三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「サルモン岬」 3

2010年11月08日 | 海南島史研究
 日本政府は、兵部省海軍部水路局を設置したのと同じ1871年に、兵部省陸軍部参謀局に間諜隊を設置し軍用地図編集を開始し、翌1872年に、兵部省を陸軍省と海軍省に二分するとともに、間諜隊を日本陸軍参謀局に移管しました。
 日本政府は、1878年に日本陸軍参謀本部地図課と測量課を設置し、1880年に参謀本部大地測量事業取調掛を、1882年に参謀本部大地測量班を設置しました。
 1888年に日本陸軍参謀本部の外局として陸地測量部が設置されましたが、その起源は1871年に設置された兵部省陸軍部参謀局内の間諜隊でした。測量・地図作成は、日本軍の間諜行為の一環でした。1945年まで、日本陸軍参謀本部の陸地測量部は、国民国家日本が領土化している地域および軍事・経済侵略をおこなおうとしている全地域の測量・地図製作をおこないました。アジア太平洋戦争敗北後、日本軍の機関としての陸地測量部は廃止され、地理調査所に変わり、1960年に地理調査所が国土地理院となっています。
 陸地測量部が最初の海南島地図を作成したのがいつなのかははっきりしませんが、陸地測量部が1910年12月10日付けで発行した清国広東省の「清華」と「萬州」の地図(100万分の1)で海南島が示されています。この地図の左側欄外に、「1898年製図1902年製版1910年鉄道補入」と書かれています。この「清華」には、1900年に日本海軍水路部がだした地図「支那海南島南岸諸港湾」と同じく、楡林港西の岬の名は、「サロモン岬」と書かれています。日本陸軍陸地測量部が作成した「清華」と「萬州」には、清国軍の砲台の位置が書き込まれており、「サロモン岬」の北方には、「三亜砲台」と書かれています。
 中華民国政府は、1936年に海南島の5万分の1の地図を作成しました。その地図を日本陸軍参謀本部陸地測量部は、1940年12月に複製しました。その全96枚の海南島地図中の「楡林港」と題された地図には、「サロモン岬」に相当する岬の名は記載されておらず、その近くに「鹿廻頭嶺」と書かれています。
                               佐藤正人
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