三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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旦場村で 8

2013年02月07日 | 海南島
 文吉華さんに聞きたいことは尽きなかったが、6時を過ぎ、陽が落ちかけてきたので、長時間の証言に感謝して別れた。
 旦場村の家は、石積みの塀で囲まれている。その壁の間の道をとおって村の入り口の広場に向かった。向こうから牛の群れを連れた人が来た。放牧から戻ってきたのだろう。村のなかの小さな空き地に牛がたくさんいて、そばを通りすぎるわたしたちを見つめていた。
 周囲の石の塀が崩れ、土台だけが残っているところがあった。73年前に日本軍に焼かれた家の跡だと、村人が教えてくれた。

 昌化江河口の最大の中洲全域が旦場村である。昌化江下流の北側(右岸域)にある昌城村、黄羌村、浪炳村、新城村、光田村、耐村、大風村などをも日本軍は襲撃した。
 郭周権「光田村惨案」(政協昌江黎族自治県委員会文史工作室編『昌江文史』第六輯〈暴行与反暴行専輯〉、1997年1月)に、“1945年5月に日本海軍横須賀第4特別陸戦隊の日本兵が、昌江黎族自治県昌城郷光田村(当時は、大光郷光田村)を襲撃し村人を惨殺したと”書かれている。
 趙志賢・王文卿・世東整理「日軍対耐村群衆的惨害」(『昌江文史』第六輯)には、日本軍が1939年9月、10月、1942年3月、10月に耐村を襲撃したときのことを語る村民(李朝栄さん、符金姨さんら4人)の証言が記録されている。
 趙志賢・世東・王文卿整理「日寇在浪炳村的暴行」(『昌江文史』第六輯)には、昌城を拠点とする日本軍によって、1940年9月6日、1941年7月9日、7月21日、1942年6月に浪炳村が襲われたときのことを語る村民(李隆石さん、洪人瑞さん)の証言と、日本軍に殺された村人36人の名が記録されている。
 この地域を襲撃したのは日本海軍横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の将兵であった。
 1945年~46年の「香港裁判」で青山茂雄元横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令と佐々學元横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令軍医長に絞首刑判決(後に減刑)がだされた。判決理由はオーストラリア軍捕虜虐待(「海南島八所海軍俘虜収容所事件」)であった。海南島における民衆虐殺・性犯罪・村落破壊にかかわって裁判にかけられた横須賀鎮守府第4特別陸戦隊関係者は一人もいない(このブログの2010年5月6日~9日の「「旧海軍戦犯」」3~6、および2012年2月4日の「「広東裁判」・「香港裁判」」9をみてください)。
                                         佐藤正人
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