三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「台湾報国隊」について 3

2010年11月03日 | 台湾
 日本侵略下の海南島で、大規模な工事をおこなっていたのは、清水組(現、清水建設)と西松組(現、西松建設)でした。
 清水建設株式会社編刊『清水建設百八十年』(1984年)には、つぎのように書かれています。
    「1939年3月には、軍の命令により海南島にも進出した。
     海軍基地の建設と資源(鉄鉱石)の開発を目的として、当社と西松組はかによ
   って請負われたこの工事は、戦時中の外地における最大工事の一つに数えられ
   ている。
     当初は軍関係工事だったが、その後、石原産業、台湾拓殖、日本セメントなど
   の民間工事請負い、1942年3月には楡林に海南島出張所を接地した」(原文
   は、「元号」使用)。 

 社史には、海南島での侵略犯罪について具体的に記述していませんが、清水建設は、海南島の首都海口から南下する軍用道路に南渡江鉄橋を建設しています。この橋を、当時海南島の民衆は「鬼門関」と呼んでいたといいます(欧良柱整理「日軍修建南渡橋事略」、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下、1995年8月)。

 創業百年史編纂委員会編『西松建設創業百年史』(1978年)には、つぎのように書かれています。
     「1939年2月、日本軍の進出するところとなった海南島には無尽蔵ともいう
    べき鉄鉱石が埋蔵されていることを、日本窒素肥料の鉱山技師が発見した。こ
    のうち、もっとも有望な一ヵ所は「石碌鉱山」、他の一ヵ所は「田独鉱山」であ
    り、いずれも含有率70%以上という、世界無比の良鉱であった。
      資源不足に悩む日本にとっては願ってもない宝庫であり、海軍は前者を日本
    窒素肥料に、後者を石原産業に委託して、開発経営にあたらせることにし、開発
    工事の一切は「石碌」が西松組に、「田独」が清水組にそれぞれ特命され、西松
    組は「海軍受命会社」として登録された。
      西松組は海南島における港湾整備、鉄道建設、鉱山開発のため1941年台
    北に台北支店を、海南島に海南営業所を開設した」、
     「占領は点と線を確保したに過ぎず、一歩奥に踏み込めば、ゲリラの横行にま
    かせるほかはなく、状況はきびしかったとみるべきである。
      このような条件下では、たとえ軍のお声gかりとはいえ、企業がやすやすと
    進出できるわけがなく、結局、軍の保護下に国策として開発計画を進めるという
    異例の形となった。
      こうして、最盛期には作業員4万人以上を投入した開発工事が開始された」、
     「海南島開発の工事は、大別して三つに分けられる。第一は三亜~北黎間
    204kmの軍用鉄道建設、第二は日窒海南興業による石碌鉱山開発(西松組
    担当)、第三は石原産業による田独鉱山開発(清水組担当)である」、
     「海軍省は……軍用鉄道を北黎まで延長することを決定、1943年3月、黄
    流間80kmを2工区(第4工区、第5工区)に分け、いずれも西松組に特命し
    た」(原文は、「元号」使用)。

 1943年9月27日に閣議決定された「臺湾ニ於ケル受刑者構外作業ニ伴フ増員ニ関スル件」の添付文書に「株式会社西松組(海南島鉄道建設一、〇〇〇人、内第一回分三〇〇人)」と書かれていますが、このとき台湾の刑務所から海南島に連行された「台湾報國隊」の人たちは、黄流~北黎間の軍用鉄道建設工事をさせられたと思われます。
                                    佐藤正人
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