当時は、大光郷光田村)を襲撃し村人を惨殺したと”書かれている。
趙志賢・王文卿・世東整理「日軍対耐村群衆的惨害」(『昌江文史』第六輯)には、日本軍が1939年9月、10月、1942年3月、10月に耐村を襲撃したときのことを語る村民(李朝栄さん、符金姨さんら4人)の証言が記録されている。
趙志賢・世東・王文卿整理「日寇在浪炳村的暴行」(『昌江文史』第六輯)には、昌城を拠点とする日本軍によって、1940年9月6日、1941年7月9日、7月21日、1942年6月に浪炳村が襲われたときのことを語る村民(李隆石さん、洪人瑞さん)の証言と、日本軍に殺された村人36人の名が記録されている。
この地域を襲撃したのは日本海軍横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の将兵であった。
1945年~46年の「香港裁判」で青山茂雄元横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令と佐々學元横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令軍医長に絞首刑判決(後に減刑)がだされた。判決理由はオーストラリア軍捕虜虐待(「海南島八所海軍俘虜収容所事件」)であった。海南島における民衆虐殺・性犯罪・村落破壊にかかわって裁判にかけられた横須賀鎮守府第4特別陸戦隊関係者は一人もいない(このブログの2010年5月6日~9日の「「旧海軍戦犯」」3~6、および2012年2月4日の「「広東裁判」・「香港裁判」」9をみてください)。
佐藤正人
旦場村の家は、石積みの塀で囲まれている。その壁の間の道をとおって村の入り口の広場に向かった。向こうから牛の群れを連れた人が来た。放牧から戻ってきたのだろう。村のなかの小さな空き地に牛がたくさんいて、そばを通りすぎるわたしたちを見つめていた。
周囲の石の塀が崩れ、土台だけが残っているところがあった。73年前に日本軍に焼かれた家の跡だと、村人が教えてくれた。
昌化江河口の最大の中洲全域が旦場村である。昌化江下流の北側(右岸域)にある昌城村、黄羌村、浪炳村、新城村、光田村、耐村、大風村などをも日本軍は襲撃した。
郭周権「光田村惨案」(政協昌江黎族自治県委員会文史工作室編『昌江文史』第六輯〈暴行与反暴行専輯〉、1997年1月)に、“1945年5月に日本海軍横須賀第4特別陸戦隊の日本兵が、昌江黎族自治県昌城郷光田村(当時は、大光郷光田村)を襲撃し村人を惨殺したと”書かれている。
趙志賢・王文卿・世東整理「日軍対耐村群衆的惨害」(『昌江文史』第六輯)には、日本軍が1939年9月、10月、1942年3月、10月に耐村を襲撃したときのことを語る村民(李朝栄さん、符金姨さんら4人)の証言が記録されている。
趙志賢・世東・王文卿整理「日寇在浪炳村的暴行」(『昌江文史』第六輯)には、昌城を拠点とする日本軍によって、1940年9月6日、1941年7月9日、7月21日、1942年6月に浪炳村が襲われたときのことを語る村民(李隆石さん、洪人瑞さん)の証言と、日本軍に殺された村人36人の名が記録されている。
この地域を襲撃したのは日本海軍横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の将兵であった。
1945年~46年の「香港裁判」で青山茂雄元横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令と佐々學元横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令軍医長に絞首刑判決(後に減刑)がだされた。判決理由はオーストラリア軍捕虜虐待(「海南島八所海軍俘虜収容所事件」)であった。海南島における民衆虐殺・性犯罪・村落破壊にかかわって裁判にかけられた横須賀鎮守府第4特別陸戦隊関係者は一人もいない(このブログの2010年5月6日~9日の「「旧海軍戦犯」」3~6、および2012年2月4日の「「広東裁判」・「香港裁判」」9をみてください)。
佐藤正人