三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「サルモン岬」 8

2010年11月13日 | 海南島史研究
 羅煥高さんは、2009年6月に、
     「日本軍は鹿回頭村の南辺嶺にレーダーを設置した。日本軍は、三亜海岸か
    ら南辺嶺までの道路を村人につくらせた。わたしの父親も母親も日本軍に道路
    工事をさせられた。日本軍は、毎日、6~7毛をはらった。軍票だった」
とも話しました。
 南辺嶺は、「第33震洋隊」の基地がつくられた場所です。
 日本敗戦後、「第33震洋隊」の施設を、中国海軍総司令部粤越区特派員駐海南島弁事處副主任である県顕邦海軍中校が、「第103震洋隊」の施設を接収したのと同じ1945年11月30日に接収しました。防衛研究所図書館にある日本海軍の用紙に書かれた「海南警備府第三十三部隊」の「引渡目録」に添付されている地図には、南辺嶺の北西麓に、15本のトンネル、兵舎、倉庫、神社、燃料庫などの位置が示されています。関係文書には、その位置は、「三亜岬」と書かれています。
 「引渡目録」添付地図にある南辺嶺という地名は、中華民国の1936年の測図に基づいて日本参謀本部陸地測量部が1940年12月に発行した地図「三亜港」(5万分の1)にも記されています。
 「第33震洋隊」に配備された「震洋」は1人乗り、「第103震洋隊」に配備された「震洋」は二人乗りで、いずれも、ベニヤ板製のモーターボートでした。
 「第33震洋隊」の基地と「第103震洋隊」の基地の位置は接近しており、「震洋」格納トンネル開削工事をふくむ建設工事には、西松組が関係していたと思われます。
 「第32震洋隊」の基地は、陵水県(現、陵水黎族自治県)の新村湾入り口につくられていました。
 「震洋」格納トンネルを含む「第32震洋隊」基地の諸施設を、中国海軍総司令部粤越区特派員駐海南島弁事處副主任である県顕邦海軍中校が、1945年11月26日に接収しました。
 防衛研究所図書館にある「海南警備府第三十二部隊」の「引渡目録」に添付されている「海南警備府第三十二部隊軍用施設略図」には、新村港入り口の石頭山(183メートル)の麓に、12本のトンネル、兵舎、倉庫、桟橋、レール、燃料庫などが示されています。
 12本のトンネルのうち、「震洋」格納用トンネルは9本(第一坑、第二坑、第四坑、第六坑、第八坑~第十二坑)であり、第三坑は食料庫、第五坑は燃料庫、第七坑は火薬庫であり、引き渡された「震洋艇」は48隻(坑内39隻、坑外9隻)であると、「引渡目録」には書かれています。
 「第32震洋隊」の基地建設工事が具体的にどのようにおこなわれたのかは、はっきりしません。
                                 佐藤正人
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